おじさん公務員と熱々のコーヒー②


 「あっちちちえええーーーッ!!!」


 市役所庁舎中に、おじさん公務員の間抜けな叫び声が響き渡る。


 その声は当然、待ち時間を持て余している市民の気を引きまくり、そして何よりも、この出来事の直前に市役所の玄関をくぐったとある金髪の女性の気をも引き付けた。


 その彼女が、本物のゴールドみたいに燦然と輝くブロンドを複雑に編み込んだ髪型の乙女が――


 公務員と市民をへだてるカウンター《障壁》をためらいなく乗り越え、


 ――あろうことか素早い動作で私の腰のベルトを外し、ズボンの留め具を外し、そして緩んだウエストから一気に引きずりおろした。


 要するに、私の濡れたズボンを脱がせた。熱々のコーヒーで汚染された私の下半身の防具を消し去った。


 その間、私は何もしなかった。何もできなかった。されるがままだった。


 ここで一つ、言い訳をさせて欲しい。私が動けなかったのは、彼女の動作になんの迷いもなく、一切のためらいもなかったからだということを――。


 金髪の乙女のあまりにも予想外なその行動を、私は茫然自失して、時が止まったように、完全に受動的に受け取ることしか出来なかった。


「そこのあなた、すみませんがすぐに濡らしたタオルを……はい、お願いします」


 彼女は、私の露出した下半身を確認すると、速やかにそんな指示を飛ばした。


「安心してください。火傷はそこまで酷くありませんよ――」


 私にそんな声をかけた金髪の乙女は、運ばれてきた濡れタオルを受け取るとすぐに、私の足元に膝をつく。


 その後で――


 露出した腰のあたりで、光り輝く金髪の小さな頭が、上下している。


 深紅の裏地のマントの下で、白シャツによって強調されすぎている胸のふくらみが、ゆさゆさと揺れている。


 金髪の乙女が、私の太股の液体を、濡れタオルで拭う。


 ――足元で繰り広げられた、そんな光景を私は黙って見下ろしていた。


 ……いや、これでは本当にただの”変態おじさん”でしかないが、しかし火傷の痛みに耐えるのに必死で、何一つ言葉にならなかった。 


 おそらく私よりもずっと若い彼女の名誉のために補足しておくと、女性市民の放った凶弾は、私の体の正中線を、つまり”大事な部分”は完全にそれて、そのほとんどが右の太股に直撃していた。


 だから、そこの所だけは勘違いしないでほしい……というか、私は何を、誰に対する言い訳しているんだ?


 いや、全く違う。落ち着け、私。


 この話の”大事な部分”は、そこじゃない。


 大事なのは、彼女が身に着けている制服のこと。”赤い裏地のマント”を羽織っていること。


 今更、こんなことを言っても負け惜しみに聞こえてしまうかもしれないけれど、帝国の下っ端公務員としてやっていくならば、絶対に覚えておかなければならないことがある。


 それは帝国中央の官僚たちが、地方公務員よりも圧倒的に地位が高い彼らが、常日頃から身に着けている制服の種類だ。


 ――”赤い裏地のマント”


 それは紛れもなく”帝国司法官”の制服の特徴だ。


 帝国司法官と言えば、広大な帝国内にわずか16人しかいないエリート中のエリート。


 私ごとき地方の下っ端公務員では、影さえも踏めないほど高位の帝国官僚。


 その司法官にこんなことをさせてしまっている今の私の現状を、もしありのままに上司にでも報告されれば、確実に私のクビは飛んでしまうだろう。


 いや、もしかすると物理的な方のクビもだいぶ危うい……のか?


 火傷の痛みによるものではない冷や汗が背中を伝い、ようやく私は冷静さを取り戻した。


「司法官殿、ありがとうございます……あの、もう大丈夫ですから……あとは自分で出来ますから……」

「もうすこしで終わります。だから、じっとしていてください――」


 真剣なまなざし、真剣な表情を一切崩さずに、彼女は私のことを見上げる。


「あなたみたいな若い女性が、私みたいなおじさんのこか……とっ、とにかく後は自分で出来ますから」

「大丈夫です、もう終わりました」


 その時、彼女はおもむろに立ち上がり――


 「すみませんが、約束の時間があるので私はもう行きます。


 あとは医務室で治療してもらってください、


 ――それだけ言い残すと、帝国司法官殿はあっという間に、この場から消え去ってしまった。


 ん?今、何か大事なことを聞き逃した気がするが……。


 あまりの状況の変化について行けずに私は一瞬、呆けてしまう。


 それがよくなかった。


 なぜなら、現在の状況を客観的に描写するなら、――


 どういうわけか下半身を間抜けに露出しているおっさん公務員がひとり、公共の場である市役所の玄関正面に立ち尽くしている。


 ――そうとしか言いようがないからだ。


 女性司法官が欠けていた緊張という魔法の糸が切れた今この瞬間、その事実に皆が一斉に気付いた。


 その隙をある一人の市民が目ざとく見つけた。誰あろう、私に淹れたてコーヒーをぶっかけた、あの女性市民である。


「ちょっとあんた何やってるのよッ!こんな公の場で突然、下半身を露出するなんてッ!!変態なのッ!!!」


 女性市民のその指摘は、無関係な第三者からすれば、真っ当なものに思えたのだろう。


 だから、彼女のとんでもない主張は一瞬にして、場の雰囲気を支配した。


 細かい事情は遠くにいる職員やたった今、役所に入ってきた新しい市民には理解できない。


 だから、女性市民のそんな最後の悪あがきは、意外にも効果的だった。


 孤立無援の状況。社会的絶体絶命の危機に私は陥った。


 その時、一人の公務員が手を挙げた。挙げてくれた。


「あっ、あのッ!私、ちゃんと見てましたから、この女の人が先輩にコーヒーをぶちまけたところッ!!」


 彼女は、私の後輩だった。


 勇気ある後輩の一言が、ようやく私にとっての悪夢を、女性市民にとっては最後の足掻きを終わらせる。


 駆け付けた警察により、女性市民は連行され、私は社会的な死の運命を間一髪のところで避けることが出来た。


 彼女の行動が無ければ、私は”変態おじさん”の烙印を押され、この市役所から追い出されていたかもしれない。


 本当に助かった。


 その後、私はその素晴らしい後輩に感謝を示すことに一杯で、あの帝国司法官が私のことを何と呼んだのかなど、最早、気にも留めていなかった。


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