終
『あー、遅くなった。きっと兄ちゃん、拗ねるなあ。……え?』
ドンっという衝撃と、きーっというブレーキ音が聞こえたと思ったときには、体が宙に浮いていた。そして、何かにたたきつけられる感覚。
コンクリートのように固く感じたけれど、それは僕を包み込むように飲み込んだ。
鼻から、口から、水が入って来る。体が痛くて手足が動かせない。少しずつ沈んでいく。
ああ、死ぬんだ。漠然とそう思った。
僕はこのまま、誰にも知られずに死んでいくのだろうか。
そういえば、僕は兄ちゃんに会う予定だった。きっと悲しむだろう。
兄ちゃん。兄ちゃん。……兄ちゃんとは、誰だったっけ。
僕は一人っ子で兄ちゃんなんていないはずだけれど。
違う。そうだ、いたじゃないか。近所に住む、金持ちのくせに貧乏暮らししてる変な兄ちゃん。
一緒に桜、見たかった。
兄ちゃん、兄ちゃん。――蘇芳兄ちゃん。
「芳樹! 芳樹!!」
「……す、おう、にぃ、ちゃん?」
「芳樹! 良かった、目を覚ました! 待っていてね、今お医者様を……え? 芳樹、もうしかして、記憶……」
「ここ、どこ? なんで僕寝てるの? ……痛っ」
「ああもう、寝てて。とにかくお医者様を呼んでくるから」
起き上がろうとした僕を無理やり寝かしつけて、蘇芳は部屋を去った。
真っ白な部屋や点滴などの機械で、ここが病院なのだと理解する。
「えーっと、確か蘇芳兄ちゃんと桜を見る約束をして、花見の場所に行く途中の川のところで大きな衝撃がきて。あーあれ、たぶん車だよね。僕、飛ばされてそのまま川に入っちゃったのか。で、この状況?」
いや、違う。何かが抜けている。何が抜けているのかが思い出せなくて歯がゆい。
何だったかな、と頭を抱えていると、がらりと引き戸になっている病室の扉が開いた。
起き上がるのは億劫なので視線だけでそちらを見やると、うつむいた青年が佇んでいる。
「えっと、あの……」
「ごめん! 芳樹、本当にごめん。俺のせいだ。良かった。死ななくて良かった、ごめん」
ごめんごめんと謝り続けながら、青年は勢いよく僕の布団に縋り付いて泣いた。その姿と誰かがうっすらと重なり、それがやがてはっきりとした実態に変わる。
「悠斗……」
「ごめん、ごめんな。謝っても許してもらえるかわかんないけど、ごめん」
「落ち着いて、悠斗。僕は怒ってないから、顔をあげて」
「でも、俺……」
「大丈夫。僕はこうして生きてる。だから、怒ってないよ」
「俺は大いに怒っているけれどね」
悠斗に言い聞かせるように優しく諭していると、怒りを隠そうともしない声が聞こえた。
よく聞き知っている声に、少しうれしくなってそちらを見やる。
蘇芳は大きくため息をついて僕のもとへ近づき、おでこを優しくはたく。
「あのね、芳樹。君は三日間も寝ていたんだよ? その間、もうしかしたら二度と目が覚めないかもしれないと言われた俺の気持ちが分かるかな?」
「ごめん、蘇芳兄ちゃん。心配かけて、ごめん」
「……悠斗くん、だっけ。俺は芳樹と話がしたいんだ。もちろん、退席してくれるよね?」
笑顔で圧力をかける蘇芳に、悠斗は早々に立ち去った。
今まででこんなに怒っている蘇芳を見るのは初めてだ。普段優しい人ほど怒ると怖いというのはなまじ嘘ではないらしい。
蘇芳はこちらに向き直り僕の手を取ると、自分の額へと寄せた。
「良かった、本当に。君は何度僕に肝を冷やさせたら気が済むの?」
「ごめん、兄ちゃん。今回も、……10年前も」
「記憶、戻ったんだね?」
「うん。なんか変な感じ。タイムスリップでもしたみたいだ。夢でも見てたみたいだけど、10年たってるんだもんなあ」
長い夢から覚めたら10年経っていたというような感覚だ。この10年間のことも覚えているし、当然10年前以前の事も覚えている。
本当の両親のことをちゃんと両親だと思いつつも、絹江さんや街のみんなを家族だと思える。
「ねえ、母さんと父さんは元気にしてる?」
「……芳樹」
「どうしたの?」
「芳樹、落ち着いて聞いてくれ。沙希さんも浩二さんも、……亡くなったんだ」
「え?」
沙希と浩二は、まぎれもなく実父実母の名前である。10年間会えなかった、本当の両親。
中学卒業式の朝、つまり僕が事故に遭った日の朝、元気に玄関まで見送ってくれた。弁当を蘇芳と二人で食べるようにと持たせてくれた母、帰りは迎えに行くと言ってくれた父。いつもの朝が、非日常に変わるなんて思いもしなかった、あの朝のことを、まさに昨日のことのように覚えている。
その両親が、死んだ? なぜ?
「芳樹がいなくなってから、二人は毎日芳樹を探してた。絶対生きてるに違いないって。川に流されたかもしれないからと川の下流に行ったときだった。大きなトラックが信号無視で突っ込んでね、二人とも……即死だったって」
「そん、な……」
つまり、僕のせいで二人は死んだのか。僕があの日いなくなったから、二人は僕を探して、死んだのか。
僕が生きているのに、二人は、死んでしまったのだ。
整理しきれない頭が、整理することを拒んでいるのを感じる。
もうやだ、何も考えたくない。
駄目だ、考えなければ。二人のこと、これからのこと、ちゃんと考えなければ。
投げ出したい思いと、冷静な考えが頭でせめぎ合っている。頭がパンクしそうだ。
気が付けば僕の瞳からは、涙があふれていた。何故あふれているかも分からなかった。ただ止めどなく流れていた。まるですべてを流してしまうかのように。
蘇芳は、僕を無言で抱きしめていた。泣き止むまでずっと、何も言わずただ抱きしめてくれていた。
どれだけそうしただろう。数分のようにも感じたし、数時間のようにも感じた。
「蘇芳、兄ちゃん……」
「芳樹、落ち着いた?」
「どうして兄ちゃんは、僕が記憶を無くしているときに初対面のふりをして話しかけて来たの? 親が死んでるくせにそれに気づかないでのうのうと過ごしてる僕を、内心では嘲笑ってた?」
「そんなわけないだろ! 初対面のふりをしたのは、君を混乱させたくないのと……俺が、ずるい大人だからだよ」
「ずるい、大人?」
僕が問うように聞けば、声の調子を下げて、蘇芳は懺悔でもするかのように言葉を続けた。
自嘲気味に笑って、けれどどこか痛いほどの悲しみと思いを含んで。
「俺を覚えていないと知ったとき、正直ラッキーだと思ったんだ。1から関係を作れたなら、君が俺を好きになってくれるかもしれないから」
「どういうこと?」
「俺はね、芳樹。ずっと君が好きだったんだ。それこそ、沙希さんが俺の名前の一字を君に充てた時から。もう一字を充てた和樹兄さんに嫉妬するほどにね。だから、ずっと君を俺だけのものにしたいって思ってたんだ。引いてくれていいよ。気持ち悪いだろ?」
蘇芳は、僕のことが好きだったから1から関係を築こうと思ったと言った。確かに、当時の僕にとって蘇芳は兄さんだった。本当は兄さん以上の感情を持っていたけれど、それに気付けるほど大人ではなかったから、当時告白されていても受け入れることはできなかっただろう。
それでも、気持ち悪いなんて思うはずがない。僕は今、自分の気持ちがはっきりとわかっているのだ。
記憶を失っている間、蘇芳のことが気になっていた。苦手なタイプだったのは多分、失っていても蘇芳のことを覚えていて、蘇芳以外に蘇芳のような人物はいて欲しくなかったからだと思う。そうであってほしい。
そして、苦手なのに気になってしまっていたのは、きっと失っていた記憶が僕に訴えかけていたからだ。この人が大切な人だ、と。だから離れてはいけないような気がしていたのだ。少しずつ蘇芳に好意を寄せていったのも当たり前だ。だって、もともとこんなにも好きだったのだから。
「気持ち悪くなんてないよ。僕にとって兄ちゃんは、永遠のヒーローだった。それは今でも変わらない。でも、記憶を無くしてたおかげで気付けたよ」
強く打った頭が痛むので起き上がることはできなかったけれど、精一杯腕を伸ばせば、蘇芳は自分から抱きしめられに来てくれる。
蘇芳を両腕に感じながら、僕は嬉しさで声を詰まらせながら、続ける。
「僕はずっと、蘇芳兄ちゃんが……ううん、蘇芳が好きだった。特別だと思っていたんだ。蘇芳に彼女ができるのは嫌だとか、ずっと一番でいたいと思うくらいに。仲が良い和樹兄さんに嫉妬するくらいに」
「芳樹……?」
「蘇芳、僕、一人になっちゃった。ねえ、蘇芳も僕を置いて、どっかへ行っちゃう?」
ずるい聞き方だとは自覚してる。それでも、これもまた本心だった。
蘇芳がいなくなれば、両親がいない以上、本当に一人になる。
記憶を取り戻した僕にとっては、絹江さんたちは大切な人ではあるけれども、それでも家族ではない。もう彼女たちの世話になることも無くなるだろう。自分は二人にとって家族ではなく、二人にも良樹という本当の家族がいるのだから。たとえ姿は無くても、良樹のポジションを僕が奪ってはいけない。
蘇芳は驚きで目を丸めたのち、首を左右に振った。
「どこにも行かないよ、俺は芳樹のそばにいる。これからもずっと一緒だ」
僕のずるい聞き方を怒るでもなく、悲しむでもなく、慈愛に満ちた表情で、蘇芳は優しく僕にキスをした。
それから事態は急展開を迎えた。
両親の事故は、事件の発覚を恐れた院長が引き起こしたものであり、つまり院長の息子の事故を隠ぺいするために殺されたということが発覚したのだ。
発覚したのは、司法試験に合格し、医師免許まで持ち、さらには知る人ぞ知る大手企業の会社の一部の社長として運営しているという至る所にコネクションのある蘇芳が、気合を入れて捜査しなおしたからだ。持つべきものはコネクションである。
弁護士と医者と警察官という三大コネクションには困らないどころかありあまりそうだな、とのほほんと構えつつ事の顛末を両親の墓前で知らせれば、そんなことよりも僕が見つかって嬉しいとでも言うような風が吹いてきた。僕がそう思いたいだけなのか、それとも本当に両親の言葉が風に乗って来たのか。
何にしてももう成人も済ませている社会人なので、これ以上保護者は必要ないということで、絹江さんたちの援助は断り現在は蘇芳と暮らしている。
昔から仲の良かった高島家一同が僕の帰還を大いに喜んでくれて、ロンドンにいたらしい和樹さんもすっ飛んで帰って来てくれた。
そんなこんなで、両親の死も蘇芳とともに乗り越えて、一緒に暮らしている。
いろいろあったけれど、それはそれですべて起こるべくして起こったのではないだろうか。
就職先に困っていたら、これまたコネクションで、タカシマ株式会社に入社することになった。さすがにずるいと思ったけれど、蘇芳が俺を傍に置きたいという願望を社長特権乱用で押し通した。
人生何があるかわからない。
これから先もまだまだいろいろあるだろう。けれど、そのたびに乗り越えたい。
乗り越えた先に見える光が僕たちを照らしてくれることを、僕は知っているから。
「さて、と。準備しますか!」
満開の桜を見に行こう。今度こそ、蘇芳と二人で。
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