ダクスの女神

森松一花

プロローグ

第1話 彼女が女神になるまで

 アリスは五年前、神に嫌われてしまった。その証拠に今、死のふちに立っている。



 静かなはずの夜闇の森に、木々をなぎ倒す音が響き渡る。


 アリスは逃げるどころか立つことすらできずに、ただ木陰に隠れて震えていた。自慢の長い銀色の髪はぐしゃぐしゃになり、青のドレスは泥ですっかり汚れてしまっている。


 目と鼻の先で、うごめくものが見える。黒い影のようなものが絡み合い、巨大な獣のような形を成している。


 それは『悪霊デーモン』と呼ばれる、異形の存在。


 悪霊の気配が迫り、アリスは己の死を覚悟した。とても恐ろしかったが、同時に、死ぬことへの『期待』があった。


 だって、悪霊にわれれば、きっと妹と同じ場所にいける。


 アリスが生きることを諦めかけた、その刹那——。


「なあ、ちょっといいか?」


 誰かが小声で、アリスに話し掛けてきた。


「は……?」


 あまりに唐突で、あまりに異質。


 声の方角を向くと、少女よりも低い位置。茂みに隠れるように伏せの姿勢でこちらを見上げるがいた。


 血潮のような紅い瞳に、白い髪をした、美しい青年に見える。

 

 非現実的な美貌と、危機的状況で声をかけてきた非常識さに面食らって、アリスはこの青年が人間なのかどうかすら判断できない。


「あそこでお前を探してる悪霊、俺がどうにかしてやるからさ、お前も俺の頼みを聞いてくれない?」


「…………」


 呆気にとられ、何も言えなかった。それを不思議に思ったのか、青年は上体を起こし、アリスの顔の前でぶんぶんと手を振った。


「もしもーし?」


 青年はアリスの顔をのぞき込む。揺れた白髪に月の光が反射して、頭に光の輪っかがあるように見えた。


「……天使?」


 思わずアリスは口にした。が、青年はその言葉に何の興味も疑問も持たなかったのか、聞き返すことなく次の言葉を発する。


「どうする? 俺は別にここでお前が悪霊に喰われても構わないんだけど」


 青年の急かすような態度にアリスは焦り、何とか声を絞り出す。


「助けてくれるの……?」


 一度は死を受け入れたが、目の前の希望にすがりたくなる。


 青年のことを必死になって見つめると、青年は期待したような目で見つめ返してくる。


「俺のことも助けてくれるなら。どう? 俺と契約する?」


 キラキラと輝く、まるで悪戯をする前の幼児のような顔。


 あまりに綺麗なものだから、一瞬見惚れてしまいそうになる。だが、そうこうしている間にも、死は刻一刻と迫っている。


「ねえ……助けてくれるなら早く……こっちに来るから……」


 アリスは静かな声で懇願する。しかし、青年は淡々と質問を続ける。


「お前、名前なんていうの?」


「ア……アリス」


「じゃあアリスはさ、俺と助け合い、その命ある限り、真心を尽くすことを誓う?」


「は……? え……?」


 アリスにはこの青年の言っていることが、全く理解できない。


 ただ、この状況を変え、アリスを救ってくれる可能性があるものは他にはなく——今、アリスにできることは一つだけだった。


 化け物の咆哮が近づく。迷っている時間はない。


「誓う!」


 アリスは青年だけに聞こえる程度に、声を張り上げて答えた。


 瞬間——にやりと青年が笑った。


「その誓い、受け取った」


 そう告げると同時に、青年はアリスに口付けキスをした。


 後になってアリスは、その口付けには誓った言葉を閉じ込めるという意味があり、絶対に違えることはできないことを知った。


 そしてこの契約は、アリスの運命——いや、アリスだけでなく、を、変えることになるのだった。

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