第9話 草原の端に立つ者

 族長の陣から少し離れた丘に立つと、

 草原がどこまでも広がっていた。


 日が沈みかけ、空が赤く染まる。

 羊の群れが遠くを移動し、馬たちが静かに草を噛んでいた。


「……広いだろ?」


 背後から族長・オグダイが声をかけた。


「はい。

 こんなにも広いとは……思いませんでした。」


 ティムールは率直に答えた。


 低い丘から眺める景色は、

 自分が育った草原とは別世界のように感じられた。


 族長は黙って空を見上げ、

 革袋からくぼんだ地図を取り出した。


「ティムール。

 お前に見せておくことがある。」


 広げられた地図には、

 いくつもの印と線が描かれていた。


「ここが我らの領地だ。」


 族長が指を置く。

 物語が始まった場所——ティムールが戦った小さな範囲。


 地図の端にすぎなかった。


 ティムールは思わず目を細めた。


「……この地図の一角だけ……?」


「そうだ。」


 族長は苦い笑みを浮かべた。


「お前が勝った戦は誉れあるものだ。

 だがな……草原全体で見れば、ごく小さな争いだ。」


 ティムールの胸が少しだけ熱くなった。

 自分がどれほど小さな場所で戦ってきたのかを、

 初めて“地図として”理解したからだ。


「そしてここ……」


 族長が指を南へ滑らせる。


「この辺りがサマルカンド。

 世界が混ざる場所だ。」


 ティムールは息を呑んだ。

 どれほど憧れていた場所か。


 だが地図の上では、

 サマルカンドもまた“とてつもなく遠い”。


「ティムール。」


 族長の声は静かだが、どこか鋼のような響きがあった。


「草原の端で小さな争いをしているだけでは、

 サマルカンドには届かぬ。」


「……はい。」


「そして草原は今、ゆるやかに乱れ始めている。

 北のモグール、南の都市勢力……

 それらの動きが、ここにも届き始めた。」


 族長の指が地図のあちこちを指す。


「小さな争いに勝つことは大切だ。

 だが——

 大きな戦の前触れはもっと大切だ。」


 ティムールはしばらく地図を見つめた。


 草原。

 山脈。

 都市。

 知らない勢力。

 そしてサマルカンド。


 自分は、その“端”に立っている。


「ティムール。」


「はい。」


「お前はいずれ……

 この草原の“中央”に立つ者になるだろう。」


 ティムールの心が静かに震えた。


 風が丘を滑り抜け、

 彼の髪を揺らした。


「……なら、進むしかありません。」


「そうだ。」


 族長は満足げに頷いた。


「風が告げている。

 お前の時代が始まる、と。」


 ティムールは地図を静かに見下ろした。


 自分がどれほど小さな場所から始まり、

 どれほど大きな場所へ向かうのかを理解した。


 その瞬間、胸の奥に

 “世界を掴む”ための焔がさらに強く灯った。


草原の端から始まった少年の物語は、

 これから草原全体を巻き込み、

 やがて大陸へと広がっていく。


——第二章『乱れる草原』へ。

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