触れられない距離で、君だけが聞こえてくる。
久遠 古詠
第1話 音のない席
四月の朝、まだ新しい教室の匂いが残っている。
窓際の一番後ろ。黒板も、教師の声も、クラスメイトの笑い声も、ここまでは届きにくい。
雨宮湊の席は、最初からそこに決められていたみたいにしっくりきていた。
前の席では、見慣れないクラスメイトたちの会話が飛び交っている。
「ね、今日さ、榊さん来るんでしょ? 転校……っていうか、編入? なんか特別枠らしいよ」
「まじ? あの『榊』? だって、あの名門の——」
名前だけは、教室のあちこちから何度も聞こえてきた。
榊。榊。榊。
湊は、ノートの端にシャープペンで小さく日付を書きながら、耳の奥を通り過ぎていくその音を、ただやり過ごす。
わざわざ会話に入り込む理由はない。話題になっている誰かと関わるつもりもない。
——それでも、ドアの開く音には、勝手に目が向いてしまった。
ガラリ、と引き戸が開く。
担任の後ろに立っていたのは、噂の名前に見合うだけの存在感を連れた少女だった。
黒髪を高い位置でまとめたポニーテール。
制服の着こなしは規則通りなのに、どこか舞台の上の衣装みたいに見える。
背筋が伸びていて、視線が真っ直ぐだ。
「今日から、このクラスに編入してきた榊千景さんだ。……自己紹介、お願い」
「——榊千景です。よろしくお願いします」
その声が教室に落ちた瞬間、空気が一度だけ張り詰める。
前の方の席から、小さなざわめきが起きた。
「本物だ……」「写真より綺麗じゃね?」
湊は、距離の向こうにいる彼女を、一歩引いた位置から見ていた。
顔立ちの整い方も、姿勢の良さも、噂通りなんだろうと思う。
ただ——
目が、一度だけこちらをかすめた気がした。
すぐに別の方向へ流れていく。
きっと気のせいだ。窓際の後ろなんて、視線の通り道のひとつに過ぎない。
「席は……そうだな、あそこの列がひとつ空いているから——」
担任の視線が教室を横切る。
湊は、ノートのページをめくるふりをしながら、黒板の隅を見つめる。
「榊は、前から二列目の、窓側な。雨宮の前だ」
一瞬、教室のざわめきが、別の意味で高まった。
「え、雨宮よかったじゃん」「距離近っ」
湊の心臓が、一拍だけ、いつもより強く打つ。
前の席。
自分のすぐ手の届く場所に、今、噂の中心が座るらしい。
椅子を引く音。
鞄を置く小さな音。
振り向く気配。
「……雨宮、だよね?」
名前を呼ばれていると気づくのに、半拍遅れた。
「……うん」
短く返す。
声が、少しだけ上ずったのが自分でもわかる。
近くで見ると、榊千景は、教室の真ん中に立っていたときより、少し柔らかい顔をしていた。
目の端に、ほんの僅かな好奇心みたいなものが混じっている。
けれど湊は、その意味を深く考えない。
考え始めると、距離の取り方がわからなくなるからだ。
二
昼休み。
チャイムと同時に、教室は一気にざわざわと色を変えた。
コンビニの袋を鳴らす音。
椅子を引き寄せる音。
スマホを取り出す音。
榊千景の周りには、自然と人が集まっていた。
「榊さんってさ、前の学校どこだったの?」
「部活とか、もう決めてる?」
「インスタやってる?」
彼女は、質問の渦の中心で、器用に笑っていた。
素っ気なくもなく、媚びるでもない、ちょうど良い温度の受け答え。
「前の学校は、ちょっと特殊で……説明がめんどくさいから、また今度」
「部活は、見学してから決めようかな。運動部も気になるし、文化部も」
「インスタは、ほどほどに」
完璧だな、と湊は思う。
観察者の位置からなら、こういう評価もできる。
湊は、弁当箱のふたを静かに開けて、隅の方でひとりで昼食をとっていた。
周囲の会話は、BGMみたいなものだ。
内容まで聞き取る必要はない。
ただ、波のように寄せてくるざわめきだけを感じていればいい。
——のはずだった。
「ちょっと、ごめん、どいて!」
突然、誰かの叫び声。
続いて、テーブルに当たる鈍い音と、床に何かが落ちる音がした。
「わっ——!」
誰かが持っていた紙パックのジュースが、派手にこぼれたらしい。
机の上を伝って、じわじわと広がっていく甘い液体。
「ごめん、スマホ、大丈夫!?」「ノートやばくない?」
騒ぎの中心から一歩外れた位置。
ちょうど、湊の足元まで、透明な水たまりが近づいてきていた。
「あ」
湊の足元に置いてあった布のペンケースへ、じわりとジュースの端が触れる。
白い布地が淡く色づいた。
「……」
一瞬、反射的に椅子を後ろへ引いて距離を取ろうとしたが、その前に、軽く机が揺れた。
榊千景が立ち上がっていた。
「ちょっと、タオル借りるね」
誰に言うでもなくそう言うと、彼女は教卓の脇のロッカーから雑巾を引っ張り出し、床のジュースを手早く拭き取り始めた。
紙パックを派手にこぼした男子は、半分笑いながら謝っている。
「ほんっと、ごめん、榊さんまで……」
「平気。濡れたままだと滑るし。……ほら、ちゃんと自分の机も拭いて」
「は、はい」
さらりと指示を出しつつ、彼女は床から視線を上げる。
広がりかけたジュースの痕跡が、湊の足元ギリギリで止まっているのに気づいた。
濡れたペンケース。
椅子の脚。
靴底。
それらを一瞬だけ眺めて——榊千景は、湊の顔を見た。
「……ごめん。巻き込んじゃった?」
湊は首を横に振る。
「いや、俺は……平気」
声は小さかったが、ちゃんと届いたらしい。
千景は短く息を吐いて、雑巾でペンケースの周りを軽く押さえた。
「これ、あとで拭く? 保健室、ペーパーくらいあると思うけど」
「そこまでしなくても——」
断ろうとした言葉を、彼女の動きが先に踏み越えていく。
「行こ。ついでに、自分の手も洗いたいし」
そう言って、当たり前のように湊のペンケースを持ち上げた。
布は濡れていたが、大事そうに両手で。
湊は、教室に置き去りにされる視線の気配を背中に感じながら、しぶしぶ立ち上がる。
——別に、彼女のことなんて、興味はない。
そう思っていた。
足並みをそろえて廊下を歩きながら、湊は心のどこかで、小さく自分にそう言い聞かせる。
三
保健室前の水道は、人の気配も少なくて静かだった。
廊下の角を曲がった瞬間、さっきまでの喧騒が嘘みたいに遠くなる。
「貸して」
榊千景は、ペンケースを手に持ったまま、蛇口をひねった。
冷たい水が布を濡らしていく。
「あ、いや、自分で——」
「いいから。こぼした原因、私じゃないけど、巻き込まれたのは事実だし」
彼女の指先は無駄がなくて、動きも早い。
水気を切ってから、備え付けのペーパータオルを何枚か引き抜き、丁寧に布を押さえていく。
見ているだけの湊の手が、行き場をなくして宙に浮いた。
どうして、ここまで。
言葉にする前に、千景の横顔が視界の端に入る。
まつ毛の影。
濡れたペンケースを見つめる、真剣な目。
「……へんなの」
ぽつりと、彼女が呟いた。
「え?」
「ううん。なんでもない」
千景はそれ以上何も言わず、ペンケースをもう一度ペーパーで挟み込む。
水分がほとんど抜けたところで、ようやく湊の方へ向き直った。
「はい。あとは自然乾燥でなんとかなる、はず」
差し出されたペンケースを受け取ると、まだ少し冷たかった。
「……ありがとう」
言葉はそれしか出てこなかったが、千景は満足そうに頷いた。
「よかった。……あ、そうだ」
水道の蛇口を閉めるとき、彼女は、ふと湊の顔をまっすぐに見た。
「さっきから、静かなんだよね、雨宮くん」
「……?」
「うるさくしてるのは、教室の方だけ。ここは、変な感じがするくらい静か」
何を言っているのか、一瞬わからなかった。
ただ、その言葉のあと、彼女の表情が、ほんの少しだけ和らいだのがわかる。
「そういうの、落ち着くから、好き」
それだけ言って、千景は水道から離れた。
廊下の向こうから、チャイム代わりの笑い声が聞こえてくる。
昼休みはまだ終わりそうにない。
「戻ろっか。あんまり二人でいなくると、変な噂立てられそうだし」
千景が笑いながら歩き出す。
湊は、数歩遅れてその後を追った。
足元はさっきより軽いのに、胸の奥は逆に重くなる。
——静か、か。
特別な意味なんてない。
彼女にとっては、ただの一言。
それなのに、その一言が、妙に耳の奥に残って離れなかった。
四
放課後。
グラウンドでは部活の掛け声が飛び交い、校舎の中には帰り支度の気配が満ちていた。
窓の外には、いつの間にか、細かな雨が降り始めている。
傘を持ってきていない湊は、下駄箱の前で立ち止まった。
——やんでくれないかな。
しばらく様子を見てもいいが、昇降口の屋根の下は、すでに人で埋まり始めている。
部活帰りの生徒たちがぞろぞろと外へ出ていく中、その隙間を縫うように湊は一歩下がって壁際に寄った。
家までは、走ればなんとか、か。
そう覚悟を決めかけたとき。
「雨宮くん」
名前を呼ばれて振り向くと、そこにいたのは榊千景だった。
手には、落ち着いた紺色の傘。
制服の胸ポケットから少し覗く小さなチャームが、蛍光灯の光を反射している。
「傘、持ってきてない?」
一瞬、誤魔化そうとしたが、視線を足元に落とされたら終わりだ。
体育館シューズのまま、雨の外へ出る準備なんてしていない。
「……持ってない」
正直に言うと、千景は「だよね」と小さく笑った。
「じゃあ、一緒に入ってく?」
差し出された傘の縁。
当たり前みたいに言うその一言が、妙に軽くて、逆に重い。
「いや……いいよ。家、そんな遠くないし」
「風邪ひかれたら、こっちが困るんだけど」
「え?」
千景は、視線だけで雨の向こうを指した。
「編入初日から、クラスメイトが休んだって噂になったら、絶対『榊の呪い』とか言われるじゃん。そういうの、めんどくさい」
少し拗ねたみたいな口調だったが、目は真剣だった。
「それに——」
そこで一拍、言葉を切る。
千景は、傘を開いた。
ぱん、と小さく布が張る音。
広がった傘の下に、彼女が一歩入る。
そのまま、湊の前に、すっと差し出した。
「この前も今日もだけど、雨宮くんの周り、静かで楽なんだよね。……帰り道くらい、一緒にいてもいい?」
喉の奥が、きゅっと狭くなる。
理由は、普通だ。
「静かで楽」——それだけ。
それなのに、その言葉の裏側に何かを探そうとしている自分がいる。
探したところで、何が見つかるのかもわからないくせに。
「……勝手にすれば」
それが、湊にできる精一杯の返事だった。
千景は、聞き慣れないくらい柔らかい笑みを浮かべた。
「じゃあ、勝手にそうする」
ふたりで、傘の下に収まる。
肩が触れるか触れないかの距離。
外の雨音が、急に近くなった気がした。
昇降口を出た瞬間、街の音は一度かすんだ。
耳の奥には、ただ、雨が傘を叩く規則的な音だけが残る。
千景は、何かを測るみたいに、一度だけ湊の横顔を盗み見た。
その視線の意味を、湊は知らない。
ただ、自分の心臓の鼓動が、雨音よりも少しだけ大きくなっていることだけは、はっきりわかった。
五
その夜。
榊千景は、自分の部屋のベッドに仰向けになりながら、天井を見つめていた。
静かな家だ。
廊下を渡る足音も、遠くの車の音も、全部薄い膜越しに聞こえる。
目を閉じる。
——いつもなら、この時間、今日一日の“音”が頭の中に反芻される。
教室の騒がしさ。
生徒たちの笑い声に混じる、不安や嫉妬の軋み。
教師の声の裏に隠れた疲労。
Surface Tone。
Deep Tone。
だけど今日は——
「……変なの」
ベッドの上で、千景が小さく呟いた。
あの保健室前の水道。
濡れたペンケース。
静かな廊下。
そして、雨の下で並んで歩いた帰り道。
そこだけ、音がなかった。
ざわめきも、不安も、期待も、執着も、どれも輪郭が曖昧で。
代わりに、白紙みたいな静けさが広がっていた。
空っぽ、とは違う。
何もないのに、息苦しくない。
「……雨宮くん」
名前を口にした瞬間、胸の内側で、かすかなノイズが走った。
感情の音を聴くはずの自分が、逆に、自分の感情の音を聞き取れない。
そんな奇妙な感覚。
嫌ではない。
むしろ——
ここまで考えたところで、千景は自分の頬に触れた。
指先に、少しだけ熱が残っている。
「……甘い」
誰に聞かせるでもないその一言は、すぐに枕に吸い込まれて消える。
天井の暗がりを見つめていると、ふ、と昼休みの言葉が蘇った。
——「静かなんだよね、雨宮くん」
あのとき、彼の周りだけ、確かに音が消えていた。
それが何を意味するのかは、まだわからない。
ただひとつだけ。
榊千景にとって、雨宮湊という存在が、
今日一日で「気になる」から「気にせずにはいられない」に、
ほんの一歩だけ位相を移したことだけは——
彼女自身も、薄々、気づいていた。
窓の外で、雨がまだ細く降っている。
その音に紛れて、誰の耳にも届かないほど小さな「甘さ」が、ひっそりと世界に刻まれた。
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