とある一文
鵬らなど
いない彼女 (9、月から〜)
いないカノジョ その1
授業中、一人の生徒とよく目が合った。
窓際の前から二番目の席に座る少女。ツインテールが三つ編みにされ、前髪は目にかかるほどに伸ばされており、銀フレームの丸いメガネをしている。
委員長の偉い子ちゃんというイメージだろうか。初めは地味目な印象を受ける。
しかし、その印象はすぐに霧のように薄くなっていく。彼女を象徴する目が地味な印象を霞ませていた。
大きく活発そうな瞳で、瞳孔は日本人にも関わらず炎を彷彿とさせる赤い色をしていた。
よく動き、どこを見ているのかすぐにわかる。決して自意識過剰などではない。
授業態度通り、至って真面目に授業を受けている……、というわけではないようで。
メモを取れと言ったときも、板書のスピードを調整するために生徒の方に振り返った時だって、彼女とはいつも目が合った。
訂正しよう。授業中彼女の瞳がわたしから外れたことはない。
メモは空でやっているようだし、授業はちゃんと聞いているようでテストの成績はすこぶる良かった。
教師との恋愛……。最初にそれが浮かんだ。
だが、彼女はわたしに恋しているとは思えなかった。
その瞳はまるで興味深い動物を見た時のような、好奇心に満ちた目だったと思う。
一度直接聞いてみことがあった。正直気になって授業に集中できない時があったからだ。
「及位先生は、面白いですね」
口に手の甲を当てて、お淑やかツクリは笑っていた。
わたしはその面白いという言葉がただ教師を揶揄うものだと思っていた。
だが、それは大きな間違いであった。彼女の名前が記録されていた出席簿を確認して、名前を記憶した。
前の学校の任期が終わり、次の学校からの連絡を待機していた頃。
わたしの母校に臨時教師の依頼で教育委員会から手紙が来た。手紙が来た時はなんの間違いかと目を疑い、何度も及位大地の名前を確認した。
どうやら、現代文の先生が産休に入るようで、その穴埋めとしてスカウトされたようだ。
正直、あまり乗り気はしなかった。
このまま断ってもいい気がしていたが、一人暮らしで貯金が底を尽きかけていた私に仕事を選り好みしている余裕はなかった。
面接を受け、合格が決まり、なあなあで我が母校の中学に教師として弁を振るうことになった。
中学の臨時講師をして十五年弱。さまざまな中学で教壇に立ってきたがこれほど不安な異動はなかっただろう。
合格した後も取りやめの連絡をなんどもしようとはして辞めていた。
なぜ、こんなにも不安なのか。
それは、私は大学に入学してから、地元に一切戻らなくなってしまったからだ。
一度も顔を出せていない母親への罪悪感もあるのだろう。女手ひとつで私を育ててくれたのに、連絡すら入れていない。
部活の引率や、期末試験、授業の準備が忙しかった、なんて理由は色々つけられる。でも、時間を作れば、正月や長期休みに帰ることはできた。
帰りたくなかった大きな要因は恐怖からだ。
母や仲のいい地元の友達を見てしまうと、月野ミキのことをどうしても思い出してしまうから。
月野ミキは中学校の頃から付き合っていた幼馴染だ。自分で言うのもなんだが、最高の彼女だった。当時を思い返してみると、ミキとの幸せな記憶ばかり思い浮かぶ。
だが、中学卒業を控えた前日。ミキは屋上から飛び降りて死んだ。私の目の前で。
飛び降りる寸前。彼女が私を見る眼が忘れられなかった。だから、忘れようとこの二十年勤めて来た。でも、それは叶わなかった。
あの瞳が、私を見つめた目が、脳裏に焼き付いたとでも言おうか。瞼の裏には刺青のように刻み込まれていて、目を瞑ると暗闇の中に映像が浮き上がってくるのだ。
心の中にも彼女は存在する。月を見上げると彼女の顔が見えてしまう。まるで、ミキが月にでもいるように。あまりにもひどい時は、瞬きをすることすら怖かったくらいだ。
だから、地元から離れて傷に触れずに安静にしようと決めたのだ。
その矢先だ。傷を触ること以上のことが起きてしまうとは思いもしなかった。
少しの期待を糧になんとかやり過ごすしかない。
あの電話を聞けばきっと不安などなくなるはずだから。
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わたしの担当する科目は現代文で、選択授業だ。なので、二十数名という少ない数で講義を行う。
担当した生徒たちはかなりおとなしく、わたしが板書をするとすぐに手を動かし、解説を入れると、全員がわたしに注目した。
まるで絵に書いたような理想の生徒だ。普通は喜ばしいことなのだが、正直不気味だった。一糸乱れぬ動きは統率の取れた軍隊を彷彿とさせた。
その中でも特に異彩を放っていたのが、大出ツクリである。
私と目がよく合う生徒だ。灼熱の赤色をしている瞳孔はとても目立つし、目が大きいのでどこを向いているのかよくわかった。
だから、私を見ていることはすぐにわかった。
わたしに恋心はないにしても、なにか思うところがあるのだろう。
生徒とはなるべく仲良くなるようにしている。なぜなら、その方が授業を楽しく受けてもらえるし、ただでさえ部外者の臨時講師が嫌われると次の就職先に困るからだ。
でも、ツクリとは、あの件、以降話していない。彼女と関わると何か間違いを起こしそうな気がしたからだ。
彼女と交わした言葉と彼女の妙に蠱惑的な仕草が頭から離れなかった。
ツクリからはなにか、恐ろしいものの気配がしてならなかった。長年の教師としての感か、それとも……。
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母校で教師をやるというのはなんともむず痒いものだった。見知ったようで全く知らない校内の雰囲気のギャップで混乱するが、生徒だった頃の教師がまだ学校にいることや、当時自分がつけた備品の傷などでここはやっぱり私のいた学校なのだと再認識する。そんな繰り返しだった。
校舎は内装をリフォームし、男子生徒の制服は学ランからブレザーになり、まるで違う学校にいる錯覚を起こす。
そんな苦労もしつつ、なんとか一日を乗り切ることができた。
今日最後の講義を終え、職員室に向かう。
外を見ると、空が茜色に染まり、すっかり夕方になっていたことに気がついた。外の景色を見て、『ああ、今日も終わったんだな』と一人思うのはなんとも言えない達成感があった。
この後は、わたしの担当部活に顔を出して業務は終わりだ。
職員会議で私は写真部の顧問になった。まさか写真部だとは。
どうやら産休に入った先生が担当だったようで、たまたま写真部だった私が抜擢されたのだ。
だが、なんども私は断ろうとした。それでも、ここは職場であって業務命令を強く断ることはできなかった。
写真部は、私とミキとの思い出が濃く残っている部活だった。だから、できるだけ避けたかった。運命はどれだけ、私に逃げるなと言いたいのか。
断りたい理由はもうひとつ。それは、部長があの大出ツクリだったからだ。
もしかしたら、先生を迎える会とかやるのだろうか。一刻も早く写真部から出たい。その一心で部活へ歩みを進めた。
部室は職員室の真上の三階にあった。
ノックして、部室に入るとそこには数名の生徒が長机を囲んで座り、文庫本を読んでいたり、一眼レフカメラの手入れをしていたりとさまざまなことをしていた。
総数五名の小さい部活だが、結構活発に活動しているようだった。部室内の棚には多くの賞状や盾などが飾ってあった。
ツクリは私を迎え入れると、すぐに自己紹介をさせた。
自己紹介をさせた本人は心底楽しそうに聞いていた。だが、他の生徒達は私のことをよく思っていないようで、目つきが異様に鋭く、疑念に満ちた目で見つめていた。
すぐに退散しようと、適当に理由をつけて抜け出す。
新参者の先生に指示を出されなくても、生徒たちは自分で考えて、ルーティーンを決めていたのだ。そこに余計な一言を出しても無意味だろう。
部員の生徒は安心した表情を浮かべていたのを、気にせず部室を後にした。
この学校の生徒達と仲良くなろうとはしているが、全員から好かれようとは思っていない。
今日は疲れたし、明日に備えて今日はもう帰ろう。
「せぇんせ、お疲れ様です」
職員室に私物をとりに戻るため、廊下を歩いていると、作業着を着た男性が皮肉っぽい声をかけてきた。
「神田先生。お疲れ様です」
気の良い笑顔で私に挨拶をしたのは神田のじいさんだ。この人が私をこの中学に推薦してくれた人。私の元担任でもある。
丁寧に洗われていた服だが、ところどころの綻びで相当年季の入った作業着だとわかる。
彼はこの学校の理事長なのだが、こうやって用務員の仕事もしながら生徒を見守っている。
趣味というか気晴らしというか、少し変わった人だ。孫がこの学校にいるらしいので、見守りたいのもあるのだろうが。真の意図は誰にも話していない。
「もうお帰りかいな?」
「ええ、明日の授業の準備もありますから」
「じゃぁ、ちゃんと準備するんだよ。私の教え子がここで授業するんだ。存分に力を発揮してくれ」
「頑張ります」
神田先生は笑いながら、私の背中をぽんぽんと叩く。
中学三年間お世話になり、教師の道を選んだきっかけをくれた人だ。たまに、私に会いにきて飲みにいくことも多い。
「君は、いろいろ運が悪いみたいだからね……。でも、それで落ち込んじゃだめだよ? まだまだチャンスはあるんだから、この学校で頑張ってね」
もう一度、私に頭を下げ、掃除用具を入れたカートを押して彼は去っていった。
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