混沌に友情あれ

白里りこ

混沌に友情あれ

 私には知る由もなかったが、世界は混沌としていた。


 幼い頃の私は、休み時間が来るのを恐れていた。制約から放たれて自由行動を課されるのが怖かった。周りの子はいつも、私になど見向きもせずに、教室を風のように走って出ていく。

 鈍間な私は、慌てて追い縋る。約束を取り付けるために。

「ねえ、一緒に遊ぼう」

「いいよ」

 幼稚園にいた頃、私は毎日このやり取りをしていた。さもなくば置き去りにされてしまうという焦燥感に、ひりひりと身を焼かれながら。

 共同体に入れて貰うには、まず急いでその構成員に追いつき、続いて許可を取る必要があるのだ。世の中の流れはいつも速く、愚鈍な卑賤の者を待ってくれるほど暇ではない。

 そして追いついたとしても、許可が降りないことは多い。

「ねえ、仲間に入れて」

「駄目」

「でも、他の子は入れてるのに」

「あんたは駄目。遊ぶ人がいないなら、一人で本でも読んでれば?」

 小学校にいた頃、私はしばしばこのようなやり取りをしていた。自分だけ拒絶されるという不条理に胸を潰され、家で一人涙を滲ませながら。

 よく分からないが、私はそういう存在だった。やがて私は、世の中の仕組みと己の身分とはそういう物なのだと、学び取った。

 共同体はいつも私より遥かに高い位置にあり、そこへの通行許可証の発行権は共同体の方が握っている。申請要件は、第一に私が頑張るかどうか、第二に私に運があるかどうかだった。どちらも揃っていなければ認可されない。そのようにして世の中は在った。

 但し時々、慈悲の手が差し伸べられることがある。

 例えば、高校にいた頃のこと。私は人生で初めて、友人と共に下校中にコンビニでアイスを購入した。

「みんな買った? それじゃあ、帰ろうか」

 共同体の面々はアイスを食べながら、私の通学路とは反対方向にある駅へぞろぞろと歩き始めた。今回は許可証が出なかったようだ。私は奈落を覗いたような落胆に努めて気づかぬふりをして、一人でアイスを齧りつつぶらぶら帰ることにした。しかし二人の友人が私を引き留め、コンビニ前に留まって私と共にアイスを食べる提案をした。

「折角みんなで買ったんだから」

 私は遠慮しようとしたが、説得されたので、三人で突っ立ってアイスを食べた。冷たい甘味を口にしながら、私はしみじみと胸が温まるのを感じた。寛大な友人たちには、深々と感謝せねばならない。

 他にも周りには何人か、そういう親切な友達がいて、私は随分と助けられた。運悪く許可証の申請が通らないことがあっても、私がさほど気に病まずに生きられたのは、彼らの力添えあってこそだった。


 世界は依然、混沌としていた。私はまだそれを知らなかった。


 大学にいた頃、私は共同体の位置まで昇るために奔走し、何かと空回りしていた。

 例えば私はある時、サークル活動のために借りた部屋の鍵を返す役目を仰せつかった。共同体はもう、帰宅の為に正門へと歩き始めていた。私は一人で事務室へと走っていき、無事に鍵を返却した後、共同体のいる場所まで走って戻った。

 こういった私の行動は、共同体の面々には珍妙に映っていたらしかった。彼らは時たま困惑した様子で私を見た。その理由が私には分からなかった。


 実の所、世界は既に開闢の時を迎えていた。ただ私がそのことを認識できていなかっただけだった。


 そして私はある時、サークル活動の帰り道で、部室に忘れ物をしてしまったことに気づいた。一人で取りに戻れば、許可証は失効する可能性がある。一緒に正門まで歩いていた四人の共同体と再び合流するためには、私が頑張ることが求められるだろうと、私は考えた。

「ごめん、忘れ物しちゃった。先に行ってて。後で追いつくから」

 言い置いて、私は走った。思えばいつも私は走っていた。それは置いて行かれないようにする為の当然の努力であって、いつしか私は疑念を持つことすらしなくなっていた。

 忘れ物を取り、部室から出た私は、また走って共同体の後を追った。彼らはどこまで進んだろうか。駅まで着いていたら、きっと電車に乗って帰ってしまう。そうなる前に急ごう。頑張ろう。

 そうして大学構内の道の角を曲がった私の前に顕現したのは、共同体の面々が四人揃って立ち話をしながら待っている場面だった。

「えっ!?」

 私はびっくりして足を止めた。もう、本当に、心の底から驚いていた。

「待っててくれたの!?」

「うん」

 四人は当たり前のように頷いた。

 全くもって信じ難い出来事だった。

 私は、仲間が自分と同じ高さに位置しているのを目の当たりにし、四人が私をその一員として無条件に認可している事実を受け取った。


 すると、光があった。


 私はこの時初めて、己がずっと暗闇の中にいたことを知った。己がずっと盲目であったことを知った。

 今、私の目は開かれた。

 四人の手によって、世界は創造された。彼らは私を闇から連れ出して、光の存在を知らせた。光は友情と名づけられていた。

 初めて見る全く新しい景色は、幸福と歓喜によって鮮やかに彩られていた。

 その晩私は、布団の中で一人ふくふくと安息した。甚だ良い気分であった。

 私は身分の鎖から解き放たれ、自由を手に入れた。もう通行許可証の申請手続きをする必要はなく、友達の間には自由に出入りして良いのだった。

 また朝となるのがこんなにも待ち遠しい夜は、かつてのあの混沌の中には、決して存在し得なかった。

 私の世界の、これが第一日であった。

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