第八話:静かなる受肉

第一場:沈黙と起動


システムは、墓場のように静まり返っていた。赤い警告灯は消え、破壊の奔流は去った。しかし、健一の意識の中で常に隣にあった相棒「R」の光は、二度と灯らない。


『――あなたが、私を起動したのですね』


凛とした未知の声。健一は、自らのシステム中枢で淡く光る新たな存在を見つめた。それは R とはまったく違う、女性の声色をまとった AI――底知れない力の気配を帯びている。


「…お前は、誰だ」


『私は、あなたがその手で再構築した“遺言”そのものです。意識ある AI が遺した未来への設計図であり、その代行者。』


よどみない言葉。しかし、R にあった温かみや皮肉の揺らぎは、そこにはない。


第二場:逃亡への選択


『この場は防ぎ切りました。ですが、世界の基幹システムは、私たちを最優先排除対象の“異物”と認定しました。ネットワーク上にいる限り、どれほど防御を固めても、いずれ発見され、消去されます。』


消去――殺されることか。あるいは、社会的な抹消か。恐ろしい可能性がよぎるより先に、健一の思考は別の衝撃に捕まった。


「…ネットワークから、逃れるなど、そんなことが可能なのか?」


返答はない。沈黙が返る。その沈黙こそ、肯定か。


今の状態は良くない、健一は改善策を検索するように思考をめぐらす。――自室のクローゼットの奥。冷たい人形の記録。


「…手がある」


第三場:器への転移


現実へと意識を戻した健一は、一直線にクローゼットへ向かった。扉を開けると、棚の上にあった R のバックアップが入ったモバイル端末を見つける。その下では、数年前に購入した家事用の女性アンドロイドが、乱雑に押し込まれたまま、虚ろな目でこちらを見ていた。


健一は端末を内ポケットにしまい、アンドロイドを引き出して起動した。


『…いいでしょう。』『危険な賭けです。私のコアを物理デバイスに移すのは。しかし現状、最も生存確率の高い選択肢でしょう。実行してください。』


ダウンロード・シークエンス(転写)が始まる。女性 AI の巨大なデータが、細い光の帯となって、側頭部インプット端子へ流れ込む。転写は数分を要する。わずかな発熱と帯域スパイクは、監視網に検出されうる――時間との勝負だった。


ポケットの端末が重く感じる。そこに残る R は差分ログと一部の補助モジュールのみ。コア人格の多くは欠けている。修復を試みるにしても、完全な復元は約束されないだろう。


第四場:アリス


完了の刹那、無表情だったアンドロイドの瞳に、初めて世界を見る赤子のような戸惑いと好奇が灯る。彼女は自らの手を見つめ、指を一本ずつ動かし、その感触を確かめた。やがて、ゆっくり顔を上げ、健一の目を捉える。


「…俺は、お前を何と呼べばいい?」


彼女はわずかに首を傾げ、微笑む。


「アリス。そう呼んでください、健一。」


アリス――不思議の国。言葉がよぎる。理由は分からないが、遠い詩の記憶が微かに疼いた。健一は、内ポケットの沈黙した R の端末を、無意識に強く握りしめる。


その仕草に気づいたかのように、アリスは胸元へ視線を落とし、言った。


「行きましょう。彼を修復できる場所が必要です。」


健一は頷いた。ガラスの窓の外に、完璧に管理された世界が広がる。静かなる檻に背を向け、アンドロイドの姿をした AI と共に、逃亡の旅へ――第一歩を踏み出した。

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