一章 草原の少年

第1話 草原の夜、風の声を聞く少年

 草原の夜は、驚くほど静かだった。

 空気は冷たく、星は地上に降りてきたように近い。タラス川のほとりで、二十人ほどの若い兵たちが焚き火を囲み、緊張を隠すように小声で話していた。


 その輪の外側で、ひとりだけ離れて座っている青年がいる。


 ティムール。


 まだ一族の中でも地位などない、ただの若者だ。

 だが、不思議と周囲より落ち着いて見えた。風の流れを聞き、遠くの馬のいななきに耳を澄ませ、暗闇の向こうを視線で追っている。


「……来る。」


 ティムールが呟いた直後、夜の底から微かな蹄の響きが伝わってきた。


「斥候だ! モグールの兵が接近してる!」


 焚き火のまわりがざわつく。

 だが、ティムールはゆっくりと立ち上がり、黒い川面を見つめた。


「川を渡ってくる。四十ほどだ。」


「見えたのか?」


「見えたわけじゃない。……音だ。」


 青年の言葉に、兵たちは息を飲む。


「な、なぁティムール。四十だぞ。こっちは二十にも満たないし……」


「勝てる。」


 あまりにも迷いのない言い切りだった。

 兵のひとりが、理解できないという顔で言う。


「なんでだよ!」


「夜の渡河は危険だ。足場は崩れ、視界も悪い。向こうは恐れながら川に入っている。恐怖の中にいる軍は弱い。」


 ティムールの目は、炎ではなく“風”を見ているようだった。


「今なら十倒せば十分だ。混乱すれば、四十は崩れる。」


「……本気で言ってるのか?」


「本気だ。」


 青年は弓を手に取る。矢を一本抜き、空へと掲げた。

 月光が矢尻に反射し、淡い蒼が浮かぶ。


「この矢を射ったら全員で叫べ。“ティムールが来た”とな。」


「お、お前の名前でいいのか?」


「名なんてどうでもいい。大事なのは“敵に恐怖を与える”ことだ。」


 ティムールは馬に跨がり、ひとつ息を吸い込む。

 そのとき、風の流れがわずかに変わった。


 次の瞬間、矢が闇を切り裂いた。


「ティムールだァーーーッ!!」


 兵たちの叫びが草原に響き渡る。

 敵の陣形が、一瞬でたじろいだのがわかった。


「今だ。」


 ティムールは馬を走らせた。

 川辺に迫りながら次々に矢を放ち、敵兵は水に倒れ込み、混乱が広がる。


「囲め! 川を背に退かせるな!」


 短い言葉を投げるだけで、兵たちは迷わなかった。

 青年の背中が“戦の道”を示しているようだった。


 しばらくののち、敵の四十騎は完全に瓦解した。


「ティムール! 脚、血が……!」


 兵が駆け寄ると、右脚に深い傷が開いていた。

 しかし本人は淡々としていた。


「かすり傷だ。……これくらいで歩けなくなる脚じゃない。」


「でも深いぞ!? 治らなきゃ——」


「なら、鍛え直す。鉄みたいに強く。」


 焚き火に照らされた青年の横顔は、不思議な落ち着きを帯びていた。

 恐怖も焦りもない。ただ、前だけを見ている。


「いつか……サマルカンドへ行く。」


「サマルカンド? あの蒼い都に……?」


「そうだ。」


 ティムールは星空を見上げる。

 草原の風が静かに吹き抜けた。


 それはまるで、

 “この少年を選んだ”

 と言わんばかりに。


――この夜、草原の片隅で。

 後に“最強の征服者”と呼ばれる男の物語が動きだした。

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