第2話
玄関扉という名の境界条件――厚さ四〇ミリメートルの鋼板と断熱材による複合隔壁――を背後で閉鎖した瞬間、気密パッキンが圧縮され、空気が逃げ場を失って「バム」という低い周波数成分を持つ衝撃音が発生した。この音響エネルギーは、鉄筋コンクリート(RC)造の共用廊下という閉鎖空間(ウェーブガイド)内を伝播し、壁面での反射を繰り返しながら急速に減衰していく。
私は、マンションという巨大な人工多層構造物の、地上二十五メートル地点に位置する「X階」という重力ポテンシャル面に立っている。目の前に伸びる開放型廊下は、透視図法の教科書的な実践の場である。無限遠点に向かって収束する床面のタイル目地と天井の配管群。これらはユークリッド幾何学的な直線を構成しているが、私の網膜上では射影変換され、台形状の視覚情報として処理される。
四月の微風が、建物の側面を吹き抜けている。この巨大な直方体が層流を阻害することで、ベルヌーイの定理に従い、局所的な圧力差が生じている。廊下は一種の風洞として機能しており、手摺の格子がカルマン渦を生成するたびに、風切り音がヒューヒューと鳴る。私は、ポリエステル製のスカートが乱流によって不規則にはためく(フラッター現象)のを、大腿部の触覚センサーで感知しながら、エレベーターホールへの移動ベクトルを生成した。
足元の防滑性ビニル床シートは、摩擦係数を高めるために微細な凹凸加工が施されている。靴底との摩擦音は、コンクリートスラブを透過して下階へ伝播する際、高周波成分がカットされ、不快な低周波ノイズ(固体伝播音)へと変調される。私は集合住宅における騒音トラブルという社会的な摩擦(フリクション)を回避するため、踵骨(しょうこつ)からの着地衝撃を膝関節のサスペンションで吸収し、運動エネルギーを熱として静かに地面へと逃がす歩行アルゴリズムを採用した。
エレベーターホールに到着。私は壁面に設置された呼び出しボタンを押下する。微弱な電流が回路を閉じ、制御盤内のロジック回路が私のリクエストを受理する。上部のインジケーターには、カゴ(搬器)の現在位置を示すデジタル数字が点灯している。
「1…2…3」
カウンターウェイト(釣り合い錘)が重力に従って下降し、そのポテンシャルエネルギーの減少分と、巻上機からの電力供給によって、数百キログラムの箱が上昇してくる。扉が開く。
ステンレス製の鏡面仕上げの内部。
私は箱の中へと身体を滑り込ませる。
閉まるボタンを押す前に、赤外線センサーが私の質量と体積を検知し、安全装置としてのタイマーを作動させる。「1階」のボタンを押下。
扉が閉鎖され、密室が形成される。
微かなインバータノイズと共に、私は下方向への加速度を感じる。ここにおいて、私はアインシュタインの等価原理を身をもって体験する。
エレベーターが下向きに加速を開始た瞬間、慣性力によって私の見かけの重力が減少する。内臓がわずかに浮き上がるような感覚。三半規管の耳石器が、垂直方向のズレを検知し、前庭神経系へ信号を送る。
この箱は、重力という名の時空の歪みの中を、電気モーターの力で強引に座標移動しているに過ぎない。下降中、私は鏡に映る自分を見る。合わせ鏡。光子が二つの鏡面の間を往復するたびに、ガラス基板による吸収と散乱が発生し、像は緑色がかった色調へとシフトしながら、無限遠へと退行していく。
この狭小空間において、もしメインロープが破断したら?調速機(ガバナ)が異常速度を検知し、非常止め装置がガイドレールを把持する。その際、強烈な減速Gが私の頸椎を襲うだろう。
あるいは、安全装置すら作動せず、自由落下に移行した場合、私は無重力状態の中で、床面との非弾性衝突の瞬間を待つことになる。シュレディンガーの猫のように、箱が1階で開くまでは、私は「生きて到着した私」と「潰れた有機物の塊となった私」の重ね合わせの状態にある。
「ポーン」
電子音が鳴り、減速Gがかかる。
私の体重が見かけ上増加し、足裏への圧力が強まる。停止。扉の開放。
私は確率論的に生存し、1階というポテンシャル底へと排出された。
エントランスホールは、大理石(実際にはセラミックタイルだが)によって装飾された空間である。オートロック盤の前を通過する際、防犯カメラのレンズが黒い眼窩のように私を見下ろしていることに気づく。CCDイメージセンサが捉えた私の光学情報は、デジタル信号に変換され、管理室のHDDへと記録される。私がこの時刻にここを通過したという物理的事実は、電子的なログとして固定され、私のプライバシーはセキュリティという大義名分の下で量子化される。
自動ドアの赤外線センサーへ向かう。この焦電型センサーは、私の体表面から放射される赤外線(熱エネルギー)の揺らぎを検知してトリガーを引く。
ガラスの障壁が左右へとスライドする。外部からの侵入者を拒絶し、内部の者を送り出す、半透膜のようなシステム。私は細胞膜を通過するイオンのように、滑らかにその境界を越えた。
マンションという人工的な恒常性維持空間から、外部環境へと踏み出す。
瞬間、圧倒的なエントロピーの奔流が私を襲う。アスファルトからの照り返し。天空に位置するG型主系列星からの光子放射束が、大気層を透過し、私の網膜を灼く。気温の上昇により、空気分子の運動エネルギーが増大している。それは私の皮膚分子に衝突し、熱平衡への移行を促す。私は視床下部の設定温度を維持するため、微量な発汗プロセスを開始した。
通りの舗装路は、炭化水素化合物の混合物(アスファルト)で構成されている。黒体に近いその表面は、可視光を吸収して熱エネルギーへと変換するヒートシンクとして機能している。私はその焼けた大地の上を、重力に抗って移動する。
敷地の境界線付近において、私の予測モデルにない動的オブジェクトが出現した。
「あら、おはようございます」
音声波の発生源は、近隣の住人である40代女性。そして、アスファルトの上には、リードという名の非伸縮性ポリマー繊維によって女性に物理的に拘束された、小型の四足歩行生物が存在していた――通称「チワワ」。
私はその生物の形態学的特徴をスキャンし、進化論的な眩暈を覚える。かつてカニス・ルプス(オオカミ)として、寒冷な荒野で群れを成し、大型哺乳類を狩猟していた頂点捕食者の遺伝子が、数千世代にわたる人為的な選択圧(品種改良)によって、極限まで圧縮・変形されている。
その頭蓋骨の直径はリンゴ程度しかない。脳函の容積が極端に縮小されているにもかかわらず、眼球のサイズは保存されているため、眼窩から眼球が物理的に突出している。さらに、マズル(口吻)の短縮は、鼻腔内の表面積を減少させ、呼吸効率と体温調節機能(パンティングによる放熱)を著しく低下させている。
「キャン! キャン! キャン!」
チワワが私を視認した瞬間、その小さな胸郭からは信じがたい音圧レベルの高周波ノイズが放射された。鼓膜の鼓膜張筋が反射的に収縮し、過剰な振動から内耳を保護しようとする。この吠え声は、恐怖に由来する威嚇行動だ。
体重わずか二キログラムのチワワにとって、質量四十五キログラムの私は、二十倍以上の質量を持つ巨大構造物に他ならない。彼らの扁桃体は、常に生存の危機というアラートを鳴らし続けているのだろう。
「こら、チョコ! ダメでしょ。すみませんねえ、この子、他人が苦手で……あ、ごめんなさい、学生さんよね」
女性がリードを引く。張力ベクトルが発生し、チワワの頸部にかかる圧力が上昇する。気管虚脱のリスクファクターが増大する。女性は「苦手」という擬人的な感情タグを用いているが、実際にはチワワの神経系が過敏にならざるを得ない構造的脆弱性を抱えているだけだ。
「おはようございます。元気ですね」
私は社会的プロトコルに従い、口角挙筋を収縮させて「笑顔」という表情パターンを形成し、無難な音声信号を出力した。
女性とチワワは、共依存的な閉鎖系システムとして完結している。女性はチワワに生存のためのリソース(食料、温度管理、外敵からの保護)を提供し、チワワは女性に「愛着」という名のオキシトシン分泌刺激を提供している。
エネルギー収支としては女性の大幅な赤字だが、精神的な報酬系を含めた総体的な熱力学バランスにおいては、この系は安定しているらしい。私は彼らの脇を通過する。
チワワの放つ、特有のケモノ臭――アポクリン汗腺からの分泌物が、高温多湿な体毛のジャングルの中で皮膚常在菌によって分解された揮発性脂肪酸の臭気――が、朝の新鮮な大気に混じって鼻腔の嗅上皮を刺激する。私は呼吸を浅くし、層流状態で肺へと空気を送り込みながら、その場を離脱した。
背後ではまだ、高周波の吠え声が、ドップラー効果を伴わずにリフレインしている。私は通学鞄のストラップを握り直す。そして今日という1日が始まる。
還元少女 黄昏クゥ @fin654321
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