File_04: 【動画】SDカードNo.1:車載カメラの映像(進入路)
ダンボール箱の底から出てきたSDカード。
その表面には、白い修正液で『2023.09.21 進入』と記されていた。
私はそれをパソコンに挿入し、読み込みを待った。
ファンの回転音がやけに大きく聞こえる。部屋の湿度は依然として高く、キーボードを打つ私の指先は、脂汗とも湿気ともつかない水分で濡れていた。
フォルダの中には、一つの動画ファイルだけが入っていた。
ファイル名『CAM_230921_REC.mp4』。
再生時間は約四十五分。
由良境介が「口隠し村」へ向かう道中を、車のダッシュボードに設置したカメラで撮影した映像だと思われる。
私は意を決して、再生ボタンをクリックした。
***
【動画ファイル再生開始】
画面には、曇天の空と、フロントガラス越しに見える山道が映し出されている。
ワイパーが動くたびに、キュッ、キュッ、というゴムの擦れる音が規則的に響く。小雨が降っているようだ。
画面下部にはタイムスタンプが表示されている。『2023/09/21 16:15』。夕刻が近づき、辺りは薄暗くなり始めている。
音声には、車の走行音と、時折ハンドルを切る由良の衣擦れの音が入っている。彼は独り言のように、あるいはボイスレコーダー代わりの記録として、ブツブツと喋り続けていた。
「……現在、国道■■号線を外れて、旧林道に入ったところだ。ナビの表示は十分前から消えている」
由良の声は冷静だ。だが、その語尾には微かな緊張が滲んでいる。
「掲示板の情報通りなら、この先に『蛇骨岳』の裏側へ抜ける獣道があるはずだ。舗装が剥がれてきた。かなり揺れる」
画面が大きく上下に揺れる。
映像の画質は荒い。安物の車載カメラなのか、あるいは磁場の影響なのか、時折ブロックノイズが走り、画面全体が紫色に歪む。
(再生時間 00:12:30)
車が停車する。
ヘッドライトの先、道の脇に何かが立っているのが見える。
「おい、あれを見ろ」
由良の声。彼はカメラをマウントから取り外し、手持ちに変えて窓の外を映そうとする。
手ブレの激しい映像の中に、道祖神のような石像が映り込む。
だが、それは普通の地蔵ではない。
苔むした丸い石。目も鼻もない。ただ、顔の下半分にあたる部分に、ノミで荒々しく削られたような、深い「溝」が横一文字に刻まれている。
「口だけの地蔵……いや、これは口じゃないな」
カメラがズームする。
その溝の中には、さらに小さな石が詰め込まれ、セメントのようなもので固められていた。
「塞がれている。……『口隠し』か」
由良が息を飲む音が聞こえる。
彼は再び車を発進させた。
(再生時間 00:25:40)
周囲の風景が一変している。
先ほどまでは鬱蒼とした杉林だったが、ここへ来て急に視界が開けた。
だが、開放感はない。
道の両脇には、枯れ木が墓標のように並んでいる。そして、その枝という枝に、無数の白い布が結び付けられていた。
まるで神社の注連縄(しめなわ)に下がる紙垂(しで)のようだが、もっと雑然としていて、薄汚れている。
「臭いな」
由良が呟く。
「窓を閉めてるのに、臭ってくる。腐った沼の臭いだ。それと……なんだこれ、獣臭か?」
映像では臭いは伝わらない。しかし、フロントガラスが白く曇り始めているのがわかる。外気と車内の温度差による結露ではない。ガラスの外側に、ねっとりとした油膜のようなものが付着し始めているのだ。
ワイパーがそれを拭い去ろうとするが、逆に汚れを広げてしまい、視界が悪化していく。白い泥だ。
「雨じゃない。空から泥が降ってるのか?」
由良はいら立ったようにウォッシャー液を噴射する。
一瞬視界がクリアになる。
その瞬間、ヘッドライトが前方の闇の中に、巨大な構造物を照らし出した。
(再生時間 00:32:15)
「あった。これだ」
車が減速し、ゆっくりと近づいていく。
掲示板のログにあった通りだ。
コンクリート製の巨大なアーチ。
かつては村の入口を示すゲートだったのだろうか。表面のコンクリートは剥落し、錆びた鉄筋が肋骨のように剥き出しになっている。
アーチの上部は中央が折れ曲がり、M字型に垂れ下がっていた。その形状は、確かに巨大な生物の上顎(うわあご)に見える。
由良が車を停め、再びカメラを手持ちにする。
彼は車外へ出たようだ。ドアが開く音と共に、外の音が流れ込んでくる。
風の音ではない。
『ゴォォォォォ……』という、地鳴りのような重低音。
そして、遠くから聞こえる『シャン、シャン、シャン』という、金属音。鈴の音だ。
「聞こえるか? この音」
由良がカメラをアーチの方へ向ける。
ライトの光が、アーチの柱部分に掲げられた看板を照らす。
錆びついてほとんど判読不能だが、辛うじて文字の痕跡が見て取れる。
『口 隠 し …… 離 …… 棟』
「隔離病棟、か? ここはただの集落じゃない。何かの施設だったのか」
由良が一歩踏み出す。
ズブッ、という湿った音がする。
「うわ、なんだこれ」
カメラが足元を映す。
彼の登山靴が、白い泥の中にくるぶしまで沈み込んでいた。
その泥は、まるで生き物のようにゆっくりと波打ち、泡を吹いているように見える。
「吐瀉物だ。誰かが言っていたな」
由良の声が震えている。恐怖からではない。生理的な嫌悪感からだ。
「地面全体が、誰かの胃袋の中みたいだ」
その時、鈴の音が急に近づいた気がした。
カメラが激しく振れる。由良が振り返ったのだ。
「誰だ!」
叫び声。
ライトの光が、闇雲に周囲の闇を切り裂く。
林の奥。木々の隙間。
そこに、何かがいた。
一瞬だけ、画面の隅に映り込んだ白い影。
私は動画を一時停止し、コマ送りにした。
画質が悪く、はっきりとは判別できない。
だが、それは人型をしていた。白い着物、あるいは白衣のようなものを纏っている。
直立不動で、こちらを見ている。
いや、顔がない。
顔があるべき場所は、白い包帯のようなもので幾重にも巻かれ、完全に覆い隠されていた。
再生を再開する。
「おい! そこで何をしている!」
由良はドキュメンタリー作家としての性分なのか、逃げるどころか、その影に向かって声を張り上げた。
影は答えない。
ただ、右手をゆっくりと上げた。
その手には、何か黒い四角いものが握られている。
次の瞬間、強烈なノイズが走った。
『ガガガガガッ!』という耳をつんざく音と共に、映像が砂嵐に覆われる。
「うわっ!」
由良の悲鳴。カメラが地面に落下する音。
レンズが泥に埋もれ、画面の半分が白く濁る。
斜めになったアングルで、映像は続いていた。
由良が倒れ込んだまま、後ずさりする足音が聞こえる。
「なんだ今の……電磁波か? カメラが……」
影が近づいてくる気配はない。
だが、その代わりに、奇妙な音が周囲を取り囲み始めた。
ペチャ、ペチャ、ペチャ。
泥の上を素足で歩くような、無数の足音。
一人や二人ではない。十人、いや、もっと大勢の集団が、暗闇の中から湧き出してきたかのような音だ。
「くそっ、囲まれた」
由良が立ち上がり、車へ駆け戻る音がする。
ドアを乱暴に閉め、エンジンをかけようとする。
キュルル、キュルル、キュルル……。
エンジンがかからない。
「かかれよ! ふざけんな!」
彼は焦ったようにキーを回し続ける。
その間も、ペチャ、ペチャという足音は、車の周りへと迫ってくる。
そして、バンッ!
誰かが、車のボディを叩いた音がした。
一度ではない。
バンッ! ドンッ! ベチャッ!
四方八方から、泥を塗りたくった手で、車を叩かれているような音。
由良の荒い呼吸音がマイクに響く。
彼はカメラをダッシュボードに戻す余裕もなく、助手席に放り投げたようだ。
映像は助手席のシートの布地と、薄暗い車内の天井を映している。
「あいつら、顔がない……」
由良が呻くように言った。
「泥だ。泥で顔を埋めてる。目も鼻も口も……息ができるのか? いや、そもそも生きているのか?」
不意に、車を叩く音が止んだ。
静寂が訪れる。
雨音さえ消えたような、完全な無音。
「……行ったか?」
由良が呟いた、その時だった。
『……あ……け……て……』
声がした。
外からではない。
車内のスピーカーからだ。カーオーディオの電源は入っていないはずなのに、ノイズ混じりのくぐもった声が響いた。
『……くち……あけて……』
「うわあぁぁぁぁぁ!」
由良の絶叫と共に、ようやくエンジンが息を吹き返した。
タイヤが泥を撒き散らし、車が急発進する感覚が映像のブレから伝わってくる。
遠心力でカメラが床に転がり落ちる。
画面は真っ暗になったが、音声だけは記録され続けていた。
車が激しく揺れ、何かにぶつかる音。枝をへし折る音。
由良はずっと何かを叫び続けているが、その言葉は聞き取れない。
ただ、彼の絶叫の裏で、ずっとあの声が続いていた。
『……はい……る……』
『……なか……に……はい……る……』
やがて、車が安定した走行音を取り戻した頃、ようやく声は聞こえなくなった。
由良の呼吸だけが、ハァ、ハァと荒く響いている。
「抜けた……のか……」
そう呟く彼の声は、もはや正常な人間のそれとは思えないほど枯れていた。
カメラを持ち上げたのだろう。再び映像が戻る。
そこには、見覚えのある国道のアスファルトが映っていた。
街灯の明かりが見える。現世に戻ってきたのだ。
由良はカメラを自分の方へ向けた。
車内のルームライトに照らされた彼の顔は、蒼白を通り越して土気色だった。
だが、私が注目したのはそこではない。
彼の口元だ。
唇の端に、白い泥が付着していた。
そして、彼が何かを言おうとして口を開いた瞬間、その口腔内が真っ黒に塗りつぶされているように見えたのだ。
影ではない。
喉の奥から、黒いタールのようなものが溢れ出しているかのような暗黒。
「……記録終了」
由良はそう言い捨てて、カメラのスイッチを切った。
***
動画はそこで終わっていた。
画面が黒くなり、再生ソフトのウィンドウだけが残る。
私はしばらく動けなかった。
最後の由良の顔。あの口の中の闇。
あれは、光の加減による見間違いだろうか。
それとも、あの短時間で、彼は「何か」を口の中から入れられてしまったのだろうか。
ふと、口の中に違和感を覚えた。
ジャリッ。
砂を噛んだような感触。
私は慌てて洗面所へ駆け込み、洗面台に唾を吐いた。
白い陶器の上に落ちた唾液の中に、小さな黒い粒が混じっていた。
土だ。
いや、ただの土ではない。腐葉土のような、古い臭いのする泥の塊。
なぜ、私の口の中にこんなものが?
私は部屋に一人きりだ。何も食べていない。
ただ、あの動画を見ていただけだ。
鏡を見る。
私の顔色は悪いが、それ以外に変わったところはない。
口を大きく開けてみる。
喉の奥。扁桃腺のあたり。
そこが、ほんの少し白く変色しているように見えた。
口内炎だろうか。そう思いたい。
だが、その白い斑点は、よく見ると人の顔の形をしているような気がしてならなかった。
私は震える手で口を濯ぎ、再び仕事部屋へ戻った。
まだだ。まだ確認しなければならないファイルがある。
次は『File_05:【取材】郷土史家・宇佐美氏へのインタビュー書き起こし・前編』。
動画の中で見えた表札の名前「宇佐美」。
そして、由良が向かった先。
すべてが繋がり始めている。
私は恐怖を押し殺し、泥の味が残る口を固く結んで、次のファイルを開いた。
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