不思議な性分

小狸

掌編

 何かの折につけ「これは苦手である」「あれは苦手である」と主張して掌編しょうへん小説を投稿してきて、「苦手」なことには枚挙まいきょにいとまのない私ではあるけれど、今回はまたもそれを更新することになりそうである――というのも、また新たな「苦手」を、思いついてしまったのだ。思い出した、というべきだろうか。


 毎年私の家、正確には私の母方の祖母の家では年末年始に親戚大集合をする。去年一昨年のことが記憶によみがえり、ふと思い返すと、そうなのかもしれないな、と思って、こうしてまたしてもりずに掌編小説にまとめた、という具合である。まあいつも通りうだうだぐだぐだと陰鬱な私が深層心理を吐き出しているだけになるとは思うが、そこはどうか、お付き合いいただけたら幸いである。


 私は、子どもが苦手である。


 いや、失礼。 


 これでは誤解を招きかねないので先に言っておくと、私は子どもを嫌悪しているわけではない。嫌いなんてまさかまさか。むしろ子どもは私の中で、尊い存在である。その上で、苦手である。


 一概に苦手といっても色々種類があるだろうけれど、私の場合は「接し方が分からない」という一点に尽きる。それ以外において、子どもに対しては負の感情を抱いていないと、ここに断言しよう。


 接し方が分からない――のである。


 いやいやあなただって子どもだった頃もあったでしょうその頃に周りの大人がどう接してくれたかを思い起こして同じことをすれば良いんですよ、と思う方もいらっしゃるかもしれない。私もそう思うが、どうも分からない。どう接すれば良いのか――どう接するのが正しいのか、と、考えてしまうのである。


 正しいのか。


 これは私の思考の癖のようなものであり、脳髄にこびり付いている。それをひもとくにはここではあまりに場違いなので止めておくとしよう。


 とにかく、接する上では、悪影響を与えてはいけないだろう、と考えてしまうわけである。


 そして己を振り返る。


 私は正直、大人ではない。


 結婚も出産もまだしていないし(というか実は将来するつもりはない。この辺りは両親に知られると面倒なのでここだけの話ということで)、二十代も半ばになろうとしているにもかかわらず、仕事と休暇の合間を縫って小説を書き、いつまでも夢を見続けている、哀れな人間である。少なくとも、私は私のことを「ちゃんとした大人」だとは思っていない。


 そうなると、子どもたちが私のヘンテコでひねくれた言動を見て、私のようなヘンテコでひねくれた大人になってしまわないか、と途端に不安に襲われるのである。


 親御さん――育児に尽力しているパパさんママさんに申し訳が立たない。


 さて。


 子どもと接するというのも、色々な機会があろう。職場で毎日接するという方もいれば、私のように年に数回という方もいるかもしれない。私の場合は、仕事は教育や育児とは全く関係がない。前述の通り、親戚の――実際にはいとこの子どもと接することになり、3年前に、東北地方にある母方の祖母の家(大きな家である)に大集合した際に初めて対面した。


 小学生低学年と、幼稚園生の子たちであった。


 そしてここからが本題であり、表題にも記した通り「不思議」なことなのだが。


 私はなぜか、子どもに好かれるのである。


 別段、何か子どもたちが欲しいものを買ってあげているだとか、誰か一人を贔屓ひいきしているだとか、人一倍愛想を振り舞いているだとか、そういうことはない。ただ、子どもたちの話を聞き、「うんうん」と言ったり、復唱したり、ボードゲームやトランプで一緒に遊んだり、流行はやりのSwitchのゲーム画面を見せてもらったり、時には部屋の中で遊んでいる子どもたちの様子をぼーっと眺めていたり、そういうことをしているだけなのだが、1年越しに会うにも拘らず、子どもたちは私のことをちゃんと覚えていてくれている。

 

 「好かれる」という表現をより正確にするのなら、子どもが自然と、こっちに来るのである。


 最初は私はガチガチに緊張していたし、私自身子どもたちに変な影響を与えないようにと言葉遣いに気を付けたりしていたのだが、一緒に遊んで、一緒に過ごして、気付いたら帰る時間になっている、ということが、ここ数年起きている。


 一体全体何が起こっているのかは、私には分からない。


 ただ、こっちに来て、一緒に遊ぼう、と言ってくれる。


 そして一緒に遊ぶ。


 それはそれでちゃんと楽しかったりする。


 本当、不思議な性分である。


 どうしてこっちは接し方が分からず内心穏やかではないのに、向こうは普通に接してくるのだ。子どもたちはひょっとしたら私と一緒に「遊んでくれている」のかもしれないけれど、そこに嫌味とか、見下しとか、そういったマイナスは一切ない。


 子どもならではの目線に気付かされることもしばしあるし、私自身は将来多分育児をすることはないだろうけれど、子どもの無邪気さと、純粋さと、時折垣間見える純粋故のずるさも、全てにおいていとしいものだと感じる。


 そのたびに、パパさんママさんたちは凄いなあ、と感じるわけである。


 元気いっぱいのこの子どもたちと毎日を共にするということが簡単ではない、ということくらいは、私にでも分かる――とは言っても、分かることはそれくらいである。実際はそれ以上に、艱難かんなん辛苦しんくを共にし、苦楽を分かち合い、そして何より、愛があるのだろう。


 今年も会うことになるのだろうか。


 また一段と、お兄さんお姉さんになっているのだろうか。


 そう思うと、やはりまだ悪影響を及ぼさないようにしなければ、という緊張感で手に汗にじむこともあるけれど。


 この不思議な性分が続く限り――いやさ、子どもたちとの縁が続く限り、また会えたら良いな、と思う。


 思えるように、なったのだ。




(「不思議な性分」――了)

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