披露宴会場のブルペン

燎(kagari)

01-敗戦投手の祝杯

 天井を埋め尽くすクリスタルのシャンデリアが、暴力的なまでの光量で会場を照らし出していた。


 拍手の音、歓喜の悲鳴、皿とカトラリーとが触れ合う硬質な音。

 視界のすべてが白く輝き、祝福という名の圧力が空間を満たしている。

 そのあまりの眩しさに、俺は目を細め、逃げ場を探すように円卓の最も端、ウェイターが配膳のために行き交う通路側の席で小さく身を縮めていた。


 新郎新婦が入場し、スポットライトが二人を包む。 純白のタキシードを着て満面の笑みで手を振っているのは、かつての俺の女房役であり、今日の主役である剛(つよし)だ。 隣に並ぶ花嫁の幸せそうな横顔。完璧な絵画のような光景だ。


「……おめでとう」


 周囲に合わせて手を叩く。周りに合わせて愛想笑いをする。早く時間が過ぎていけばいいのに。ネガティブなことを考えていると、グラスに映り込んだ自分の顔がふと目に入った。そこに映っていたのは、かつて「エース」と呼ばれた男の面影など微塵もない、ひどく疲弊した一人の会社員だった。


 安月給のツケが回ったような、少しヨレた量販店のスーツ。 連日の残業と接待で荒れた肌。 かつてマウンドで鋭く光っていた瞳は、今は濁って生気を失っている。そして、ただ時間をやり過ごすことを考えながら、どこか遠くを眺めていた。


(なんで俺、ここにいるんだろうな……)


 記憶の底から、十七歳の夏が蘇る。

 焦げ付くような土の匂い。肌を刺す真夏の太陽。 マウンドという名の孤独な丘の上で、俺は世界の中心にいた。指先に縫い目の感触を確かめ、剛のミットめがけて白球を放つ。バシッ、という快音が響くたび、スタジアムがどよめき、歓声が俺の体を包み込んだ。


『啓太、お前はプロに行ける』

『俺たちの誇りだ』


 誰もがそう言ったし、俺自身、それを疑わなかった。

 自分には輝かしい未来が約束されていると信じていた。


 だが、その全能感は、右肩の中で響いた、たった一度の乾燥した音と共に呆気なく崩れ去った。


 夢破れ、無気力に学生生活を過ごし、そのまま逃げるように就いた仕事は、俺から誇りを削ぎ落としていった。 来る日も来る日も頭を下げ、理不尽なクレームに耐え、自分の感情を殺して愛想笑いを浮かべる日々。 かつてボールを握っていた指にはペンだこができ、マウンドで培った強気な性格は、組織の歯車として摩耗し、すっかり角が取れてしまった。


 今の俺は、二十八歳。いわゆる夢なし、金なし、相手なし、だ。 剛が人生最高の晴れ舞台でスポットライトを浴びている今、俺は人生の敗戦処理をしているような気分だった。


「……あ」


 ふと、会場の反対側、新婦の友人が集まるテーブルに視線が吸い寄せられた。まるでそこだけ、空気の純度が違うかのように透き通って見えたからだ。


 ――美咲だ。


 十年という月日は、残酷なほど俺たちを別々の方向へ変化させていた。 かつての彼女は、クラスの隅で静かに笑うような、素朴で可愛らしい少女だった。

 しかし今、そこに座っている彼女は、大人の女性だけが持つ洗練された美しさを纏っていた。

 上品にまとめられた髪、鎖骨を綺麗に見せるドレス。 周囲の友人の話に耳を傾け、口元に手を当てて優しく微笑む姿は、昔よりもずっと自信に満ち、そして優雅に見えた。 彼女の周りだけ、柔らかな光が差しているようだ。それに引き換え、俺の周りに漂う空気は、カビ臭い湿気を含んでいるような気がした。


(……見つかるなよ)


 怖さの中、ほんの少しだけ残っていた、元恋人である美咲と再会したら何かが変わるだろうか……なんていう淡い期待は、一瞬で消し飛んだ。

 今の俺を見られたくない。 「あの頃輝いていた啓太くん」という記憶の標本のまま、彼女の中で死んでいたい。 こんな、背中を丸めて安酒を煽る、くたびれた中年男の姿なんて、彼女の美しい記憶の汚点以外の何物でもない。


 俺は逃げるように視線を落とし、料理の皿に顔を近づけた。 心の中で「早く終わってくれ」と念じながら。


 しかし、運命というのは、マウンド上の暴投のように、予期せぬ方向へと転がるものだ。


 ――カツ、カツ、カツ。

 ヒールの音が近づいてくる。 心臓が嫌な音を立てて跳ねた。まさか、そんなはずはない。こんな会場の隅っこに、用があるはずなんてないのに。


 香水の香りが、ふわりと鼻を掠める。 それは、俺の知っている甘いフローラルの香りではなく、もっと落ち着いた、深みのある大人の香りだった。


「久しぶりだね」


 頭上から降ってきた声に、俺は石になったように固まった。 ゆっくりと、錆びついた機械のような動きで顔を上げる。


 そこには、あの頃よりも数倍美しく、そして優しく微笑む美咲が立っていた。 俺のみすぼらしい姿を見ても、その瞳は軽蔑の色を浮かべるどころか、愛おしいものを見つけたように輝いている。


「……久しぶり、美咲」


 喉が張り付いて、うまく声が出ない。 俺の隣の空席に、彼女は当然のように腰を下ろした。そして、俺の目を真っ直ぐに覗き込み、まるで昨日も会っていたかのような親密さで、こう切り出した。


「ねえ、まだ約束は覚えている?」


 美咲の言葉に、俺は虚をつかれた。 約束? 借金でもしていただろうか。いや、そんなはずはない。最後に会ったのは十年ほど前、別れ話をした駅前のカフェだ。あの日、俺たちは何を話した? 泣きじゃくる彼女を前に、プロ野球への夢を断たれた俺は、自暴自棄になりながら……。


 俺の困惑した表情を見て、美咲は少しだけ悪戯っぽく笑った。そして、手元のグラスを細い指先でいじりながら、独り言のように続ける。


「最後のあの日、私たちが約束をしてからもう十年経ったよ」


 美咲の視線が、再び俺を射抜く。


「『もし十年経って、お互い独り身だったら結婚しよう』……あの時、私を泣き止ませるため、そしてなにより、別れるのが辛くて、素直になれなかったキミが言った、とびきりの照れ隠し」


 ドクリ、と心臓が大きく音を立てた。 記憶の底から、封印していた光景が鮮明に蘇る。


『 もし十年経ってもお互い誰とも結婚してなかったら、その時は俺が責任とる! 神に誓う! だから今は泣き止んでくれ』


 ……そうだ。そんなことを言った。

 野球を諦め、就職のために地元を離れることを決めた俺。ついて行きたいと言う彼女を突き放し、それなのに未練を断ち切れずに口にした、あまりにも子供じみた、期限付きの身勝手な約束。


 俺は完全に忘れていた。 いや、忘れることで、自分がかつて「何者か」であった時代を清算したつもりになっていたのだ。


「あんたの、じょ、冗談だろ……」


 俺は乾いた笑い声を漏らそうとしたが、喉がひきつってうまくいかなかった。 震える手で、自分の顔を、体を指し示す。


「よく見てみろよ。今の俺は、ただのくたびれたオッサンだ。かつてのエースの面影なんて欠片もない」


 言葉にするたび、惨めさが胸をえぐる。


「毎日満員電車に揺られ、上司に頭を下げ、夢も希望もすり減らして……。今の俺にあるのは、この安っぽいスーツと、内ポケットに入れたままの胃薬だけだ。君が覚えてる『啓太』は、もう死んだんだよ」


 美咲の隣にふさわしいのは、マウンドで輝いていたあの頃の俺だ。 こんな、敗戦処理をしているような俺じゃない。


「もう、俺に関わらないほうがいい。幻滅するだけだ」


 吐き捨てるように言って、視線を逸らした。 早く立ち去ってくれ。早く幻滅して、忘れてくれ。これ以上、俺の惨めな姿を暴かないでくれ。


 しかし、その願いは届かなかった。

 美咲は立ち去るどころか、俺の手を――ペンだこができ、ささくれた俺の手を――両手でふわりと包み込んだ。


「幻滅なんて、しないよ」


 美咲は静かに首を振った。その瞳は、会場のどの照明よりも温かく、俺の心の奥底を照らしていた。


「私ね、知ってるんだよ。啓太が今の会社で、誰よりも泥臭く頑張ってること。自分の手柄にならない仕事でも、誰かのために夜遅くまで残って片付けていること」


「な……なんで、そんなことを」


「風の噂。……でもね、それを聞いた時、やっぱり啓太だなって思った」


 彼女の手の温もりが、冷え切っていた俺の指先に伝わってくる。


「ユニフォームがスーツに変わっただけ。マウンドがオフィスに変わっただけだよ。キミはいつだって、誰かのために、自分のために、歯を食いしばって戦い続けてるじゃない」


 目の奥が熱くなり、視界が急速に歪んだ。


 誰も褒めてくれなかった。

  「昔は凄かったのに」と陰口を叩かれることはあっても、今の俺を認めてくれる人間なんていないと思っていた。 ただ消費され、摩耗していくだけの十年間だったのだ。


 それを、彼女だけが。 十年という空白を越えて、彼女だけが「今の俺」を見つけ出し、肯定してくれた。


「野球を辞めても、キミのその『真っ直ぐすぎて不器用なところ』は、何一つ変わってない。……私は、そんなキミがずっと誇らしかったよ」


「……っ、あ……」


 耐えきれなかった。

 ポロポロと、大粒の涙が頬を伝ってスーツの膝に落ちる。この十年間、一度だって泣かなかった。泣く資格なんてないと思っていた。 でも今、俺の中で何かが決壊した。


「……くそ、情けない……」


「情けなくなんてないよ。頑張ったね、啓太」


 美咲がハンカチで俺の涙を拭ってくれる。その仕草は、かつて汗を拭ってくれたあの夏の日と同じだった。


 俺は気づいてしまった。

 十年前、彼女と別れたのは間違いだったとか、そんな後悔じゃない。 俺は今でも、いや、あの頃よりもずっと深く、美咲のことが好きなのだと。すべてを失ったと思っていた俺に、再び「生きる意味」を与えてくれた彼女を、もう二度と手放したくないと、痛いほどに思い知らされた。


 俺はハンカチを受け取り、乱暴に顔を拭った。 涙で濡れた視界が晴れていく。腹の底から、熱い塊が込み上げてくる。


 もう、逃げない。 俺は背筋を伸ばし、美咲に向き直った。鼻声で、目は腫れているだろう。決してスマートではないけれど、今の俺にできる精一杯の誠実さを込めて、口を開いた。


「美咲」


「ん?」


 彼女は濡れた瞳を細め、優しく聞き返してくれた。


「今の俺には、昔のような豪速球は投げられない。自慢できるような肩書きもないし、毎日必死に生きるだけで精一杯の、しがないサラリーマンだ」


 一呼吸置き、俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめた。


「それでも……これからの人生、どんな時も歯を食いしばって、君のことだけは絶対に幸せにする。それだけは誓うよ」


 美咲が息を呑む音がした。


「十年越しの約束、果たさせてほしい。……俺と、結婚してください」


 会場のBGMが、スローテンポなバラードに変わった瞬間だった。 美咲の大きな瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちる。彼女は何度も、何度も深く頷き、震える声で答えた。


「……はい。……遅いよ、バカ」


 美咲が泣き笑いの表情で俺の手を握り返したその時、俺たちの止まっていた時間は、ふたたび確かな音を立てて動き出した。 会場の喧騒も、照明の眩しさも、すべてが遠い世界のことのようで、俺たちの周りだけが真空になったかのように静まり返っていた。


 俺は震える手で、彼女の華奢な肩を抱き寄せようとした。 十年分の空白を埋めるように。もう二度と、この温もりを離さないように。


「おいコラ! タイム、ターイムッ!!」


突然、マイクを通したようなデカい声が頭上から降り注ぎ、俺たちの「真空」はバリバリと音を立てて粉砕された。


「えっ!?」


 驚いて二人で弾かれたように顔を上げると、いつの間にか新郎――剛が、仁王立ちで俺たちのテーブルを指さしていた。 酒で赤らんだ顔に、悪戯っ子のようなニヤニヤ笑いを貼り付けている。


「つ、剛……? お前、急になんだよ……」


「なんだよ、じゃねーよ! さっきから見てりゃあ、辛気臭い顔して下向いてたと思ったら、急に二人だけの世界に入り込みやがって!」


 剛は、会場中に響き渡る声で叫び続ける。


「聞こえてんだよ! 『十年越しの約束』だぁ? 『絶対幸せにする』だぁ? くぅ〜っ! くっさいセリフ吐きやがって! 青春ドラマかお前らは!」


「ぶっ……!」 「ははは!」


 静かだった周囲のテーブルから、堪えきれない笑い声が噴き出した。 俺の顔から火が出るどころか、全身の血液が沸騰して蒸発しそうだった。


「き、聞いてたのか!? ていうかでけえ! 声がでけえよバカ!」


俺が慌てて立ち上がると、剛は辺りを見渡し、さらに声を張り上げた。


「うるせえ! 聞けえ! こいつら、高校時代に別れたカップルなんすけどね、今日ここでヨリ戻してプロポーズ決めたんすよー!!」


「や、やめろ!」


 会場中がドッと沸いた。拍手と指笛、そして冷やかしの声が四方八方から飛んでくる。 美咲は顔を真っ赤にして両手で顔を覆っているが、その指の隙間からは幸せそうな笑みがこぼれていた。


 剛は俺の目の前に立つと、肩をバシン! と骨が軋むほどの強さで叩いた。 その手は熱く、そしてかつてマウンドで俺の背中を押してくれた時と同じくらい、力強かった。


「まったくよぉ……。今日は俺たちが主役の結婚式なんだよ。客席の片隅で、勝手にクライマックス迎えてんじゃねえよ! お前の結婚式じゃねーんだぞ!」


 剛のツッコミに、この日一番の爆笑と温かい拍手が巻き起こる。 俺は観念して、頭を抱えながらも笑うしかなかった。


「……悪い。全部持ってっちまった」


「バーカ。……お前の番はもう少し先だ」


 剛が、俺にだけ聞こえる声でボソリと言った。 その瞳は、ふざけた態度の奥で、親友の再起を誰よりも喜んで潤んでいるように見えた。


 俺は大きく息を吸い込み、かつての相棒に向かって力強く頷いた。


「ああ。……見てろよ」


 スポットライトが俺たちを照らす。 それはもう、逃げ出したくなるような眩しい光ではない。 これからの人生という延長戦を、美咲と共に戦い抜くための、始まりの合図だった。

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