一夜令嬢は盤上で踊る~人生「詰み」の元伯爵令嬢は、男装商人となって市場を制す~

宝才みひろ

第1話 盤上の罪、あるいは詰み

「……これは詰み、ね」

「ようやくご自身の罪を自覚されましたか、ヘンリエッタ・ドゥーブル」

 

 頭上から厳粛な、しかし嘲笑の気配を隠し切れない修道女の声が降ってくる。

 ぱちん、と頭の中で王将の駒が奪われる音がした。

 急速に、頭の中でピースが噛み合っていく。将棋が語源の、日本語の「詰み」は、この世界では断罪の「罪」と響くのか。よくできた皮肉だ。

 血の気が引くような絶望的状況だからこそ、混乱するほどの余裕もなく、自分の非現実的な状況が冷徹なほどの合理をもって整理できた。

 かつて日本人女性として会社員をしていた自分は今、転生した先の異世界で、「詰み」としか言えない状況に陥っているのだ、と。




 石畳が、薄い靴底に刺さって痛い。行きも希望に満ち溢れるとは言えない心境ではあったけれど、まさか修道院を追い出され、それよりも辛い心持ちでこの石畳を歩くことになるとは思わなかった。痛みから逃れるように、歩きながら現状を整理する。


 ドゥーブル辺境伯。国では知らぬ者のいない、かつての英雄サミュエル・ドゥーブルの末裔、押しも押されもせぬ名家。そこに生まれた自分は、けれど浪費家の両親のせいで、貴族令嬢とは程遠い生活をしていた。

 型の古いドレスを着て参加したパーティで、声をかけてきた男性に流されるがまま体を開き、そうしてドレスや宝石をプレゼントされる日々。生き延びるためには人脈が要るし、その人脈を築くためにはそれなりの見た目と教養が必要だった。そうして自分には、外見を取り繕ったり家庭教師を雇うほどのお金すら与えられてなかったのだ。


 何せ、ドゥーブル領が、国防の要となっていたのは3桁年も前の話。今や国防予算を横領する、国家の金食い虫。そう煙たがられていると知ったのも、父親よりも年上の男との閨でのことだ。


 貴族令嬢が事業をするなんて、以ての外という価値観の世界だ。ならば男性と夜と共にして、そのプレゼントを身に着けたり換金したりするしかあるまい?


 アンという偽名を名乗って、男の間を渡り歩く自分の正体が、暗黙の了解として知れ渡っていたことも、「一夜令嬢」と後ろ指を指されていたことも知っていた。けれど、どうにかこうにかどこかの貴族の後妻にでもおさまるのを目指すしか、生きる術はないと思ったのだ。


 そうだ、自分は自ら選んだのだ。これがせめて、親に人脈づくりの駒として使われたとかなら情状酌量の余地はあっただろう。しかしそうではないということが、残念ながら父の無能さによって証明されていた。


 運がなかったと思う。あの日自分を見初めてきた、侯爵家の三男坊は悋気持ちの婚約者がいて、怒り狂った彼女は、あれよあれよという間に「社交界の風紀を乱した罪」という罪状で自分が裁かれるように手を打ったのだ。三男坊の妻にしておくには勿体ない手腕だなと、今更ながら他人事のように思った。

 今にして思えば、国としても都合が良かったのだろう。予算を食いつぶす、しかし手を出しづらい英雄の末裔を、ヘンリエッタ個人として断罪する。ついでのように──こちらが勿論本命だったのだろう──証拠を集めるためと捜索の入った自宅で、溢れる横領の証拠のもと、ドゥーブル伯爵家は取り潰しになったのだ。


 そうして誰の子だかわからない子を抱えながら、追いやられた辺境の修道院にすら「修道院は収容所ではありません」と追い返され、至る現在。


 つまり、生まれた時点で詰んでいたのだ。たとえ日本人としての記憶を、もう少し早く思い出していたとして、結果は変わらなかっただろう。


「……どうしよう」

 口に出してみた途端に、不安が襲ってくる。目の前が真っ暗になって、足元がおぼつかない。どうやって、どうやって生きて行けば?

 ぐらりと視界が揺れて、それに耐えようとし、ふと思う。

 これだけずっと走り続けてきたのだから、もういいのではないか。休んでも。悲嘆にくれて座り込む自分を、誰が謗るだろう。


「ふわああああ」

「っ」

 目を覚ました娘が泣きだす。誰の子か分からないが、それでも愛おしい気持ちはあった。


 ――「生まれた時点で詰んでいた」?


 彼女こそそうだ。淫乱女の娘として生まれて。彼女は一生、自分が犯してもいない罪に怯えながら生きて行くことになるだろう。

 罪。詰み。

「……ばっかばかしい!」

 傾いた体を無理くり踏ん張って支えて叫べば、慄いたように赤子が体を震わせ、その後今度こそ火のついたように泣き出した。何かが胸の中で煮えたぎるようだ。

 生きて行く術を否定しておいて、唯一縋りついた道を罪だと言う。悲劇のヒロインとして飢え死にすればよかったのか。それを知ったとしても、一瞬だけ「可哀想なご令嬢」として消費して、自らの慈悲深さをアピールするエピソードとして使い捨てることしかしないくせに。

 赤子が泣く。やかましい、しかし生命の鼓動に満ちた音。

「エリュシア」

 名を呼ぶ。唱えるだけで、心に火が灯る、そんな愛おしい旋律。

「詰んでる、なんて」

 この子に言わせてたまるものか。元は一夜令嬢だ。もうこれ以上落ちる評判などない。伯爵家は取りつぶされて、帰る家すらない。平民だろうが娼婦だろうが、生きるしかないのだ。

「絶対に、幸せにする」

 それは宣言であり、誓いだった。戦いの日々の、始まりだった。

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