灰光の残響

朧木 光

プロローグ

 世界が『沈黙』したあの夜のことを、人々は今も「灰光かいこうの夜」と呼ぶ。


 その出来事は百年前のことだが、まるで昨夜のニュースみたいな鮮烈さで、人類の記憶にこびりついている。


 空を覆い尽くすように、灰をまぶしたような流星群が降り注いだという。


 けれど、その光は炎でも雷でもなかった。


 夜空一面に、静かに、淡く、灰色の光の筋が走っただけだった。


 爆音も、衝撃波もない。


 ただ、世界中の魔法が、同じ瞬間に


 王都の空に浮かぶ防御結界が、風船がしぼむみたいに、音もなく崩れ落ちた。


 空中庭園を支えていた浮遊術式が、朝露のように消え、城壁の上をゆっくりと漂っていた光の粒子が、砂みたいに地面へ落ちていった。


 街中の灯りをともしていた小さな魔石ランプが、一斉に黒く濁った時、世界中の人々は息をのんだ。


 魔術師たちは、呪文を唱えることさえ忘れたように、ただ立ち尽くした。


 もう指先には炎が宿らない。

 空は歩けない。

 時間を巻き戻す術も、すべて消えた。


 そして誰もが悟った。


 ——魔法は終わったのだ。


   ◆


 それからの百年を、人類は『魔力喪失の時代』と呼ぶようになった。


 しかし、魔法文明の崩壊は、皮肉にも人類を『自力で生きる時代』へと押し出した。


 魔法という万能の杖を失った人々は、ようやく科学という細い糸を手探りでつかみ、文明を立て直そうとした。


 けれどその努力は決して順調ではなかった。

 魔法で担っていた役割——交通、軍事、エネルギー、医療——あらゆる分野で代用が追いつかず、結局、人々はAIに生活の大部分を委ねるようになっていった。


 現代の教科書には決まってこう書いてある。


『灰光の夜を境に、世界中の魔術網は沈黙した。

 莫大な魔力を前提に築かれた文明は急速に退潮し、人類はかつての栄光を失い、衰退の道を歩み始めた——』


 街中にある大型ディスプレイでも、ニュースキャスターが同じ文言を読み上げている。


 画面の右には、今はもう動かない巨大な魔導兵器の白黒写真。


 左には、荒れ果てたかつての魔術都市の廃墟。


『統合観測AI〈オラクル〉による最新の試算では、魔法喪失以降の百年間で、人類の総人口は三割減少。


 少子高齢化、資源枯渇、長期化する地域紛争。要因は多岐にわたるものの、『魔法を失ったこと』が文明衰退の最大要因である、との見解を——。


 まるで『答えは1つ』と言い切るような、冷たいトーンだった。


   ◆


 その結果、人々はなぜか、まだ見たこともない過去を懐かしむ。


 魔法があった頃のほうが、きっと幸せだった。

 魔法を失ったから、人類は衰退した。

 その因果関係を、誰も本気で疑わない。


 疑っても意味がない、と知っているからだ。

 今さら魔法が戻るわけでもない。

 世界はもう二度と、あの光の前の形には戻れない……。


 そう、誰もが“当然”のように受け入れていた。


 ——ただ、ひとつだけ。


 歴史書にも、AIのレポートにも載っていない『裏側の話』がある。


   ◆


 古い魔術理論の断片には、こんな一節が残されている。


『世界は“表”と“裏”の二枚重ねで出来ている。

 表に現れるすべての事象は、

 裏に“影”として保存される。

 それは神々の慎重さであり、

 世界そのものの用心深さである——』


 学者たちは笑う。


「象徴表現だ。神話の比喩だよ。『世界は理不尽だから、せめて七秒だけでも記憶しておいてくれ』っていう、昔の人の願いだ」


 AIはもっと無情だ。


『実証データは存在しません』と一言で切り捨てる。


 だから、その話はただの伝承として扱われている。

 魔法が本当に輝いていた時代の、ロマンチックな脚色。


 ——そんなはずだった。


   ◆


 けれど、もし本当に。


 世界に“裏”があり、あらゆる人々の感情を保存し続けている場所があるとしたら?


 もしその“裏側”に、

 何度も終わった世界のログが、

 灰色の光となって積み重なっているのだとしたら?


 そして、そこからこぼれ落ちた、たったひとつの“ゆらぎ”が——。


 今、この街のどこかで息をしているのだとしたら?


 誰も、そのことを知らない。

 本人でさえ、まだ知らない。


 百年前の灰光の夜が残した《残響》は、

 もうすぐひとりの少年の瞳に、

 七秒間だけ映ることになる。


 その瞬間から、

 世界は、自分たちの歴史を書き換えられる前の

 《本当の顔》を、ゆっくりと取り戻し始める。


 だが今はまだ、誰もそれを知らない。


   ◆


 明日の天気と、テストの点数と、

 既読スルーされたメッセージのことで頭がいっぱいの、

 どこにでもいる高校二年生。


 その中のひとり——


 朝倉湊あさくらみなとを除いては。


 彼だけが、世界の“誤差”に触れる。

 彼だけが、世界の“裏側”に繋がる。


 だがこの時の湊はまだ知らない。

 その力が、百年前の残響を呼び起こし、

 やがて世界そのものを揺らす引き金になることを。


 これは——灰光の夜が残した最後の《残響》と、その運命に選ばれてしまったひとりの少年の物語。


 そして読者である《あなた》もまた、気づかぬうちに、この物語の一員になっていく。


 この物語の結末を、

 湊と同じ世界で、同じ時間で、

 あなた自身の目で目撃することになるのだから。

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