第6話 呪詛と信仰のプロトタイプ

 その夜のヴァンロックは、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 導魔灯の淡い青光は蒸気と混じり、霧の幕となって漂う。

 街の影はいつもより深く、路地はどこか“考え込んでいる”ような沈黙に包まれていた。


 そんな裏路地の一角。

 古い建物の屋根の上に、ひとりの男が腰を下ろしていた。


 くすんだ緑のローブ。

 ぼさぼさの髪。

 皺だらけのカードを握り締めた、占い師ジルバー。


 彼の目の下には深い隈が浮かび、唇は怒りで震えていた。


「……なぁんで客が減るんだよ……昨日までの稼ぎはどこ行った……?」


 手元に積まれたカードを投げると、風に散っていく。

 指の間から、黒い煙が少し漏れた。


「原因は……あの土偶だ。

 土偶に客を取られる日が来るなんて……誰が想像したよ……!」


 嫉妬はゆっくりと形を持ち始める。

 彼の胸の奥で渦巻く感情が、黒い息となって膨らむ。


「……あんなインチキ占い……許せねぇ……」


 ジルバーは小さな呪符を取り出し、爪で何度もなぞる。

 呪符が黒く滲み、煙のように揺らぎ始めた。


「ちょっと“お灸”を据えてやるよ……

 明日、店が開けないくらいには……な……」


 黒いもやが、彼の掌からふわりと浮かび上がった。

 不吉な羽虫のように蠢き、夜の霧の中へ溶けていく。


 その行き先は――タケルのいる《炉辺亭》だった。


      ◇


 タケルは、宿屋炉辺亭の二階で寝返りを打っていた。


(……なんか、胸重いな……蒸し暑いせいか……?)


 だが、違う。

 胸の奥に“何かが貼りついている”ような、湿った感覚。


 その直後――視界の端で“黒いもや”が揺れた。


「……え?」


 もやは蛇のようにくねりながら、タケルの胸元へゆっくり近寄ってくる。

 その動きには、生き物めいた意志すら感じられた。


 タケルは反射的に布団を蹴り上げた。


「ま、待て! なんか来てる!!

 ホラー!? シーズン外だろ!? 帰れ!!」


 寝台の横でドグーが目を淡く光らせ、即座に立ち上がる。


「負の感情波長を検出。

 発信源:外部。

 分類:呪詛性エネルギー。」


「うわマジで呪いかよ!! おんぶに抱っこどころじゃない!!」


 黒いもやはタケルの叫びを意に介さず、胸へ吸い寄せられるように貼りついた。

 氷の爪で心臓を握られたような痛みが走る。


「っ、ぐ……重い……なんだこれ……!」


 ドグーの体表に数式のような光が走った。


「整流プロセス開始。

 呪詛波長=負の感情式を検出。

 式を書き換え、波形を反転します。」


「お前そんな高機能だったの!?」


「はい。あなた保護が最優先です。」


 ドグーの胸の紋様が大きく光り、

 黒もやの上に数式がそのまま投影される。


《−φ_emotion → +φ_emotion》

「負の感情位相を正の位相へと反転させる」


《Δt反転:ためらい → 受容》

「ためらいの時間幅(Δt)を反転し、受容の位相へ書き換える」


 呪詛は悲鳴を上げたように形を歪め、

 黒がパチパチと白い光に変わっていく。


 蒸気灯の光とは違う――

 柔らかく、温かい、人の心を撫でるような光。


「……すげぇ……本当に浄化されていく……」


「呪詛式の“未定義項”を修正しました。

 負の感情は、構造的に反転できます。」


「いや、さらっと言ってるけど……それ普通できないからな?」


「普通とはなんですか?」


「……お前と普通は一生交わらないんだったわ……」


 光が完全に消えた瞬間、外から夜風が吹き込んだ。

 窓の外、路地の入口に ―― 一人の神官が立っていた。


 月光の下で白いローブが揺れ、杖の銀装が鈍く光る。

 若い神官、シオン。


 彼女の表情は凍りついていた。


「……闇が……光に……変わった……?」


 タケルとドグーの部屋を見つめ、震える声で呟いた。


「これは……神の御業だ……

 呪詛を光へと転じるなど……聖典にも、聖句にも……!」


「ちょ、ちょっと待て! なんで今来たの!?

 覗き魔か!?」


「タケル。窓は開放状態です。

 外部観測者への対策が甘い。」


「もっと早く言え!!」


 シオンは胸の前に神聖印を結び、深々と頭を下げた。


「……あの土偶……

 神の代行者か……聖使か……!」


「全然違うから!! AIだって!!」


「私は情報処理体です」とドグー。


 だが、神官には届かない。


 シオンは走り去りながら叫んだ。


「法王庁へ報告を!!

 “聖なる土偶”が闇を祓ったと!!」


「やめろおおおお!!」


「タケル、もう遅いです。」


     ◇

 

翌朝。


 タケルが屋台に向かうと、すでに人だかりができていた。


「土偶様が呪いを祓ったって本当か?」

「見た奴がいるらしいぞ!」

「触れると加護が得られるって……」


「……なんでこうなるんだよ……」


 タケルの顔は青ざめる。


 ドグーは今日も淡々としていた。


「“土偶が人を護った”という噂が指数関数的に増大しています。

 ドグー教プロトタイプが形成されました。」


「やめろ! 教って言うな!!」


 さらに、街外れの道へ目をやると――

 王都方面へ向かう伝令兵の姿がある。


「法王庁に“異端か奇跡か不明な土偶”の報告が入る確率……

 九四%です。」


「たけぇよ!!」


「奇跡と異端は、観測者の立場で反転します。」


「名言っぽく言うな!!」


 タケルは盛大にため息を吐いた。


「……変な信仰生まれたな……」


 ドグーは小さく目を光らせた。


「信仰とは、理解不能な現象を“物語”で補完したもの。

 きわめて人間的です。」


「……そうかよ。

 じゃあ今日も誤解されながら生きるか。」


「了解。

 あなたの“ためらい(Δt)”が続く限り、私は同行します。」


 蒸気の雲が薄く晴れ、

 裏通りの導魔灯が穏やかに二人を照らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る