第2話 一夜令嬢アン

 それから、何日歩いただろうか。貴族の馬車が巻き上げる砂埃を浴び、物乞いと間違われて罵声を浴びせられ、夜はそこらの木の根元で獣のように身を寄せ合って眠る。

「ふあ、ああー」

 まどろんだのもつかの間、娘の泣き声に慌てて乳を咥えさせる。まともな授乳の頻度などは分からない。ただもう休みたくて、泣き声のやかましさに耐えられなくて乳房をあてがう。世話をするためではなく、その煩い口を塞ぐための授乳。

 (ちがう)

 そんな感情を否定したくて、償いのように乳を吸う娘の頭を撫でる。湯浴みなど、何日もしていないし、させていない。黄色い汚れが頭皮に溜まったその肌は、それでも愛おしかった。 (大丈夫)

 大丈夫だ、愛している。愛せている。娘を幸せにするという誓いの熱が、空腹と疲労の前に、遠い日の焚き火の残り火のようにか細くなるのを感じる。喉を動かすたびに揺れるまつ毛の長さに、体の芯が温まるようなこの感情は、慈しみであるのだと自分に確かめる。


 そんな日を幾日も過ごし、やがてたどり着いたのは、潮の香りと魚のはらわたの匂い、そして人々の剥き出しの活気が渦巻く港町だった。

 誰もが自分の暮らしに必死で、赤子を抱いたみすぼらしい女が一人増えたところで、気にも留めない。むしろ、路地裏に住み着くドブネズミを見るような目で、人々が自分に気づかないふりをして避けてくるのに、皮肉な笑みを浮かべるほどだった。「一夜令嬢」として好奇の視線を集めていたときには、ついぞなかったことだ。

 ここなら、物陰に隠れるようにして生き延びられるかもしれない。そんな希望を抱きかけたときだった。


 パンの香りが、した。


 雷の日の野犬のように叫び狂いそうになる衝動を、うずくまることで何とかこらえる。

 焼きたてのパンの、甘く香ばしい匂いは、暴力的なまでに食欲を刺激した。しかし買える金などあるはずもない。食べ物のために人を殺す者は、こんな衝動を抱えていたのだと理解する。

 結局その日の夜は、日が暮れるまで物陰に隠れ、パン屋の主人が裏口から固くなったパンを捨てるのを、獣のような目で見つめていた。カビの生えたそれを拾い上げ、爪で青黒い部分を削り取る。そうして、まず柔らかな中心部を少しだけちぎると、ぐずるエリュシアの口元へ運んだ。残りの固い部分を、自分は砂を噛むように咀嚼する。味がしない。けれど、僅かに胃が満たされていく感覚だけがあった。

 けれどじめじめとした家の影で娘を抱えたまま眠ったその明け方、ぐずる娘に乳を咥えさせるも、そのまま吐き出された。

「飲みなさいな」

 なんどか咥えさせようとしても、怒ったように顔を背けて泣き続ける。

「もう!」

 悪態をつく気力すらなく、ふと思いついて自らの胸を掴んだ。


 乳が、出なかった。


 (……そんな)


 当然ではあった。まともな食事もとれぬまま極限状態で彷徨い続け、数時間前に僅かなパンを食べただけの体が、別の生物に分け与える栄養などを絞り出せるはずもない。


「あー、ああぁ」

「エリュシア、ごめん、待って」

「あ、ああー」


 残飯を探して、早朝の街を徘徊する。娘の泣き声は少しずつ弱くなり、止まる。

「エリュシア」

 修道院を追い出されたときの比ではなかった。目の奥がカッと熱くなり、景色が絶望に染まる、その寸前で。

「………寝て、る?」

 先ほどまで泣きわめいていた娘は、すやすやと安らかな寝息を立てていた。泣き続けた疲労と、抱えた自分が歩いた心地の良い揺れだ。息をつくが、胸の奥の重石は取れないままだ。乳が出ない自分が、どうやってこの子を育てていけるのだろう。この安らかな寝息がそのまま止まらないという保障なんて、どこにあるのだろう。


(……幸せにする、なんて)


 己の誓いが、虚しい冗談のように胸に突き刺さる。このままでは、二人して飢え死にするだけだ。どうする。どうすれば、この子を守れる。

 ふと、路地に溜まった水たまりに、自分の顔が映った。痩せこけ、髪は乱れ、しかしその瞳だけが、落ち窪んだ眼窩の奥でぎらぎらと光っている。そんな、見知らぬ女の顔──


 いや、よく知った顔だった。


 あれは、何年前だったか。父の浪費でいよいよ家が立ち行かなくなり、初めて夜会で男を探そうと決めた夜。乱暴に内臓をかき回され、べたべたと触られる嫌悪感の中、天井の染みを数え続けたあの日。朝まで時間を共にすることすらせずに、乗合馬車を乗り継いで帰った埃っぽい自室の、鉛桟の入った窓ガラスに映った自分の顔。絶望に飲まれないように、「こんなものだ」と自分に言い聞かせて。何か大切なものを、失ったのではなく自分から捨てたのだと言い聞かせながら、それでも生きるのだと開き直った。血の気の失せた唇、怯えに見開かれた瞳。けれど、その奥に宿っていたのは、今と同じ、全てを諦め、それでも何かを睨みつけるような光だった。

 あのとき思ったのだ。ガラスの向こうにいるのは、ヘンリエッタではない。これは、生きるために生まれた、別の誰か。そうだ、この女の名前は。

「……アン」

 水たまりの自分に向かって、無意識にその名を呟いていた。そうだ、『アン』になればいい。あの時のように。心を殺して、体だけを差し出して、生き延びるための糧を得るのだ。


 少しだけ、ましなことがあるとすれば。

 今の自分は、自分が生き延びるために体を売らなくていいということだった。エリュシアがいるのだ。エリュシアを守るためだから、仕方ない。自己犠牲の言い訳に娘を使う、そんな反吐が出るような醜悪さにも、気づいていたけれど。


 冷え切った指先を頬に当てれば、そこは熱を持っているのに、頭の奥は酷く冷えていた。生きるために、獲物を探さなければならない。

 『ドレスで隠せているとでも思ったか。逆だよ逆、見えにくいところに気を遣う奴がお洒落なんだよ』

 そう言って、残飯を野良犬に与えるような気安さで、自分に靴を与えてきた男がいたことを思い出す。あの日の自分は薄ら笑いを浮かべて礼を言ったが、まさかこんな時に思い出すことになるとは思わなかった。

 自分はもう貴族ではない、それどころか修道院すら追い出された、路傍の石にも満たぬ存在。殺されても気づかれないような。だから慎重に、金を踏み倒すために自分を殺したりしないような男を選ばなければならない。

 噛みしめていた唇から歯を離し、笑みを浮かべる。大丈夫、微笑むことくらいできる。「アン」は後腐れのない、軽やかな女なのだから。

「ふぁ……」

 微睡んでいただけだったのだろう、もう目を覚ましたエリュシアの小さな声に、折角笑みを浮かべた唇が歪む。胸の奥にしまった「ヘンリエッタ」が泣きじゃくる。私はただこの子を幸せにしたいだけなのに、と。

 (──ああ、そうよね、悔しいわよね、ヘンリエッタ)

 生涯自分の世話をしてくれる貴族を探していた頃とは違う。だから、愛想など振りまく必要はないのだ。だから、笑顔の仮面など被り続けなくても良いのだ。


 「アン」のしたたかさを持ったまま、「ヘンリエッタ」として怒って良い。


 ゆっくりと立ち上がる。今度こそ、目を逸らさない。相手の顔を、その欲望を、この目に焼き付けてやる。それが、この理不尽な世界で、今の自分が唯一できる戦いだった。

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