第3話 まるで聖母のような
意味もなく、石ころを蹴り飛ばす。コツン、と乾いた音を立てて転がった石は、すぐに路地の闇に吸い込まれて消えた。どこかに落ちた音すらも聞こえず、そこにまだあるのか、転げ落ちて消えてしまったのかすら分からない。そうしてその存在・不存在は、誰に影響を与えるわけでもなく、顧みられることはない。今の自分みたいだな、という感傷的過ぎる思いを、握りつぶすほどの気力もわかず、そのまま抱いてテオは自嘲した。
行く当てもない、そぞろ歩きだ。かつて所属していた工房だった場所にも、もはや自分の居場所はない。頭にこびりついて離れないのは、勝ち誇ったようなあの女貴族の笑みと、「そんな契約、取り交わさなかったでしょう?」という冷たい声。技術さえあれば、誠実に仕事さえしていれば、いつかは道が開ける。そんな青臭い理想が、いかに脆いものだったか。思い出すだけで、腹の底が黒いもので満たされていくようだった。
港の、一番治安の悪い通りだ。酒の匂い、腐った魚の匂い、そして、得体のしれない熱気がごちゃ混ぜになっている。こんな場所をうろつくのは、酔っぱらいか、何かを失くした人間だけだ。自分は、その後者だった。
その時だった。
壁の影が、不意に揺らめいた。人影だ。身構えるテオの前に、その影はするりと滑り出る。女だった。痩せた肩に、みすぼらしいドレス。腕には汚れた布にくるまれた、赤子と思しき膨らみが見える。
(……またか)
施しを乞うなら無視するだけだ。そう思って通り過ぎようとしたテオの袖を、女のか細い指が、ためらうように掴んだ。
「……あの」
かすかに震える声だった。だが、顔を上げた女の瞳を見て、テオは思わず足を止める。
「一晩、どう?」
誘う言葉とは裏腹に、その目は獲物を前にした獣のように、ギラギラと燃えていた。
ギィ、と錆びた蝶番の音がして、あばら家の扉が閉まる。途端に、女が連れてきた港の喧騒が遠のく。が、消えはしない。心の底にこびりついた、後悔と呼ぶにはおこがましいような未練がましさにも似た、その騒がしさ。振り切るように、むっとするような埃と潮の匂いの残る空気を吸い込んだ。
(……くだらない)
テオは、目の前の女を値踏みするように見下ろした。肘の部分が薄くなったみすぼらしい服に、痩せた肩。しかしまとめられた髪には僅かに艶があり、女が、以前は身なりに気を遣う余裕のある生活をしていたことを窺わせた。
その細い腕が抱く赤子だけが、この薄汚い空間で唯一、生の色を放っている。哀れだ、とテオは思った。そして女のその、世界中の不幸を吸い込んだかのような出で立ちが、腹の底からこみ上げる苛立ちを煽った。
女が、まるで亡霊のようにふらふらと、部屋の隅に歩み寄る。わずかに月の光が差し込む、床板がまだマシに見える場所。そこで女は、羽織っていた唯一まともな品に見えたショールをそっと広げ、その上に赤子を宝物のように横たえた。その手つきは驚くほど優しく、場末の娼婦のそれとは到底思えない。
赤子のなめらかな頬に、雫が落ちる。月明かりに照らされた赤子と、そのみすぼらしい母親が零す涙。
その神聖にも見えるほどの風景が、テオの冷え切った心を逆なでした。自分だけが不幸とでも言うかのような傲慢さ。その雫もすぐに、この薄汚れた空気に汚され、黒く染まるだろう。
この高慢な女を、踏みにじってやろう。母性やプライド、嘘をつかない真摯さ。そういったものだけではどうにもならないこの世の理不尽さを、この女に教えてやるのだ。お前の哀れさなど、何の価値もないのだと。
その悲嘆に暮れている顔を拝んでやろう、そうして悲鳴を上げようとする唇を、自分の薄汚いそれで塞いでしまえば、どんな顔をするだろう。母性など、何の役にも立たないとかなぐり捨てるだろうか──そう一歩を踏み出した、その時だった。
女が、顔を上げた。
伏せられていた長い睫毛が上がり、あらわになった瞳が、まっすぐにテオを捉える。そこに哀れみや懇願の色はなかった。絶望と、諦めと、そして、その全てを裏切るような烈火の如き憎悪。僅かに残った涙の痕こそが違和感となるほどの、決して折れてはいない、という鋼の意志。
踏み出そうとしたのとは反対の足に体重を乗せ、そうして気圧されたと気づく。
(……なんて)
なんという、目をする女だろう。
これだけ全ての状況が、彼女の哀れさを際立たせているのに。その瞳だけが全ての悲惨を拒絶していた。
「先にお金を見せて。というか半額先に渡しなさい。踏み倒されたら、たまったものじゃないわ」
「なんだと」
「こっちは子連れよ。万が一私がその子を置いて逃げようとしたって、これだけ体格差があるんだから、逃げ切れるはずないじゃない。私は」
女が一呼吸おいた。
「私はあなたに好き勝手されて、殺されたって仕方がない状況にいるんだから。あなただってそれくらいの誠意を見せてくれたって構わないでしょう」
自らの哀れさに、無自覚なわけではなく。それを全て飲み込んだ上で、それすらも交渉材料にしてくる女。
冷え切った内臓を、熱い手で鷲掴みにされたかのようだった。同じような感覚を覚えたことがある。弟子入りしたての頃、仕入れの帰りに、馬車に轢かれかけたときのような。死と隣り合わせだからこそ感じた、生への執着を思い起こしたときの熱。
憐れまれるだけの女ではない。蹂躙されて終わるだけのものではない。悲壮な決意、というわけでもなく、ただただ世界への怒りをもって、生き延びようとするしたたかさ。
そうして女に掴まれた熱が、自分の中で暴れ狂う。
銅貨を数えて握り、細い手に落とす。ひったくるかのように受け取るかと思いきや、金を数える手つきにはどこか品がある。
貨幣の数を数え終わり、「確かに」と言う女の声に、大きく息をついた。
「何よ」
「萎えた」
「は?」
「食い殺してきそうな顔した女に、そんな気はおきねぇよ。それで数日は食えるだろう」
「ふざけないで、私だけじゃないのよ。私が健康にならないと、あの子は乳が飲めなくて飢える!」
「そうだな、そいつは悪かった。詫びにこれやるよ」
鞄の中から取り出した革袋を、女に投げ渡す。
「な、に」
「半年もしたら、その子も歩き出すだろう。靴がないと外も歩けないだろうよ」
毒気が抜かれたような顔で、革袋の中身と自分の顔を、女が交互に見てくる。
「……港の通りから一本入って、坂を上がったところ。前の持ち主が夜逃げした果実園がある。夜逃げしたんだから食えるようなもんはできないだろうが、少なくとも寝るところには困らない。住む場所を探してんならそこだ」
「え、でも、戸籍とか」
「コセキ? ……ああ、お貴族様のつけてた家族名簿だったか? こんなごちゃごちゃの港町で、そんな管理なんてできるわけないだろう」
そうして女に背を向けようとして、ようやく施しに気づいたかのような様子で、女が顔色を変えて何かを言いつのろうとする。
「酒場の隣の、パン屋のその隣」
「え?」
「そこが俺の工房だ。靴を買い替えることになったら、注文しに来い」
一夜令嬢は盤上で踊る~人生「詰み」の元伯爵令嬢は、男装商人となって市場を制す~ 宝才みひろ @mihirohosai
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