どちらが上か下か分からない感覚。手足は少しも動かすことが出来なくて、水に漂うことしかできず。

まるで下から引っ張られているかのように少しずつ沈んでいく自分を感じながら、もういいか、と諦めたように目をつむったとき、声がした。

『芳樹、次の春には高校生だね。お兄ちゃんが何かいいものを買ってあげよう。何が良いか考えておいで』

『じゃあ、――兄ちゃんと一緒に桜が見たい』

『それだけでいいのかい?』

『うん、いい。だから、――兄ちゃん、その日は一日一緒にいてね』

 遠い記憶。美しい桜を見るはずだった。卒業式を終えたあと、街一番の桜の名所へと向かっていた。

 その途中。……その途中、何があったのだろう。

 どうして自分は今、こうして水の中を漂っているのだろう。

 考えるのは疲れた。もういい。もう、いい。


「芳樹、おきなさい!」

 聞きなれた母の大きな声で、僕ははっと目を覚ました。

 まだ水の中を漂っているかのような感覚。大切な何かを夢に見ていた気がするけど、なんだっただろうか。水の中に浮かんでいたことは覚えているのだろうけれど……。

「芳樹、珍しいわね。こんな遅くまで寝てるなんて。何かあった?」

「いや、別に……。ねえ、母さん」

「ん? なあに?」

「芳樹って、僕の本名? それとも、母さんが付けてくれた名前?」

「それは……」

 10年前、僕はこの家に引き取られた。それは成り行きで。病院で目が覚めた僕はそこがどこか、自分が誰なのかすらも分からず戸惑っていた。そこに現れたのが父と母。二人は事故現場に偶然居合わせ、通報してくれたらしい。

 二人は僕に名前をくれた。そして、居場所も。思い出すまではうちへいなさい、と言って養ってもくれた。

 けれど、どうして気付かなかったのだろう。何故、僕の元に警察やそれに近い誰かが来ないのか。

 普通、記憶を失っているとはいえ誰かを引き取ったら、どこかへ届け出をするはずだ。その人の本当の家族が探しているかもしないのだから。

 それとも本当は届け出をしているけれど、僕には探してくれる家族はおらず、哀れに思った二人が引き取ってくれたのだろうか。

 何故、僕は自分の名前に違和感を感じることなくすんなりと受け入れられたのだろう。

 今までは気にもしなかったことが、少しずつ、気になり始めている自分がいる。

「ねえ、母さん。僕は誰?」

「……10年だもの、ね。そろそろ、本当の話をしなきゃいけないわよね」

 母さんは少し寂しそうに、そう言った。

 リビングルームへと向かえば、母は温かいお茶を淹れてくれた。そして、「落ち着いて聞いてね」と前置きをして、話を始める。

「芳樹、貴方の本当の名前は藤島芳樹よ。あなたが事故の時持っていた学生手帳に、名前が書かれていたの。住所とかまでは分からなかったけれど、私たちは警察へ届けることはしなかった」

「……なんで?」

「芳樹、貴方の遭った事故はね、貴方が入院していた病院の院長先生の息子さんが起こしたものだったの。院長先生は、事故自体を無かったことにしようとした。私たちには、見なかったことに、聞かなかったことにしろと言ったわ。あなたが記憶を失っていてちょうどいいから、と」

「そんな……」

「私たちはね、その数日前に、ちょうど貴方と同い年の息子を亡くしていたの。名前は良樹。不思議でしょう、名前の響きは同じなのよ。だから私たちは、息子が帰ってきたのだと思った。あの時は、本気でそう思っていたの。だから貴方を失いたくなくて、院長先生の言うとおりにしたわ。警察には届けない、貴方がこの街の人間であるようにふるまう。でもね、どうしても……」

 母は涙を瞳にため、言葉を切る。わずかなしゃくり声が、耳に響いた。

 けれども一度深呼吸をして、続けた。

「どうしても、貴方の本当の両親にはなれなかったの。名前の響きは同じでも、やっぱりどこかで貴方とあの子は違うってわかっていたのだと思う。それでも貴方をわが子のように可愛がろうと思ったし、可愛がっているつもりよ。これから先もずっと、貴方の記憶が戻らずにうちに居てくれればと思っているわ。でも、きっとあなたの記憶はもうじき戻る」

「……どうしてそう思うの?」

「あなたが、自分の名前に疑問を持ったから。自分の生い立ちが気になり始めているからよ。何かのきっかけがあったから、そうなっているのよね?」

 きっかけといえば、間違いなくあの夢だ。何を見たかはっきりとは思い出せないけれど、水の中を漂っていた夢。幸せな夢と悲しい夢が混ざったような感じの、不思議な夢だった。

「一つを思い出せば一気に思い出す。だからきっと貴方は、近いうちに記憶を取り戻すと思うわ。そのうえでうちに居たいと思えば居てもいいし、帰りたければ帰りなさい。芳樹、貴方がちゃんと考えて決めたことなら、私は賛成よ」

 母は、こらえきれずに流れた涙を拭うこともなく微笑んだ。その涙が別離の予感への悲しみなのか、隠し事への罪悪感なのか、良樹という実子に対するものなのかは分からない。

 何にしても、いずれ思い出す日が来るのだとしたら、僕は選択を迫られるだろう。

 10年暮らしたこの家を出るのか、15歳まで僕を育てた本当の家族へ会いにいくのか。

 けれど、今はまだそのときではないから。そのときになったら、考えよう。思い出すのはまだまだ先かもしれないのだし。

 そう結論付けて、僕は母に頷いてから、その場を後にした。

 背中に聞こえる母の嗚咽を受け止めて、外に出た。空はどんよりと曇っている。

 僕はそのまま家を出て、約束はしていないけれど高島の家に向かった。高島家所有ではなく、高島自身が自分のために購入した2LDKで、一人暮らしでこんなに広い意味はあるのか疑問である。

 合鍵をもらっているわけではないので、玄関で待つ。連絡は、来る途中でいれた。

 今日は帰って来ないかもしれない。彼は帰らない日も少なくは無いと言っていたから。

 けれど、彼は帰ってくる。それは確信に近い予感だった。

 それから二時間は経ったころだろうか。僕は足音で目を覚ました。どうやらうたた寝をしていたらしい。

「ああ、もう。こんなことなら合鍵を渡しておけば良かったかな。こんなに冷たくなって」

 寝ぼけ眼で声の方を見ると、高島は僕の頬に手を当てて困ったように眉を顰めた。

 そして僕を立ち上がらせると急いで玄関のドアを開け、中へと導く。

 三月とはいえ、うたた寝をするにはまだまだ寒い時期だったようだ。芯まで冷え切ったからだを毛布ごと彼に包まれる。

 初対面のときにはあれほど苦手意識があった彼だが、この数か月でそれもすっかりなくなった。

 背後に感じるぬくもりに身を任せながら少し寄りかかると、彼がくすりと笑うのを頭上で感じる。

「何かあった? 突然家に来るなんて、初めてだけれど」

「ちょっと、ね。実はね、僕、10年より前の記憶が無いんだ」

「……へえ、記憶喪失ってやつかな」

「多分。それで今日、当時の事を聞いて……ちょっと混乱してる」

「それで俺の家へ来てくれたんだね。頼りにされてるなぁ」

 そう嬉しそうに微笑まれ、僕はふと気が付いた。

 そうだ。何も彼のところへ来なくたって良かった。行くアテが無いわけでは無い。公園もあれば、商店街の誰かのところに転がり込むこともできただろう。

 それでもそうせず、電車で一時間の距離をわざわざやってきたのは、なぜだろう。

 僕は彼を頼りにしていた、ということか。

 なんだかそれは面白くなくて、頭に軽く乗せられている顎に頭突きするように頭を突き上げた。

 高島は、ガハッという腹でも殴られたかのような声を出しながら顎を抑え、「痛いなぁもう」とさする。

「いつもみたいに、音楽の話しよ。落ち着くから」

「はいはい。じゃあ、今日はソウルミュージックからね」

 肩をすくめて、高島はいつも通り音楽の知識を話し始める。

 気を遣われているのがありありと分かったけれど、なぜか不快だとは思わなかった。むしろ、それがひどく有り難いと思えた。




「えーっと、ソウルミュージックは、差別が厳しい中でも声を上げ始め、白人も黒人と仲良くしようって人が現れたから黒人と白人一緒に出来上がっていった曲だな。黒人の未来は明るいかもとか、夢とか理想とか期待があったりもっと自分の気持ちを素直に表現しようと思って、そんな気持ちを表現するために適した音楽としてソウルミュージックが誕生した、と」

 ソウルミュージックは世俗の音楽の歌詞に黒人教会の音楽を加えたようなものになっている。

 コール&レスポンスがあるのは黒人教会の音楽の特徴だ。

次いで、レゲェ。これは社会的なメッセージ性や権力に反抗したりゲットーで苦しむ人々の目線が歌われていたりする。エチオピア最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世を神の化身と考えたラスタ思想、いわゆるラスタファリアリズムが影響している。1980年代以降になると、ダンスホール音楽的な傾向が強まり、セックス、ドラック、暴力などの描写が目立つようになっていく。

 タブはリミックスのことで、三段階の発展が見られる。初期がヴォーカル音声を抜いたインストラメンタル、次にDJが声やあおりやトークを重ねてラップに繋がり、エコーなどのエフェクトや重低音の強調などがされダンスミュージックなどの効果が見られる。

 ハード・ロックはブルース・ロックから影響を受けていて、エレクトリック・ギターを用いて演奏技術を重視する音楽で、若者が簡単に入り込めない演奏技術重視の世界が生み出され、それがパンクへとつながっていく。

 パンクは演奏技術を追求して複雑化したロックに反発し、反体制的な態度をとる音楽。しかし、その熱は短い期間で収まってしまった、と。

 続いてファンク。ソウルミュージックの派生であり、裏拍子が意識された16ビートのリズムとフレーズを反復する特徴がある。スラッピングやカッティングが多用される。レコード会社ではスタックスが、ファンクのレコーディングが多いことで有名だ。Pファンクというパーラメントとファンカデリックの二団体やその二団体が奏でるファンクミュージックのことを指すもので、ジョージ・クリントンが率いている音楽集団のこと。

「こんなもんかな」

 パソコンに向かいながら、僕は今日高島に習ったことを復習していた。情報量が多すぎて、パソコン上で書きださないと整理が出来ないほどだ。

 これで一通り説明は終わりだと言っていたから、高島と近代音楽の話をする機会もがくんと減るだろう。せっかく覚えた知識を忘れないためにも、メモは必要だ。

 それにしても、本当に音楽というのは多種多様すぎて困る。こんなにあると、何が何だか分からなくなりそうだ。聞いてみても聞き分けができないものだってたくさんある。

 音楽マスターへの道は遠そうだ。

「マスターといえば、久しぶりにBAR行こうかなぁ」

 高島と出会ったBARへは、もうしばらく行っていない。もちろん、これまでだって頻度が高かったわけでは無いが、一月に一度くらいは行っていたような気がする。

 高島がいるおかげで、BARで飲み暮れる必要が無くなったおかげだろうか。

 悠斗と別れてからはとくに傷心を癒すために通っていたから、こんなに清々しい気持ちで行ける日が来るとは思わなかった。

 不本意ながら、高島には感謝しなければ。

 高島との曖昧な関係は、いつまで続くのだろう。もちろん、僕が別れを切り出すか、告白するかで終わる者なのだと思う。

 はっきり言えば、僕には彼への好意は無い。正確には、恋愛感情が無いのであって、好意はある。できればこれから先もずっと一緒に居たいし、なぜだか離れてはいけないような気がするのだ。

 けれど、それは高島にとっては辛いことだろう。好きな相手が目の前にいるのに、触れることもできない、生殺し状態のようなものなのだから。

 彼と一度話あった方が良いかもしれない。結論として、別れることになったとしても。

「マスター、こんばんわ」

 見慣れた扉を開ければ、ドアベルがちりんと音を立てた。

 黒を基調とした、シンプルだけれどもおしゃれなこのインテリアは、マスターの趣味だという。

 店内には何人かいて、見知った客もいれば、知らない客もいた。

「芳樹!」

 いつものカウンター席に座ろうとしたところで、背後から声を掛けた。もう数か月聞いていない声。

 振り返らなくても分かる。それだけの時間を、僕は彼と過ごしていたのだから。

 僕はわずかに痛んだ心を無視するように、ゆっくりと振り返った。

「悠斗、久しぶり」

「久しぶりじゃねぇよ。ちょっとこい!」

 悠斗は強い力で僕の腕を引っ張ると、そのまま店外へと連れ出す。

 そして、騒ぎにならないように配慮してか、店の横の路地裏へと連れ込まれた。

「痛いよ、離して」

「芳樹、ずっと探してた。どこいってたんだよ」

「どこって、別にどこにも。ここに来てなかっただけだけど?」

「俺、お前に謝ろうと思って。悪かったよ、芳樹。俺、お前に甘えてた。浮気しても何も言わないから、それに胡坐かいてた。ごめん。俺たち、やり直せないか?」

 つまり彼はどうやら、僕とよりを戻そうと思ってやってきたらしい。

 以前の、傷心したての僕であれば彼の誘いに乗ったかもしれない。

 しかしこの数か月で悠斗への思いはすっぱりと切れていたし、そもそも彼への感情は恋愛じゃなかったのだと結論付けている。

 今さら、よりを戻すことに頷くはずもない。

「無理だよ、ごめん」

「なんでだよ! 俺が浮気するからか!? お前だって悪いんだぞ。お前、ぜんぜん俺の事見てなかっただろ。だから俺、悔しくてつい」

「悠斗、僕は別に怒ってないよ。あれは僕も悪かった」

「じゃあ……」

「無理なんだよ、悠斗。僕たちはもう終わった。ねえ、新しい恋を見つけるんだ。悠斗ならきっと、素敵な人と出会える」

「意味わかんねぇよ!」

 言い聞かせるように言葉を並べると、頭が混乱しているらしい悠斗は僕を思い切り突き飛ばした。

 そして、頭に強い衝撃。ああ、後ろの壁には確かでっぱりが良い感じにあったから、そこに頭を強打したんだろうな、と半ば冷静に判断したのは、霞む視界があまりにも非現実的だったからだろう。

 そういえば高島に僕の好きなところを聞くの忘れたな、聞かなきゃ。そんなのんきな思いを最後に、僕の意識は途切れた。


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