火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~

秦朱音(はたあかね)

第1章 男装姫は孤高の王の夢を視る

第1話 十六夜の里での出会い

 遠くの空を、稲光が走る。


 嫌な予感がした。都の方角で雷が鳴るのは凶兆だ。こんな時には必ず、ここ十六夜いざよいの里にも嵐が訪れる。雨が降り始める前に、早く屋敷まで戻らねばならない。


 男物の覡服かんなぎふくに身を包んだ十六夜久遠くおんは、荷を固く胸に抱いて歩を速めた。


「――きゃああっ!」


 雷鳴の代わりに、久遠の耳に女の甲高い悲鳴が聞こえる。


(よりによってこんな時に……誰かが野盗にでも襲われたのか?)


 日は先ほど沈んだばかり。空に残った夕焼けを山の端に追いつめるように、どす黒い嵐雲が頭上に迫っている。


 あたりに人通りはない。道沿いに並ぶ家も、嵐に備えて雨戸を固く閉じていた。


 これでは、誰もあの女の悲鳴には気付かない。久遠までもが悲鳴を無視して通り過ぎたなら、声の主である女がこれからどんな目に遭うか分からない。


(……急いでいるけど、仕方ないか)


 ふう、と大きく息を吐き、久遠は悲鳴のした方角の路地に足を向けた。


 事情があって男のなりをしているが、十六夜久遠は十七歳の少女である。


 小柄な久遠には、野盗に立ち向かえるほどの腕力はない。もしも奴らと取っ組み合いの喧嘩になれば、完全に久遠の負けだ。


 しかし、このあたりの土地勘と、小柄な体躯を生かしたすばしっこさには自信がある。不意をついて女を野盗から引き離し、手を引いて上手く抜け道を逃げれば、奴らを撒くことくらいはできるだろう。


 久遠は息を潜めてゆっくりと、人の気配がするほうに近付いた。


 通りから路地を一本入って最初の角の向こうには、予想通り、野盗の男どもに囲まれた一人の女が立っている。庶民にはとても手の届きそうにない上等な白藍のうちきを目深にかぶり、笠を振り回して野盗に抗っていた。


(あの格好では、私は高貴な家の者だから襲ってください、と言っているようなものだ)


 ここ十六夜の里には、旅人たちの宿場が多くある。都に向かう商人に混じって、時折ここ綺羅きらくにの政を支える五主家ごしゅけの者がお忍びで宿を取ることもある。

 欲にまみれた野盗の勘というのは鋭いもので、このような高貴な身分の者を見抜いて襲うのだ。


「――あなたたち、手を放しなさい!」


 白藍の袿の女は男たちから逃れようと必死に腕を振り回す。が、ささやかな抵抗では彼らはびくともしない。


(本当に、何も分かっていない姫様なんだなあ)


 困った人を放っておけない自分の性質たちを呪いたい。久遠は胸に一息大きく吸うと、思い切って野盗の目の前に飛び込んだ。


   ◇


 ここ綺羅ノ国は、陽、雲、風、木、海を司るさいを有する、五主ごしゅ家が支配する島国である。


 才というのは天から与えられた通力のことで、五主家に代々受け継がれる。


 陽を司るのは陽主、日紫喜ひしき家。

 そのほかに、雲主、久靄くもや家。

 風主、和暮わぐれ家。

 木主、烽火のしろ家。

 海主、碧李あおい家。


 遠い昔のこと――綺羅ノ国の五主家の地位は対等であった。

 天の下に五主家が集い、それぞれの才を生かして綺羅ノ国の平穏を守る――それが、天が五主家に与えた定めである。


 しかし、時を経るうちに五主家はその定めを忘れ、お互いの領や富を巡って無益に争うようになった。国は荒れ、罪のない多くの民が巻き込まれて命を落とすこととなった。


 天は激昂した。

 その怒りは大嵐となって、綺羅ノ国を襲った。

 山は崩れ、川は氾濫し、里や林は大火に襲われ。

 このままでは綺羅ノ国は滅びるしかない――そこで五主家はようやく争いをやめ、天に赦しを乞うたという。


 天は怒りをおさめる代わりに、陽主・日紫喜家を綺羅ノとし、そのほかの四主家を束ねるよう命じた。主家同士が二度と諍いを起こさぬよう、日紫喜に綺羅の番人たる地位を与えたのだ。


 しかし、元は対等であった五主家の中から日紫喜だけを王としたのでは、ほかの四主家が黙っているはずがない。


 そこで天は、日紫喜家にとある命を下した。

 綺羅ノ王の后には、日紫喜家以外の姫を娶るように、というものだ。

 そうすれば日紫喜家の王は、その他の四主家から后を迎えることとなる。日紫喜家だけが大きな力を持つことのないように――という天意であった。


 四主家は天の意に従い、各家の力の均衡を保つため、「二代続けて同じ主家から后を輩出しない」という決まりを作った。それから数百年の時が流れたが、五主家の間に大きな諍いは起こっていない。


 そんな綺羅ノ国の片隅で暮らす久遠は、十六夜家の次男。

 生家である十六夜家は五主家には含まれていないが、ここ十六夜の里を領として与えられている。代々受け継がれるを使い、かんなぎとして各主家に仕える祭司の家系だ。


 綺羅ノ国には、日紫喜の王によって、かつてないほどの平穏がもたらされた――久遠を含め、誰もがそう信じて疑わなかった。


 昨年即位したばかりの若き王の名は、日紫喜ひしき耀よう

 そしてその后は、風主・和暮わぐれ家の姫、花緒はなおである。


 野盗から逃れて物陰に身を隠したこの時の久遠は、自分のすぐ横で怯えている白藍の袿の女が、現王の后――日紫喜ひしき花緒はなおであることなど知る由もなかった。



「……ここまで逃げれば……もう大丈夫な……はず……」


 狭い路地を全力で走って逃げたので、久遠の息はすっかり上がっている。

 民家の裏の壁に背中を預け、へなへなと地面に座り込んだ。


「助けていただいて、ありがとうございました……あの……手を離していただいても……?」


 久遠と同じく息が上がった様子の女は、顔を伏せたまま淡々と言った。紺瑠璃こんるりの質素な麻袴あさばかまを身に付けた久遠を見て、自分とは明らかに身分が違うと察したのだろう。


 せっかく野盗にやられる危険を冒して助けてあげたのに……という口惜しさを抑え、久遠は握っていた女の手を離した。


 野盗からは上手く逃げられたが、奴らがそう簡単に諦めるとは思えない。きっとこの辺りをまだうろついているだろう。


(もう少しこの場所に隠れてじっとしていたほうがいいな)


 そう思って両膝を抱えた久遠の手の甲に、ぽつりと一滴、雨粒が落ちた。

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