🐾​第3話:庭先の一歩と崩壊



 ​ 昼前、葉子ちゃんは目覚めると、いつものように我輩にモフモフするのを要求したが、すぐに違和感に気づいた。


「あれ……?オルゴール、どこ?」


 ​ ベッドサイドの棚に手を伸ばした葉子ちゃんは、大切なオルゴールがないことに気づき、飛び起きた。


​「ニャン太、知らない?私のオルゴール!お母さんがくれたやつ!」


 ​ 葉子ちゃんの顔から血の気が引いていた。それは両親との思い出の、何にも代えがたい宝物だった。


「知らないニャ。我輩、ずっと葉子ちゃんの横で寝ていたニャ」


 ​ 我輩は心を鬼にして、澄ました顔で答えた。

 葉子ちゃんの視線が、我が輩の猫の顔に注がれる。不審と怒りと、そして強い動揺が渦巻いていた。


 ​ 葉子ちゃんはパニックになり、散らかった部屋中を探し回った。 しかし、オルゴールは見つからない。

 彼女の泣きそうな顔を見ているのは辛かったが、我輩は動かない。これが、葉子ちゃんを救うための唯一の方法だと信じた。


「まさか……外?」


 ​ 葉子ちゃんの顔色が一変した。

 我輩が最近、家の外回りや庭の片付けばかり気にしていたことを、葉子は思い出したようだった。


「ニャン太、まさか、わざと外にやったの……?」


「自分で探すニャ。我輩は知らないニャ」


 ​ 我輩が初めて見せた冷たい態度に、葉子ちゃんは声をあげて泣き崩れた。


「ひどい!ひどいよ、ニャン太!私、外には行けないのに!」


「無理して行かなくてもいいニャ。我が輩が一生懸命働けば、オルゴールなんてまた買えるニャ」


 ​ 我が輩の言葉は、葉子ちゃんの胸に深く突き刺さった。

 オルゴールは、お金で買えるものではない。

 両親の愛と、過去の彼女の生活そのものだった。


​「……行く」


 ​ 葉子ちゃんは、掠れた声で呟いた。

 瞳には涙が溢れていたが、その奥に強い決意の光が宿っていた。


「オルゴールだけは、諦められない!」


 ​ 葉子ちゃんは震える体で玄関へ向かった…… 我輩は、そっとその後を追った。

 葉子ちゃんは、重い扉の前に立ち尽くしていた。

 深呼吸を何度も繰り返している。

 外の世界への恐怖と、オルゴールを取り戻したいという強い欲求が、激しく彼女の内でぶつかり合っていた。


 ​ ギィ、と乾いた音を立てて、玄関の扉がわずかに開いた。

 眩しい日光、外の空気の匂い、そして微かな車の音が葉子ちゃんの顔を撫でる。

 ​ 彼女は周囲を警戒しながら、猫のように背を低くして庭に出た。

 目指すは、庭の隅にある古びた物置。

 我輩は隠れて、そっと見守った。


 ​ 葉子ちゃんは、物置へ向かって震えながら一歩、また一歩と進む。

 その数メートルが、まるで地の果てへ続く道のように長く感じられただろう。

 ​ あと少し、葉子ちゃんが物置の扉に手をかけようとした、その時だった。


 ​「あら、ようこちゃんじゃない!」


 ​ けたたましい声が、隣家の窓から飛んできた。

 ゴシップ拡声器、間茶美おばさんだ。


 ​「まぁ!本当に久しぶりねぇ。えらい!ちゃんと生きていたのね。ずっと家から出ないって、近所で大騒ぎだったのよ!」


 ​ 間茶美おばさんは悪意があるわけではない。

 ただの世間話のつもりだったのだろう。

 だが、その言葉は葉子の心臓を氷の刃で貫いた。


 ​「大騒ぎ」「ずっと家から出ない」……葉子ちゃんが最も恐れていた言葉。


 ​ 葉子ちゃんの顔は、瞬時に真っ青になった。


 全身の震えが止まらない。


 目の前にオルゴールがあることなど、どうでもよくなった。


 彼女の頭の中を満たすのは、ただ一つの感情。


 ​ 恐怖と羞恥、葉子ちゃんは物置から手を離し、叫び声をあげることもできず、脱兎のごとく家の中へ逃げ戻った。


 ​ バタン!


 ​ 玄関の扉は激しい音を立てて閉まり、そのまま内側から鍵がかけられた。

 ​ 我輩は、その場に立ち尽くした。

 庭先には、日光の下で、古いオルゴールが物置の影に寂しく隠れている。


 ​「ニャ……」


 ​ 部屋の扉の向こうから、葉子の嗚咽が聞こえてきた。

 前よりもさらに激しく、深く、絶望的な泣き声だった。


 ​ 我輩の計画は、葉子ちゃんを救うどころか、彼女を決定的に外界から断絶させてしまった。



 ​ ── 我輩の……我輩のせいニャ。


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