骨董深山風凛堂 呪物綺譚録

外宮あくと

第1話 真贋の目 1

 濡れた掌で壁をこするような音だった。

 ぎ……ぎぎ……ぎぎぎ……ぎ……。

 不規則で、軋むようなその音は、不快極まりないものだった。

 市原大吾は、暗闇の中で目を開けた。いや、開けたつもりだった。実際には瞬きすらしていない。まつ毛の1本を震わすことさえできないでいる。体の自由を完全に奪われているのだ。恐怖で、体の芯から冷えていくのが分かる。

 心臓の鼓動がドクドクと耳の奥で鳴り響く。

 助けを呼ぼうとしたが、声帯を掴まれたように、息が詰まって一声も発せられない。

 暗闇の奥で、何かが笑った。 ひひ、と短く。そして、耳元で市原に語り掛けるに。——まだ足りない。もっと……もっと……だ。

 恐怖で狂乱する中で、分かったからもう止めてくれと懇願したところで、視界が弾けるように開いた。

 市原はベッドの上で跳ね起きた。胸を押さえ、乱れた息を必死に整える。壁の時計は、午前3時24分を指していた。


「……また、だ……」


 顔を覆う指先がひどく冷え、小刻みに震えていた。

 市原を襲うあの音、あの声、あの笑い。単に悪夢と呼ぶだけでは足りない、悪意の塊による精神の浸食だった。

 市原は恐る恐る自分の部屋を見回し、また息を呑む。

 先週買った掛け軸がガタガタと震えている。

 その前に買った小さな花瓶からは、花の代わりに手や足が何本も生けられている。ほかにも部屋中で、カサカサ、コソコソと、何かが蠢いている。

 それらは、3か月前から夢中になって買い集めた骨董品たちだ。

 はじめは、安月給の自分にも大金を得るチャンスが来たのだと有頂天になっていた。それが、こんなことになるとは夢にも思わなかった。



 すべての始まりは『真贋の目』だった。

 祖父が亡くなった後、遺品の中に埋もれていた小さな木箱を見つけた。中には古い片眼鏡が入っていて、『真贋の目』と書かれた黄色くなった紙片もあった。

 言葉の意味するところは、全く分からなかったが、市原はその片眼鏡の古めかしいデザインを気に入り、祖母の許しを得て持ち帰ったのだ。

 『真贋の目』の意味が分かったのは、その数か月後だった。月命日に 亡くなった祖父宅を訪れたときのことだ。祖母が祖父の思い出を話し始めたのだ。

 祖父は骨董好きの道楽者で、ろくに品を確かめもせずに購入してしまうものだから、いいカモにされていたと祖母は苦笑した。そして、床の間に飾ってある二幅の掛け軸を指さした。どちらも山水画なのだが、祖母によると、右は高名な作家のもので何百万という値が付き、左はそれを真似た真っ赤な偽物なのだという。言われても、市原には全く善し悪しの判断はつかないのだが。

 祖母が席を立ったとき、鞄の中でチャリと音がした。開けてみると、片眼鏡が入っていた。すっかりその存在を忘れていた市原は首を傾げた。持ってきた覚えはなかった。もらったあと、鞄に入れたままにしていたのだろうか。

 何気なく片眼鏡を付けてみた。二幅の掛け軸を見てみると、右の掛け軸はほんのり青白く光り、左は靄がかかったように曇って見えたのだ。驚いて、市原は部屋にある壺や置物を片っ端から片眼鏡で見た。ほとんどは曇り、数点の皿や壺だけが青白く光った。

 戻ってきた祖母に、祖父が集めた品々は本当に本物なのかと興奮気味に尋ねると、がらくたばかりで大したものはないわよと笑った。でも、祖父が大事にしていたものだから手放せないのだととも。

 市原は確信した。この片眼鏡は、骨董品の真贋を見極めてくれるのだと。


 その日から、市原は幾つもの骨董店を回り、青く光る品々を買い集めるようになった。ときには数百円の品もあり、本物をこんな値段で売るなんて馬鹿なやつらだなと内心で笑うこともあった。これを然るべきところで鑑定してもらえば、大金が手に入ると信じていた。

 片眼鏡は嘘をつかない。そう思い込んでいたのだ。


 夜が明けると、市原は大きなキャリーケースをふたつ乗せて車を走らせた。

 もう耐えられなかった。 なんとしてでもこの怪異から逃げなければ、命さえ危ない気がしていた。





 大都会の下町の外れに、古びた木造二階建ての建物がある。古地図に載っていそうな、歪んだ路地の奥だ。大通りから少し入るだけで、時代が一つ変わったような静けさが訪れる。昼間は近所の人たちがそれなりに通る路地だったが、夜になると一気に寂れ、人影はほとんどなくなってしまう。

 骨董深山風凛堂は、そんな路地の奥に静かに佇んでいた。

 街灯もちらほらで、店の前に吊るされた風鈴が寂しげに揺れ、古ぼけたランタンが頼りない明かりを提供していた。

 店主、深山凛一は、店の奥の畳を敷いた小上がりで、一人静かに本を読んでいた。ピンと背中を伸ばし正座をしている。ネクタイはしていないが、白いワイシャツのボタンをきっちり首まで留めていた。もっとリラックスすればいいのにとよく言われるが、彼にしてみれば無理をしているわけではなく、ただそれが彼にとっての自然体であるだけだった。

 色白で、切れ長の目をした凛一は、痩身ではあったが絵巻物から出てきた平安貴族ような印象を与える。ちょっとしたしぐさの端々にも、品の良さが漂っていた。

 柱時計がぼーんぼーんと鳴り、凛一は顔を上げた。本を閉じ、そっと文机の上に置く。代わりに扇子を取り、軽く扇いだ。白檀がほのかに薫る。夏の盛りはとうに過ぎていたが、秋にしてはまだまだ暑い日が続いていた。

 店内を見回せば、いつもとなんら変わらぬ品々が並んでいる。つまり、今日も何も売れず、買取もなかったということだ。

 だが、凛一は特に気にしてはいなかった。十何年も前から置いてある古伊万里の大皿や初代柿右衛門の壺はお気に入りなので、むしろ売れなくてよいとさえ思っていた。

 好きなものに囲まれる幸せをかみしめるように、凛一は大きく息を吸い込んだ。

 ふわりと漂う煙草の匂いは、店の古木が蓄えた記憶のようにも感じられる。凛一は煙草を吸わないのだが、先代の店主や何十年も前の客の名残が、柱や壁に染みついているのだ。この空気感が、何よりも心地よかった。

 戸締りをしようと凛一が立ち上がったそのとき、ガラスの引き戸がぎしぎしと音を立てて開いた。

 現れたのは大学時代の友人、市原大吾だった。卒業後は地方にある実家に戻り、そちらで就職したと聞いていた。

 市原は、部屋着のままやってきたようで、くたびれたスウェットの上下を着ていた。髪は乱れ、目の下には濃い隈ができており、両手に大きなキャリーケースを持っていた。落ち着きなく目をきょろきょろさせ、風で揺れた風鈴の音にさえ怯えたように後ろを振り返る。

 戸を閉めた後、市原は形だけの笑みを浮かべた。


「やあ凛、久しぶり。こんな遅くにすまんな。道に迷っちまって。でも、会えてよかった……」

「本当に久しぶりだね、市原。ずいぶん慌てているようだけど、何かあったのかい?」


 卒業以来の再会となれば、近況報告や昔話に花を咲かせるものだろうが、市原の様子からするとそんな場合ではなさそうだった。


「とりあえず座りなさいな。煎茶でいいかい?」


 そう言って茶葉を入れた急須に湯を注ぐ間も、凛一は市原の観察をしていた。

 市原は2つのキャリーケースを置くと、なるべくソレから遠ざかりたいというように、小上がりの隅に座った。まるで凛一を盾にしているような感じだ。その市原の背中には、黒い煤のようなものがくっついている、と凛一には見えた。

 市原の前に茶碗と茶菓子の煎餅を置いた凛一の背筋は、やはりピンと伸びていた。


「ありがとう。なんか悪いな……連絡もせずに押しかけて」

「別に構いやしないよ。どうせいつも閑古鳥が鳴いているような暇な店だからね。……で、困りごとがあるのなら聞くよ」

「……実は、骨董品を買い取ってもらいたいんだ。最近、買い集めたものなんだけど、もう手放したいんだ」


 市原はかすれた声でそう言って、キャリーケースに目をやった。


「できれば、全部買い取ってほしい」

「そのために、わざわざこんな遠いところまで来たのかい?」

「近くの店では断られてしまって……。お前なら、友達のよしみで買ってくれるんじゃないかって。図々しいこと言ってすまん。でも、品は本物なんだ! ほかでは断られたけど、間違いなく、正真正銘の本物なんだよ! 相場より安くても全然構わないから……頼む!」

「本物、ね。それは品を見てから判断させてもらうよ」

「お前がそう言うのは分かるよ。……でも、これを見てくれ」


 市原は震える手でポケットから片眼鏡を取り出し、凛一に見せた。


「これは祖父の遺品で、『真贋の目』っていうらしいんだ。この眼鏡を通して見ると偽物は曇って見えて、本物だけが青白く光るんだ。信じられないかもしれないけど、本当なんだよ!  これがあるから……間違いないんだ……」


 まるで自分に言い聞かせるように市原は言った。

 片眼鏡を受け取った凛一は、目を細めた。

 そして、片眼鏡を付けて店内を見回した。そして、ほうっと小さく感嘆し、うっすらと微笑みを浮かべる。


「……なるほどね」


 凛一は再び扇子を取り、ぽんと掌を叩いた。

 その小さな音一つで、店内の空気が一段階引き締まったようだった。


「まずは、骨董の価値について語ろうか」


 市原をまっすぐに見つめる凛一は、教師然として揺るぎない自信を見せていた。自分の生業の領分なのだから当然のことではある。


「骨董の価値を、単純に本物か偽物かという二択で考えてはいけない。価値を決めるには、少なくとも5つの事項を考えあわせる必要がある」


 凛一は滔々と語り始めた。

 1つ目は、品物そのものの由来。誰が、いつ、何のために作ったか。そういった背景となる物語が必要だ。

 2つ目は、保存状態。傷の有無だけではなく、どう扱われ、どう眠ってきたかという時間の積み重ねも重要である。

 そして3つ目は、その品を見る者。


「見る者?」

「そう。骨董品は、古いもの=高いものという図式では決して語れない。価値を見出す『目』がなければ、なんの意味もないんだよ。1,000万円の壺でも、それと知らずに100円の花瓶だと思って使い続ければ、それは100円の価値しか持たない。逆に、模倣品であっても、ある人間がその品を愛し、そこに物語が生まれれば、それ相応の値が付くこともある」

 

 そして4つ目は、時代と需要だと言った。

 たとえ本物でも、需要がなければ値は付かない。時によっては、桃山時代の志野の名品より、戦前のノスタルジックな看板に高値がつくことだってある。つまり価値は時代と市場で揺れ動くものなのだ。

 最後の5つ目は気配だと凛一は語る。

 骨董品は、人が触れ、使い、飾り、愛した時間そのものを抱えている。それが品の気配となる。良い気配を持つ茶碗は、触れれば静かに手に馴染むし、居心地の良い沈黙がある。逆に、作り手が無心でなかった作品、悪意に満ちた所有者がいた品、乱暴に扱われた道具には、澱が溜まると。


「骨董に不慣れな人には感じ取れないかもしれないけど、この商売を続けていると自然と分かるようになってきてね。この品は、長年持ち主に慈しんでもらったとか、これは何かが憑いているとか……」


 そう言って凛一は、怯える市原の背後に漂う黒い煤のような影を眺めた。そして文机に置いていた片眼鏡をもう一度手に取る。レンズの奥で黒い靄が渦を巻いて脈打っていた。恐らく、市原が持ってきたキャリーケースの中に入っている品々も、同じように黒い煤をまとっていることだろう。


「講釈はここまでにしようか。僕の言いたいことは、もう分かっているだろう? この片眼鏡が示したからといって、その品が価値ある本物だとは限らない。価値を決めるのはこんな眼鏡じゃない、人間なんだ」


 市原はびくりと体を震わせる。


「じゃあ、なんで青く光って見えたんだ……真贋の目ってどういう意味だったんだよ」

「少なくとも、骨董品の真贋のことではないね。それから、一つ言わせてもらうと、電子機器でもあるまいし、物が光って見えることを最初に不審に思うべきだったんじゃないかな?」


 ぐうの音も出ずに、市原は黙り込んだ。

 凛一は、両ひざの横に手をついて、正座のまますっと前に出る。市原の鼻先まで顔を近づけて、その眼をのぞき込んだ。


「ねえ君、少しお金に困ってるんでしょう? 骨董品を高値で売って一儲けしようって考えたんでしょう? その欲のために眼鏡を利用したんだ。そして、骨董を集めだした途端、恐ろしい目にあったんじゃないのかい。で、もしかしたら骨董のせいかもしれないと思って手放したくなった……そんなところじゃないかな。全部話してごらんよ。商談はそれからだ」


 市原は、ごくりと唾を飲み込んだ。そして、うなだれた。


「お前の言うとおりだ。なんで、全部分かるんだよ……。俺、もう怖くて怖くて……。凛、本当にすまん。呪いの品なのかもしれないって思いながら、黙って売りつけようとして……」


 情けない顔をする市原を見て、凛一は苦笑した。


「別に構やしないよ。君は、根が正直だからね、嘘は何一つ言ってないんでしょう。本気で僕を騙す気なら、眼鏡のことは持ち出さず、全て好事家の祖父から譲り受けたと名品だと言えばよかったんだよ。よそで買い取りを断られたなんてことも言わずにね。君は、ほんの少しばかり隠し事をしただけさ。友達のよしみだ、助けになるよ」


 すまないと何度も頭を下げる市原の肩を軽く叩き、凛一は立ち上がった。

 手にした扇子を一間開きにし、そっと口元を隠した。


「では、ここから先は奥の部屋で話そうか」


 骨董深山風凛堂の奥にある部屋は、通常の客には決して見せることはない。特別な客のための特別な品が並んでいるのだから。

 凛一は、市原にキャリーケースを持ってついてくるように言った。

 小上がりの隣にある小さな引き戸の前で凛一は一度立ち止まり、掌を戸に当てた。そして、ゆっくりと瞬きしたあとに戸を開ける。

 薄暗い廊下が現れ、凛一に続いて市原も戸をくぐった。裸電球がチカチカと瞬いている。2人が進むと古い木の床が軋んだ。

 市原は進むにつれ、首筋がひりつくような違和感を覚えた。廊下が長すぎるのだ。じっくり見たわけではないが、この建物にこれほどの奥行きがあったようには思えなかった。


「なあ、凛……。なんか変だぞ。空気が重いような気が」

「気のせいじゃないよ。ここは呪物の保管室だから」


 そういって凛一は立ち止まり、戸を開いた。

 

「じゅ……ぶつ……?」


 市原の足が止まった。部屋の中は、ほかの世界と切り離されたような空間だった。

 一歩足を踏み入れた途端、市原の視界がぐらりと揺れた。倒れそうになり、思わず柱を掴んだ。だが、その感触に驚いて、またこけそうになった。腕を取って支えてくれたのは凛一だった。

 柱にかかっていたのは人形だった。おもちゃ屋によくある量産品の赤ちゃん人形なのだが、生暖かい体温があったのだ。

 古鏡が壁にかけられ、その表面はまるで生きているようにゆらゆら揺れている。棚には木彫りの像、ひび割れた陶器、焦げた護符、古びた面。そのどれもが、市原を見つめているような気がした。


「なんなんだ。ここ、本当に骨董屋かよ……」

「もちろんだよ。表の顔はね」

「表の顔って……裏もあるのかよ」

「いやだな君。ここにあるじゃないか」


 市原の背にぞくりと震えが走った。

 扇子の影でクスリと笑う凛一が、まるで市原の知らない人間のように見えた。


「ようこそ。呪物取扱店、もう1つの深山風凛堂へ」

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