勇者著『僕の兄さんは最強です!』~劣等者と呼ばれた兄が、主神殺しの大罪人になるまで~

スクール先生

第1話 伝説の歴史の授業

 ――頼む、間に合ってくれ……!

 

 風を切って馬が駆ける。ひづめが地を叩き、草を踏み分ける音が響く。春の昼下がり。太陽は真上に昇り、空はどこまでも高く澄み渡っている。

 時間がない――僕は通常の道を避け、草原を突っ切る近道を選んでもらった。吹き抜ける風は心地よく頬を撫でていく。

 

 学院の尖塔がようやく見えてきた。まだ距離はある。でも、確実に近づいている。

 騎乗者の背に掴まり、鞍の上で大きく揺られながら、僕は胸に鞄を抱える。中には教科書と、擦り切れるほど読み込んだ『黒の騎士』の演劇特集の冊子。

 着替える余裕なんてなかった。まだ式典用の正装姿のままで、裾が風に煽られてバタバタと音を立てている。

 

 本来なら今日は休む予定だった。午前中、家の都合で式典に出席していたからだ。

 

 

 ――世界初の『魔導具通信』による遠隔授業。その完成記念式典。

 

 イマジン――心に思い描いたものを現実にする力。各自が持つ属性によって、火を呼び、水を操り、風をまとい、土を動かす。古来より魔法と呼ばれてきた力だ。

 

 そして、魔法現象を発動させる『魔具』という道具がある。一定量のイマジンを注げば、使用者の属性に関わらず術式が発動する。台所の火おこし道具から護身用の武器まで種類は幅広いが、本来の魔法より威力は劣る。

 

 魔具を扱えるかどうかは生活に直結した。十分なイマジンを持たない者は使用すらできず、就ける職業が限られる。「魔具を使える者」と「魔具を使えない者」の間には、目に見えない格差があった。

 

 だが大戦終結と同時期に普及した『魔導具』が、その常識を覆す。魔導具は起動に魔石を用い、使用者のイマジンを必要としない。誰でも同じように使える。灯りや給水など、人々の暮らしを支える存在となっている。

 

 今日披露されたのは、今まで大量のイマジンを必要としていた魔具の遠隔通信を、誰もが手軽に使えるようにした技術だった。

 

 壇上に立つ白衣姿の開発者は、奇抜な髪型を揺らしながら誇らしげに言った。

 

「これからは、誰もが、どこからでも学べる未来が来るのです! この技術は――」

 

 

 ◇

 

 

 演説が終わり、会場は大きな拍手に包まれた。

 天井から吊るされた魔導灯が煌々と輝き、会場全体を明るく照らしている。来賓席には各国の要人が並び、期待に満ちた表情で開発者を見つめていた。

 

 歴史的な瞬間を目撃する――その興奮が場内を包んでいた。

 

 会場には、光る水晶板で組まれた巨大な魔導端末がずらりと並ぶ。透き通った青白い光を放つ水晶板が、まるで無数の星のように輝いていた。

 午後から、学院で行われる『ある歴史の授業』をここで受けられる準備が整っていた。

 魔力を帯びた大きな水晶板は、映像と音声だけでなく、地域の言語に即した翻訳まで可能だという。

 

 周りの大人たちは、感嘆の声を上げながら水晶板を眺めている。

 

「素晴らしい技術だ!」

「これで地方でも、王都と同じ授業が受けられる」

「まさにこれは革命だな」

 

 

 確かに、すごい。本当にすごいと思う。

 世界中どこにいても、同じ瞬間に同じ情報を共有できる――それは、まるで夢のような話だ。

 

 ……でも。

 

 僕の胸の奥で、何かがざわめいていた。

 各国の要人が集うこの式典会場で、水晶板を通じて初の遠隔通信の授業を受ける。それは確かに名誉なことであり、歴史の証人となる瞬間でもある。

 

 けれど……本当に、それでいいのか?

 

 今日から始まる授業は、ただの歴史の授業じゃない。

 黒の騎士が登場する――あの章だ。

 僕がずっと、ずっと待ち望んでいた回。

 

 それを、水晶板越しで? ここで? 家の都合?

 

(……違う)

 

 

 僕は、ゆっくりと立ち上がった。

 

 どんなにすごい技術でも、今回だけは……水晶板越しでは、どうしても我慢できない。

 教室の空気を感じたい。先生の声を直接聞きたい。同じ空間で、同じ時間を仲間と共有したい。

 黒の騎士の物語が語られる、その場所に――僕はいたかった。

 

「やっぱり僕、この授業だけは――直接、受けたいんです」

 

 付き添いの人たちは、驚いたように僕を見た。

 そして、慌てて止めようとする。


「しかし、式典自体はすでに終わりましたが……」

「このあとには、招待客との宴もございます」

「魔導具通信のお披露目を、各国の要人と共に観る。それはとても名誉なことなのですよ」


 

 それでも僕は首を横に振った。

 必死にお願いした。何度も、何度も。


 ――そして、ついに許可が下りた。


 急いで馬を出してもらい、今、学院へと駆けている。

 本当に、わがままをしたと思う。

 

 だけど――今から始まる授業だけは、どうしても教室で受けたかった。

 後悔なんて、したくなかった。

 

 

 ◇

 

 

「ありがとう、じぃ」

 

 学院の門前で馬を降りる。振り返ると、僕をここまで運んでくれた『じぃ』と呼んでいる護衛が、無言で頷いた。その表情は厳しいが、どこか温かい。皺の刻まれた顔に、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。

 

 僕も頷き返し、学院の門を抜けた。

 

 階段を駆け上がる。もはや全力疾走だ。

 足音が廊下に響く。正装した服の裾が邪魔で走りにくいけれど、構ってなんかいられない。

 

 走りながら頭の中に浮かぶのは――。

 

 

 勇者、剣聖、賢者、拳王――後に英雄と呼ばれる者たちの兄。

 かつて魔法が完全に支配していたこの世界で、ただ一人イマジンを持たず、それでも黒鋼の鎧を纏い、七本の剣を振るって、ついには主神すらたおした男。


 彼の名は――クロガネ。

 黒の騎士にして、『七剣の魔鏖まおう』と恐れられた伝説の存在。


 歴史上で、僕が一番好きな人物だ。

 

 

 ……はぁ、はぁ……!

 

 廊下の角を曲がり、教室の前で立ち止まる。深呼吸ひとつ。胸が激しく上下している。

 

(お願い……まだ始まっていませんように!)

 

 扉に手をかける。心臓の音が聞こえるほど緊張していた。

 

 ――ガラッ。

 

 扉を開けた瞬間。

 

「では今から七剣の魔鏖まおうこと黒の騎士クロガネの章を、皆さんと学んでいきます」

 

(……間に合った!)

 

 勢いよく入ったせいで、教室は一瞬静まり返った。遠隔中継が繋がっているせいで、余計に目立つ。

 前の席の子がくすりと笑い、後ろの席の誰かが「おっ」と小さく声を上げた。窓際の女子が「間に合ったんだ」と囁き、隣の席の男子が親指を立ててみせる。

 

 

 教壇に立つのは小柄な女性教師――スクール先生だ。今日は正装姿で、いつもより凛とした空気を纏っている。肩まで伸びた栗色の髪を綺麗に整え、紺色の服が彼女の知的な雰囲気をさらに引き立てていた。彼女は僕を見て、優しく微笑んだ。その瞳には「よく来たわね」と語りかけるような温かさがあった。

 

 僕は会釈をして、そっと自分の席へ滑り込んだ。数人がニヤリと笑ったが、気にしていられない。

 息は上がり、少し恥ずかしい。……でも、それ以上に胸が高鳴っていた。

 

 

 先生が教科書をめくる音が、やけに大きく響く。静けさの中、みんなが固唾を呑んで次の言葉を待っている。教室の空気が張り詰めていた。

 

 教室正面の水晶板に、ゆっくりと映像が浮かび上がる。

 最初は霞のようにぼんやりとしていた光が、次第に形を成していく。

 

 ――そして、その姿が現れた。

 

 黒鋼の鎧で全身を包んだ騎士が、大きな黒馬に跨っている。

 馬のたてがみが風になびいている。その威圧感は、画面越しでも伝わってくるほどだった。

 騎士の黒髪が風に揺れ、鋭い眼差しが遠くの一点を見据えている。

 その横顔には、厳しさと孤独――そして揺るがぬ決意が刻まれていた。

 

 背景には、夕焼けに染まる荒野。

 赤く沈む陽が、彼の影を長く地へと伸ばしている。


 その瞬間、教室の誰かが小さく息を呑んだ。

 空気が、一瞬で静まり返った。

 

 スクール先生が、静かに口を開いた。

 

「彼は、わずかなイマジンすら扱えなかった。そのため『劣等者』とさげすまれ、欠陥品のように扱われていた。――けれど、その彼こそが。歴代の『黒の騎士の剣』を継ぎ、最後の黒の騎士として、魔王を、そして神さえもたおしたのです」

 

 

「……やっぱ黒の騎士様ってすげえよな」

 後ろの男子が、小さく、しかし熱を込めてつぶやく。

 

「うちの家、全員クロガネ様推し。特におばあちゃんが熱狂的で――」

 前の席の女子が誇らしげに言う。

 

「俺『兄さん』のセリフ集持ってる。完全版。重版未定のやつ」

 隣の席の男子からも聞こえる。

 

 

 ――えっ!?

 

 ……なにそれ。僕だけじゃなかったのか。

 正直、ちょっと言いづらかった。「イマジンが使えないのに最強」とか、「寡黙で孤独な義兄」とか――そんな存在を好きだなんて言うと、子どもっぽく見られそうで。……まあ、実際まだ十歳の子どもなんだけど。

 だから、この授業を楽しみにしてるなんて言えば、きっと浮いてると思ってた。

 

 でも――。

 

 前の席の女子も、後ろの男子も、隣のアイツも。黒の騎士の話がはじまった瞬間、みんなの瞳が同じように輝いた。

 あれはただの興味じゃない。……憧れだ。

 

(……そうか。みんなのも『兄さん』だったんだ)

 

 その事実に、胸の奥がじんわり熱くなった。思わず声が出そうになり、眉を上げ歯を食いしばって耐えた。

 なんだろう……すごい一体感を感じる。

 

 この教室にいる全員が、同じものを見つめている。

 

 黒の騎士クロガネ。

 『イマジンを持たない』――それは、かつての世界では欠陥を意味した。

 魔法がすべてを支配していた時代に、魔法を使えないということは、生きる価値すらないと見なされることだった。

 

 けれど、彼は違った。

 誰よりも強く、そして誰よりも優しかった。

 弟や妹たちを守るために戦い、傷つき、それでも前へと進み続けた。

 

(僕も――)

 

 胸の奥で、小さく呟く。

 

(僕も、そんなふうになりたい)

 

 強くなくてもいい。魔法が使えなくてもいい。

 それでも、誰かを守れる人に。誰かの力になれる人に。

 そして――決して、諦めない人に。

 

 黒の騎士は、そんな僕の憧れだった。

 

 

 次の言葉を待っていると、先生がどこか妖しげな微笑を浮かべ、静かに続けた。

 

「彼は七代目の黒の騎士となったとき、自らの名を捨て、『クロガネ』と名乗りました。弟や妹を守るために戦い抜き、そして――最後には主神をもたおした。だけど、後の歴史は彼をこう記しています」

 

 先生は一拍の沈黙を置き、ゆっくりと告げた。

 

「『人類の救世主にして、世界の大罪人』と……」

 

 静まり返る教室に、先生の声だけが響く。誰も息をするのを忘れたように、じっと聞き入っていた。

 

 

「さて……。皆さんも演劇などで耳にしたことがあるでしょう。黒の騎士の物語には、数えきれないほどの名場面があります」

 

 教室のあちこちで頷く生徒たち。誰もが知っている英雄の物語だ。

 

「ですが、これまでは一部の記録や証言の断片から語られるだけで、時系列や人間関係は曖昧なままでした。しかし今回の授業からは違います。魔導通信のお披露目に合わせ、各地の資料を編纂し、初めて歴史的に確度の高い物語として学べるのです。……直接この場で受けられる皆さんは、本当にですね」

 

 先生は僕にチラリと目配せしてから、教室全体を見渡して問いかけた。

 

「さて、皆さんは、『黒の騎士の物語』の中で最も有名な言葉が何か分かりますか?」

 

 ざわめく教室。

 誰かが小声で隣にささやく音、椅子の軋む音が交じる。


 先生は静かに頷き、手にした本を開いた。

 

「――そうです。それは、勇者が戦後に記録書の表題として残した、この一文です」

 

 ページの上から淡い光が溢れ、空中に魔導文字が浮かび上がる。

 光はゆっくりと形を取り、金色に輝く文字列が、ゆっくりと現れていった。

 

 

 そこに現れたのは、たったひとつの、あまりにも有名な言葉。

 

 ――僕の兄さんは最強です!

 

 その瞬間、まるで稲妻が走ったように、教室中をざわめきが駆け抜けた。


「あばばばっ……」

「くぅ……。これだよ、これ!」

「やっぱり痺れるな……」

 

 教室のあちこちから声が漏れる。誰かが息を呑み、誰かが小さく拳を握った。

 前の席の女子は目を輝かせ、後ろの男子は身を乗り出している。隣の男子は、じっとその文字を見つめたまま動かない。

 

 僕も、思わず身を乗り出していた。

 

 その一文を見ているだけで、胸が熱くなる。

 勇者が、自分の兄を――イマジンを持たない劣等者と呼ばれた男を――こう呼んだ。

 

 『最強』と。

 

 それは、どれだけの想いが込められた言葉なのだろう。

 どれほどの戦いと苦難を経て、そう呼ぶに至ったのだろう。

 

 教室は、静かな興奮に包まれていた。

 水晶板に映る黒の騎士を、みんなが見つめている。

 

 

 ――これは、兄と呼ばれた男の物語。

 

 イマジンを持たぬ劣等者が、運命を変え、魔王を、そして神をも斃し、伝説となった。

 この教室の誰もが――いや、この授業を見つめる世界中の人々が、『最強の兄』の背中に、憧れを抱いている。

 

 そしていま――その伝説の歴史の授業が、幕を開けた。

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