君とアポトーシス

燦々東里

  

「君は――……」

 少し掠れ、小さな声が、世界に落ちる。ひび割れた唇が静かに動き出す。

「この景色……いや、この状況をどう思う?」

 風が吹き、一枚の葉が水の上に落ちる。波紋が広がっていく。

二人の人間の前には湖があった。それは驚くほど広い。街が打ち捨てられ、道路が陥没し、世界に雨が降り、できあがった湖であった。遠くには崩れた建物の一部や鉄骨が水の中から飛び出しているのが見える。所々に布のようなものが浮いているのも見える。よく観察すればそれはかつてヒトであった物の背であることがわかる。

 荒廃という言葉が適した景色の前に、二人の人間は座していた。

「それはあなたと……」

 問いかけられた人間の口元に笑みがのぼる。その者は細く、白い指を持ち上げ、自身の栗色の前髪を軽くはらう。

 問いかけた人間は続きを促すように、隣を見る。その青銅色の瞳が、仄かな光と共に栗毛を見つめる。

「美しく、そして」

 栗毛の人間も隣を見る。

「愛おしいと、そう思うよ」

 青銅の人間はすぐに目を逸らす。鼻筋にしわを寄せ、口から小さな息を吐いた。

「何を馬鹿な」

「馬鹿じゃないよ」

 栗毛の人間は楽しそうに目を細める。言いたいことは全てわかっていると、そう言っているようだった。

「いいや、馬鹿だ。なぜならこれは愚かなヒトという種族の末路だぞ、まさに」

 青銅の人間は目の前の景色を掌で示す。

曇り空の向こうにいる太陽が、汚く淀んだ湖を淡く照らしている。そこに動くものはない。息をするものはない。

「俺たちだってこれから死ぬというのに何が美しいだ」

 吐き捨てるように言う青銅の人間を、栗毛の人間は微笑みと共に見る。青銅の人間は不貞腐れたような顔で湖を見る。

 数年前、大勢のヒトが同時期に、場所を選ばず、突然死した。それがこの景色の始まりであった。

 死した者は、その直前、急に苦しみだしたかと思えば、狂ったように水を求め、倒れる。そしてそのまま動かなくなる。皆、同じ症状と共に死んでいった。

 専門家の研究で原因は新種の細菌ということが判明した。その細菌はヒトの体内に取り込まれると、細胞を次々と死滅させていく。その速度は正常な細胞死のサイクルを容易に越しており、耐え切れなくなったヒトの体はあっけなく死を迎える。

 無論、感染を防ぐ方法や感染後に細菌の動きを止める方法など、死に対抗する手段は研究された。全人類に外出禁止が発令され、ヒトとヒトとの接触を避けながら、続く研究。しかしながら感染は止まらない。細菌自体も次々と変化する。対応策の発見とヒトの死では、後者のスピードが圧倒的に速かった。瞬く間にヒトという種族は、地球上から消えていった。

 不思議なことにこの細菌はヒトにしか感染せず、ヒト以外の種族は、何一つ変わらない日々を過ごしている。阿鼻叫喚の巷と化すヒトの世と、穏やかな日常を謳歌するその他の世。ある意味でこの対比は美しいものと呼べるのだろうか。

「美しいわけがない」

 青銅の人間は低い声で呻く。

「これは罰だ。愚かなヒトへの」

「罰?」

 目の前の湖を鋭い視線で見つめ続ける青銅の人間に、栗毛の人間は問いかける。その声は柔らかく、落ち着いていた。

「互いに意味もなく憎み合い、日々争い、脚を引っ張り合う。そんな種族は世界に必要ないと判断されたんだ。だから細菌は我々にだけ感染する」

 そんな非科学的な理由をつけなければ語れないような細菌であった。もうどれほどのヒトが死んでいったか。もうどれほどのヒトがこの世界に残っているのか。

栗毛の人間はその言葉にころころと笑う。青銅の人間が反論する前に栗毛の人間が口を開く。

「とんだヒト嫌いだね」

 栗毛の人間は目に涙まで浮かべている。青銅の人間はその瞳を睨みつけた。

「何を言う。俺がヒト嫌いなら、君はヒト好きってわけか」

 青銅の人間は栗毛の人間の額を指で打つ。鈍い音が静かな世界にこだまする。栗毛の人間は「いて」と小さく漏らし、手で額を押さえた。青銅の人間はその様子を見て腕を伸ばす。額の手をそっとどかし、自身の親指で少し赤くなった額に触れる。栗毛の人間は上を見て、それから前を見る。

 無言で額を撫でる青銅の人間。少しして指を止め、視線を額から瞳に移す。

 栗毛の人間は、ゆっくりと、まばたきをする。

「ね、少し歩きたい」

 栗毛の人間が言う。青銅の人間は頷く。

 青銅の人間が立ち上がり、手を差し出す。栗毛の人間はその手を支えに立ち上がる。

 二人の人間の足に靴はない。救いを求めて、あるいは恨みを晴らすためにやってきたヒトから逃れ、彷徨い、その間に靴は消えていた。追ってきたヒトはもしかしたら湖の中に浮いているどれかかもしれない。

 青銅の人間は素足で前方の地面を払う。大きめの石やプラスチックの破片がどこかへ飛んでいく。栗毛の人間の足が、そこに踏み出された。白く小さな足は既に茶色く汚れている。

「こっち」

 そんなことなど気にせず、薄く笑い、青銅の人間を導く。二人は湖に沿って、ゆっくり歩き出した。

 前を行く栗毛の人間は、楽しそうに笑んでいる。その顔だけを見れば、ここはただの花畑のようだった。身に纏うのは煤けた衣服ではなく、洗い立ての白く輝くシャツ。湖は青く光り、そこには崩れた建物も骸もない。太陽が燦々とあたりを照らし、鳥が嬉しそうにさんざめく。

 無論、今いるのはそんな美しい場所ではない。ヒトだけが絶滅しかけている、そんな場所であった。

「さっきあなたは、ヒトは無意味に憎み合うと言った」

「ああ」

「まるでヒトだけがそうであるように語るけど、どこにもそれを証明するものはない。その言葉こそ、愚かなんじゃないかって、思うよ」

 その声に攻め立てるような響きはない。青銅の人間に優しく寄り添い、柔く抱きしめるようなものだった。

「そうかもしれないな」

 そう返す声も柔らかくほどけている。

 そのあと二人の人間は無言で歩き続けた。栗毛の人間が地面に小さな足跡をつけていく。青銅の人間がその足跡を大きくしていく。石も何かの破片も、水に濡れた土も、二人の裸足の音を吸収して、なかったことにする。

 二人は歩む。歩み続ける。手は繋いだままで。

 時々、その視線は前方から上空に注がれる。管理する者もいなくなり、朽ち果てたビル群が遥か遠くにうっすら見える。だがその視線に映るのはそんな機械的なものではないのだろう。

「ねえ、さっき……」

 栗毛の人間が言う。その言葉は続かない。

 二人の足が止まる。青銅の人間が一瞬目を見開き、すぐに表情を戻す。空いた手を栗毛の人間の背に添える。それを合図に栗毛の人間の体から力が抜ける。青銅の人間はそれを支えながら、その場に腰を下ろす。

「無理して喋るな。大丈夫、俺も……」

 未だ繋いだままの手が強く握られる。青銅の人間は言葉を止める。

 栗毛の人間は青銅の人間の胸にもたれかかり、その顔を見上げる。小さく首を振る。また何か喋ろうとしたが、苦悶の表情を浮かべ、声は形にならなかった。

 それだけで酷く苦しいのがよく伝わってくる。それは幾度となく見た初期症状であった。

「み、ず」

「ああ」

 青銅の人間は震えを必死に抑え、返事をする。白衣のポケットからもう中身がなくなりかけたペットボトルを取り出す。キャップを親指で強く回し、中身を一気に口に含む。栗毛の人間の顎に指をかけ、そっと口づける。静かに移っていく水を、栗毛の人間はなんとか飲み下す。

 二人の唇が離れ、沈黙が訪れる。栗毛の人間の息は荒いが、痛みや苦しみに叫びだす様子はない。代わりに青銅の人間の眉根が寄せられる。

「美しく、愛おしい」

 栗毛の人間が言う。青銅の人間は頷く。

「そう、思うの、ヒトのおかげじゃ、ない」

 途切れ途切れの言葉を青銅の人間は真剣に聞く。ここにはもう、二人を邪魔するものは何もない。

「たしかに、もう、嫌いじゃ、ないけど……でも、そう思える、のも、今、いま……おもう、の、も」

 繋いだ手が、強く、強く、握られる。その指先は力を込めすぎて、赤くなっている。

「美しく、愛おしい、のも、ぜんぶ、あなたの――……」

 声が止まる。指先の赤みが引いていく。

 青銅の人間はしばしその様子を見つめる。

 風はやみ、ヒトは死に、世界に音はない。青銅の人間はただ一人、その中心に座している。そこで胸の中のものを見つめている。

 やがて柔らかく微笑み、栗毛を撫でる。顔にかかった前髪を避け、その耳にかける。目は既に閉じられ、長いまつ毛が影を落としていた。

 ふと、二人が初めて出会った日が蘇る。熱湯を浴びせられ、半身を引きずるようにして歩いていた。伸ばした手を強く払い、怯えた目で睨みつけていた。ヒトを恐れ、ヒトを嫌い、出した飲み物も食べ物も最初は拒否していた。

 その時、人生で初めてヒトを嫌いになりかけた。

「俺が必死に原因を見つけようとしていたのは、ヒトのためじゃないんだ」

 青銅の人間は栗毛に頬を押し付ける。

「まあ、君に出会おうが出会うまいが、必死に研究はしただろうが」

 ふっと笑いを漏らす。そんな言葉に文句を返す声はない。あるのは空と、湖と、朽ちた建物と、浮いた骸と、一人の人間と、その胸の中の美しいもの、それだけ。

 青銅の人間は絡んだままの指を動かし、手の甲を撫でる。滑らかな感触が指に伝わる。

「俺も君のように美しく逝けるかな」

 どれほどの気力と忍耐が必要だったのだろう。生半可な覚悟では無理だ。

「ああ、だが」

 青銅の人間は、

「ヒトである時点で、もう十分美しいか。同じくらい愚かかもしれないが……」

 そう言って目を閉じる。

『ボクもそう思う』

 どこかからそんな声が聞こえる。青銅の人間は笑みを深くする。

 胸の中にある美しいものを包み込むように体を丸める。そのまま青銅の人間は深い眠りに落ちていった。

 その日、その瞬間、世界からヒトという種はいなくなった。美しいものと美しいものになって、消えていった。

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君とアポトーシス 燦々東里 @iriacvc64

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