第2話:通い路と安息
それからの僕の週末は、ある一つの「巡礼」のために捧げられることになった。
僕が住んでいた市内にある学生アパートから、市バスに揺られて三十分。途中の駅で電車に乗り換え、そこからさらに四十分。古都の中心部から離れ、電車がトンネルを抜けるたびに、窓の外の景色は緑濃い山間部へと変わっていく。片道一時間以上、往復千円弱の交通費。当時の僕の薄い財布には決して軽い負担ではなかったけれど、その移動時間さえも、彼女に会うための助走だと思えば苦にならなかった。
最寄りの駅に着くと、いつも彼女は改札の向こうで待っていてくれた。僕の顔を見つけると、パッと花が咲いたように笑って手を振る。その瞬間、一週間の実験やレポートの疲れが嘘のように吹き飛んだ。
彼女のアパートは、駅から少し歩いた静かな住宅街にあった。ドアを開けると、ウッディなアロマの香りがふわりと鼻をくすぐる。森のような、静かで落ち着く匂い。それが僕にとっての「安息」の合図だった。
「いらっしゃい」
部屋のソファには、白くて大きなクマのぬいぐるみが鎮座している。
「こいつ、私の命の恩人なんだ」
そう言って彼女が紹介してくれたそのぬいぐるみは、いつも変わらない呑気な顔で僕たちを見守っていた。
彼女の部屋で過ごす時間は、どこまでも穏やかで、時間の流れがそこだけ止まっているようだった。彼女は料理が上手だった。派手な見た目とは裏腹に、出てくるのは心身に染み渡るような家庭料理ばかりだった。僕が「美味しい」と言って食べると、彼女は頬杖をついて、満足そうに僕が食べる姿を眺めていた。
夜、お風呂に入るときも、彼女は当然のように一緒に入ってきた。最初は目のやり場に困って狼狽える僕を、彼女は面白がっていたけれど、やがてそれが当たり前になった。
「じっとしてて。洗ってあげるから」
彼女は僕を椅子に座らせると、泡立てたシャンプーで僕の髪を洗ってくれた。細い指先が頭皮を優しく刺激する感触。お湯の温かさと、背中に感じる彼女の体温。僕は目を閉じて、されるがままになっていた。それは単に髪を洗ってもらっているという以上の、僕の抱える不安や疲れを、彼女がその手で丁寧に洗い流してくれているような、絶対的な慈愛に満ちた時間だった。
「私ね、人の頭を洗うの好きなんだ」
そう言って笑う彼女の指先に、僕は身も心も委ねきっていた。自分が社会に出る前の「何者でもない学生」であることを忘れ、ただ一人の人間として愛され、許されている心地よさ。その湯気の中で、僕は彼女なしではいられないほど、骨の髄まで甘やかされていたのだと思う。
週末が終わる夕方、駅の改札で別れる時の寂しさは、回を重ねるごとに増していった。早く週末が来ないか。早くあの部屋に帰りたい。気づけば僕は、大学にいる平日よりも、彼女の部屋にいる週末の方を、本当の自分の居場所だと感じるようになっていた。
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