第15話 輔弼近衛は登城する(アーガスト視点) ~理の門をくぐる者~


「輔弼近衛」——その名を陛下から聞かされた折、私は胸の奥で長い息を吐いた。剣でも盾でもない。王族の衝動と理のあいだに秤を置き、歩みを釣り合わせる影の役。歴史が何度か試み、たびたび潰えてきた務めだ。だが今また必要とされるのなら、せめて初手だけは私が整えねばならない。



朝。大門前の列が、合図ひとつで一歩だけ揃う。儀礼剣が掲げられ、石突が石を一度だけ静かに叩いた。よろしい、場が締まった。私は階段上から新任の若者を見た。


黒衣がまだ肩に馴染んでいない。だが背筋は折れていない。視線は揺れ、足取りは慎重、呼吸は深く——緊張の仕方が素直だ。名乗りも過不足がない。


「新たに輔弼近衛を拝命しました、アレン・アルフォードです。侍従長ベルネウス卿への取次をお願いいたします」


門兵が所作どおりに応じ、取次が戻る。大門が朝の光をすべらせて開いた。楡並木の彼方から香の薫りと石の冷気が流れ込み、若者は一歩、また一歩と門をくぐる。——場違いという言葉を、踏みつけて確かめている足だ。


私は正面階段の上で彼を迎えた。


「アルフォード領、アレン・アルフォード殿だな。陛下より侍従長の任を賜る、アーガスト・ベルネウス子爵だ。ようこそ王宮へ。——ここから先は臣の歩み、段を数える足ではなく、礼を数える心で進まれよ」


言葉の半分は儀礼、半分は試しである。若者の眉がわずかに跳ねたが、返答は乱れない。


「は、はい。承知しました」


階段を上がる彼の肩が、心持ち軽く落ち着いたのを見て、私は外套の裾を翻し先へ導いた。



回廊は静謐だが沈黙ではない。蝋の匂い、磨かれた真鍮の冷たさ、絨毯が呑み込む足音——全てが秩序のための音だ。


「詰所は西側、文庫棟と政務棟のあわいに置いた。王族の間に最短で通じ、公務の出入りを見失わぬ配置だ」


用意しておいた小部屋は簡素だ。机が二つ、壁の書架、隅の鎧架。飾りは要らぬ。ここは見せる部屋ではなく、躓きを先にどけるための現場だ。


私は引き出しから薄い冊子を取り出す。


「巡見帳だ。出入り、通達、御方々の動向。必要なことは必ずここに刻む。——書かれたことは守れ。書かれていないことは汲め」


彼の目が一拍だけ迷い、すぐ真面目に戻る。「……御心を、ですね」と。よい、要点は掴んだ。だが「汲む」は、耳と目と鼻を総動員して初めて届く深さにある。そこへ連れていく手は、別に要る。


戸口が軽く叩かれ、予定の案内役が入ってくる。短外套、別紋、実戦向きの装い——侍衛筆頭ラース・バレンティウス。豪放に見えて、扉の蝶番の音一つで場の緊張を読む男だ。


「この者に動線と常の心得を授け、初日の躓きを減らせ」


私は短く命じる。初日は甘くするべきではない。宮廷は美しい獣だ。牙を知らねば、礼を守ることもできぬ。



廊を離れながら、私は新任に最後の一言を落とす。


「本日より、貴殿は輔弼近衛に任ぜられる。——この席は長らく空位であった。正確に言えば、任命はこれが初だ。御方々の歩みに影を添える者はいなかった。ゆえに、貴殿が最初である」


重さは承知の上で告げる。歴史は、言葉にしなければ始まらない。彼の喉がわずかに鳴ったが、瞳は逃げなかった。ならば十分だ。



日は動き、私は詰所に戻る。巡見帳の表紙余白には、名と日付、その下に一行——『初登城・門前取次』。筆圧はやや強いが、焦りの乱れはない。良い初手だ。


廊の先で、ラースの低い声が渡るのが聞こえる。「扉は音で覚えろ。歩様で識別しろ。香りを嗅ぎ分けろ。視線の流れを作れ」。侍衛の基礎に聞こえて、実のところ輔弼にも不可欠の足場だ。音・香・動線——それらが読めなければ、「書かれていないことを汲む」など到底できはしない。


王族の足は、理だけでは動かない。理に届く前段の“気配”を整え、滞りを除き、言葉の間合いを守る——影の務めは、まずそこから始まる。



夕べ、私は再び詰所を訪れ、明朝の旨を伝えた。


「明朝、陛下の御出座あり。時刻未定、動線は二通り。貴殿は詰所待機。合図次第で西回廊へ」


短く返る「承りました」。声が良い。迷いがあっても、務めの形を崩していない。


「近衛は王族の傍に侍るのが常。だが輔弼近衛は、傍に立つだけでは足りぬ。御方々の歩みに躓きがあるなら、見えぬところでそれをどけよ。言葉が過ぎれば受け止め、足りなければ添えよ。守るのは命ばかりではない。名と未来だ」


若者は立ち上がり、深く一礼した。胸の内の迷いと昂ぶりが、礼に押し込められているのがわかる。——それでいい。礼は秩序の型であり、揺らぐ心を一時保つ鞘でもある。


戸が閉まる音が静かに落ち、私は回廊に出た。夜気が石に染み、宮は獣の眠りへ身を横たえる。だが影の務めに眠りは薄い。未定の鐘は、しばしば夜明け前に鳴る。


アレン・アルフォード。初日は及第。あとは、折れずに「汲む」へ辿り着けるかどうかだ。私の役は、理の在り処を示すこと。彼の役は、そこへ自分の足で届くこと。


——ようこそ、理と混沌の迷宮へ。ここから先は、礼を数える心で進むがよい。


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