ハロー、オープンワールド

月読二兎

第1話 ログアウト

 大学の講義室は、ゆるやかな死の匂いがした。

 湿気を含んだカビ臭さと、古びた木の机の匂い。換気の悪い大教室特有の澱んだ空気が、重たく停滞している。


 窓際の一番後ろの席。俺、相川湊はそこに座って、ただ時間が砂のようにこぼれ落ちていくのを待っていた。

 教壇では、くたびれたスーツを着た老教授が、経済学のなんとかという理論について話している。抑揚のないその声は、意味を持つ言葉というよりは、単調な環境音に近い。

 カツ、カツ、カツ。

 乾いたチョークが黒板を叩く硬質な音だけが、やけに耳についた。


 周囲の学生たちは、思い思いの時間を過ごしている。ノートパソコンの画面に没頭してキーボードを叩く者、机の下でスマートフォンの画面をスクロールし続ける者、隣同士で声を殺して忍び笑いを漏らす者。

 そのすべてが、分厚いガラスを隔てた向こう側の出来事のように感じられた。彼らが発する熱量や、明日へのささやかな期待といったものから、俺は完全に切り離されている。


 ふと、窓の外に目をやる。

 梅雨入り前の空は、まるで決意を固めたかのように、どんよりとした灰色に染まっていた。高くも低くもない、ただただ重たい雲が、街全体を押し潰すように広がっている。窓ガラスには細かい水滴がつき始めていた。


「……今日も、同じだ」


 誰に聞かせるでもなく、吐息に混ぜて呟く。

 期待もなければ、絶望もない。ただ、色のない「無」が広がっているだけだ。講義が終わればアパートに帰り、コンビニで飯を買い、PCの電源を入れる。それだけの毎日。


 自分の人生を振り返ってみても、そこに鮮やかな色彩はなかった。

 物心がついた頃には母親はもういなかったし、写真でしか顔を知らない。仕事人間だった父親は、俺が起きる前に家を出て、寝た後に帰ってくる生活だった。たまに顔を合わせても、業務連絡のような会話が二言三言あるだけ。

 食卓にはいつも、スーパーの惣菜にラップがかかったものと、「これで何か食え」と走り書きされたメモ、そして数枚の千円札が置かれているだけだった。冷めた揚げ物の脂の匂いが、俺にとっての家庭の記憶だ。


 親戚との付き合いも希薄だった。盆や正月に顔を合わせても、当たり障りのない会話をして、逃げるように部屋に籠もる。誰も俺の深いところまで踏み込もうとはしなかったし、俺もそれを望まなかった。


 友達、という言葉がしっくりくる人間もいなかった。小中高と、クラスメイトとはそれなりに話したし、グループワークもこなした。けれど、卒業と同時にその関係はぷつりと途絶える。SNSのアカウントは持っているが、通知が鳴ることは滅多にない。誰かの誕生日を祝うメッセージも、近況を尋ねるDMも、ここ数年は一度も受け取ったことがなかった。


 俺という人間は、空っぽの箱みたいなものだ。

 中には何もない。だから、誰かが俺に興味を持つこともない。それでいいと、ずっと思っていた。傷つくこともない代わりに、喜びもない。平坦で、安全な人生。


 ◆


 講義終了を告げるチャイムが、無機質に鳴り響いた。

 教室内の空気が一瞬で緩み、ざわめきが波のように広がる。俺は誰に声をかけるでもなく、静かに教科書を鞄に突っ込んで席を立つ。

 廊下は移動教室に向かう学生たちで溢れかえっていた。笑い声、話し声、足音。俺は人波を避けるように、肩をすぼめて歩く。誰も俺の存在に気づいていないかのように、俺の前を横切り、追い抜いていく。まるで、俺だけがそこにいない幽霊になったような気分だった。


 大学の最寄り駅までの道。

 夕暮れの雑踏には、飲食店の換気扇から吐き出される油の匂いと、アスファルトが雨に濡れた匂いが混じり合っていた。信号待ちをするサラリーマンの群れ、大声で笑う高校生たち。

 世界はこんなにも騒がしいのに、俺の周りだけ真空パックされたみたいに静かだ。


 途中、いつものコンビニに寄る。

 自動ドアが開くと、軽快な入店音が俺を迎えた。これも毎日聞く音だ。

 迷わず弁当コーナーへ直行し、棚に並んだ商品を眺める。新商品には目もくれず、いつもと同じのり弁当を手に取る。半額シールは貼られていないが、どうでもよかった。

 レジで無言のまま会計を済ませ、温めをお願いする。電子レンジの低い駆動音を聞きながら、レジ横のホットスナックケースをぼんやりと眺める。時間が経って干からびたフライドチキンが、今の自分に重なって見えた。


「ありがとうございましたー」

 マニュアル通りの店員の声に会釈だけして、ビニール袋を片手に店を出る。袋の中で弁当が傾かないように、少しだけ気を使って歩く。それが、今日唯一の「気遣い」だった。


 アパートのドアノブは、ひんやりと冷たい。

 鍵を回し、中に入る。六畳一間の、生活感のない部屋。

 散らかってはいないが、物が極端に少ない。本棚には数冊の専門書と、漫画が数巻。クローゼットの中も、同じような色の服が数枚かかっているだけ。壁にはカレンダーすらない。


 この部屋で唯一、俺の個性を主張している場所があるとすれば、それは窓際のPCデスク周りだろう。

 最新のグラフィックボードを積んだ自作のタワー型PC。湾曲した27インチのゲーミングモニター。虹色に光るメカニカルキーボードと、親指に多数のボタンがついた多機能マウス。そこだけが、この殺風景な部屋で異質な輝きを放っていた。


 買ってきた弁当の蓋を開ける。海苔の湿った匂いと、白身魚のフライの匂いが広がる。

 割り箸を割り、PCの電源ボタンを押す。

 フォォン、と吸気ファンが回り始め、静かな部屋に電子機器の駆動音が響き渡った。


 デスクトップに並んだ無数のアイコンの中から、慣れた手つきで一つを選ぶ。

 小学生の頃から、もう十年以上プレイし続けているMMORPG。俺の人生の半分以上を捧げてきた、もう一つの世界だ。


 IDとパスワードを打ち込む。指が勝手に動く。

 キャラクター選択画面へ。そこに立っているのは、屈強な鎧に身を包んだ戦士、『Knell(ネル)』。

 小学生の頃、響きだけでつけた名前だ。「弔鐘」という意味だと知ったのは、高校生になってからだった。今となっては少し気恥ずかしいが、変えるタイミングを逸して、ずっとこのままだ。


 ログインボタンをクリックする。

 ロード画面のバーが伸びていく。現実から仮想へ、意識が切り替わる儀式。

 画面が明るくなると、目に飛び込んでくるのは、石畳が美しいファンタジックな街並み。行き交うプレイヤーたちのアバター。


《ネルさん、おかえりー!》

《お、来たな、ネル。今日もダンジョン行くぞ》


 画面下部のチャットウィンドウに、ギルドメンバーからの歓迎の言葉が流れる。

 俺はのり弁当を口に運びながら、片手でキーボードを叩く。


「ただいま。すぐ準備する」


 現実では誰からも求められない俺も、ここでは頼りにされるギルドのメインタンクだ。最前線で敵の攻撃を受け止め、仲間を守る盾。

 ここだけが、俺の唯一の居場所。そう、信じていた。いや、信じようとしていたのかもしれない。


 ◆


「ナイス、ネル! さすがのヘイト管理!」

「回復頼む! ポーションもうない!」

「右から増援湧いた! 魔法使い、範囲攻撃準備!」


 ヘッドセットから聞こえる仲間たちの声と、派手なエフェクトが画面を埋め尽くす。

 剣と魔法がぶつかり合う重たい効果音。地面が揺れ、巨大なドラゴンが咆哮を上げる。チャットウィンドウには、目まぐるしく指示や賞賛の言葉が流れていく。


 いつもの光景。いつもの日常。

 俺は冷静に敵の攻撃パターンを読み、防御スキルを的確なタイミングで発動させる。

 指先は、もう何も考えなくても勝手に動いた。マウスをクリックし、キーボードのショートカットキーを叩く。カチ、カチ、タタッ。

 ただ、それだけの作業。


 その時、ふと気づいてしまった。


 画面の中で繰り広げられる熱狂が、少しも俺の心に響いていないことに。

 まるで、分厚い防音ガラスを一枚隔てた向こう側で起きている出来事のようだった。

 仲間たちの興奮した声も、壮大なBGMも、すべてが他人事だ。

 モニターに映るドラゴンの炎よりも、手元の冷めかけた弁当の匂いの方が、よほど現実味がある。

 無感情にキーボードを叩く自分の指先を、どこか冷めた目で見つめている自分がいた。


 何が、楽しいんだろう。

 レベルを上げて、レアな装備を手に入れて、ボスを倒して。

 それを、あと何年、何十年と続けるのだろうか。

 このデータの蓄積が、俺の人生の何になるんだろうか。


 これまで一度も抱いたことのなかった疑問が、黒いインクを水に落としたように、じわりと心に広がっていく。


 戦闘の真っ最中だった。敵のHPは残りわずか。仲間たちのボルテージは最高潮に達している。

 そんな中、俺はふっとマウスから手を放した。


 画面の中の戦士ネルが、棒立ちになる。

 直後、ドラゴンの爪がネルを吹き飛ばした。HPバーが大きく減る。


《ネル? どうした?》

《固まってるぞ!》

《回線落ちか!?》


 チャットウィンドウに、仲間からの心配する声が流れる。ヘッドセット越しに、誰かが俺の名前を呼んでいる。

 けれど、俺はそれに応えなかった。応える言葉が見つからなかった。

 マイクのミュートボタンを押す。


 ただ静かに、ESCキーを押してメニュー画面を開く。

 そこに並んだいくつかの選択肢の中から、「ログアウト」の文字にカーソルを合わせた。


 一瞬の躊躇もなく、左クリック。

 確認のメッセージが表示される。

 <本当にログアウトしますか?>


 俺は、もう一度クリックした。


 仲間への挨拶も、弁明も、何もしなかった。

 画面の中のファンタジーの世界が、音もなく消える。

 真っ暗になったモニターに映り込んでいるのは、ひどく無表情な、死んだ魚のような目をした俺の顔だった。


 シン、と静まり返った部屋。

 PCのファンの低い駆動音だけが、耳の奥でいつまでも響いていた。

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