かみさまのいうとおり

六蟬

第1話

 指先がかじかむほど寒く、足元すらよく見えない真っ暗な夜。

 僕は手探りで屋上の手すりを探した。遠くの街灯の微かな光を頼りにそれを掴むと、そのまま凍りついて離れなくなってしまうのでは、と思うくらい冷たかった。

 僕の心も、きっとそれくらい冷え切ってしまっていたのだろう。

「来世は」掠れきった独り言が喉の隙間から漏れた。「もっと幸せな家庭に生まれますように」

 この世に神などいないと知っていても、最期は願ってしまうものなんだと、心の中で苦笑した。いっそこのさい、誰も聞いていないのだから、叶わない願いでも呟いて飛ぼう。そう思った。

「あの人たちが、僕が死んだ後、死ぬより辛い目に遭いますように。あの人たちが、僕を死んだことを死ぬほど後悔しますように。あの人たちが、僕の最低の両親が、人生で一番の苦痛を味わってから死にますように」

 口にしながら、自然と口角が上がり、身体が熱くなってくるのを感じた。なぜか、これが全て叶ってしまうような気がした。

 僕は気分を落ち着けるために深呼吸をひとつした。そして、勢いをつけて手すりの上に登った。

 冷たい風が刃のように僕の肌を掠めていく。僕は微笑みながら、体をぐらりと傾けた。

 手すりから足が完全に離れた瞬間だった。僕の右足首が誰かに掴まれた。あまりにも強く握っていて、僕は痛みで顔をしかめた。

「待ってて、今すぐ引き上げるから」

 頭上から男性の声が聞こえた。僕は宙ぶらりんの状態だったか

ら、抵抗もできずそのまま屋上へ引きずり戻された。内心、舌打ちした。何でこんな事するのか、と。屋上に座り込みながら、僕を引き上げた人物を見上げた。彼は、暗くてよく見えなかったが、おそらく僕よりも背が高い――大人のようだった。

「だ、大丈夫? 君」

 声が近い。多分、かがんでいるのだろう。

 と、いうか、さっきの僕の独り言聞いていたのか? 足音も聞こえなかったのに、いつの間に屋上に上がってきたのだろう。不快感やら恐怖やらで、僕の感情はごちゃごちゃになった。

「ほら、きっと心が乱れているんだよ。ここは寒いし、中に入ろうよ、ね」

 男は屋上の床に転がったままの僕に手を差し伸べた。僕はその手を取る気になれなくて、そのままぼーっとしていた。

「……いつから、いたんですか」

 僕は呟くより小さな声で言ったが、相手には届いたようだった。

「いつから、って、最初からだよ。君がここへ来て、飛び降りようと思ったその時から」

 嘘だ。心の中だけで思っただけのつもりだったけど、声に出ていた。暗闇の中の男の顔を睨みつけるように見つめて言う。いなかったじゃないか、どこにも、僕だってそこまで視界狭くないんだから、気づくよ。

「君がもし最初から私が見えてたらびっくりだよ」男は肩をすくめた。「私は君を救うためにやってきた、神だ」

 は? と言うかのように、僕は口をぽかんと開けた。信じられなさすぎて、声すら出なかった。

「君はこの世界に神なんていないと思っているみたいだけど、いるんだよ。現に、神がいなかったら、君はとっくに地面にたたきつけられて死んでいただろうね」

「……じゃあ」気がついたら、僕は男の襟首を掴んでいた。「なんで僕はあんな目に遭わなくちゃいけなかったんだ」

 さっきより大きな声を出したせいで、喉が痛んだ。男は冷静に、自分の襟を掴んだ僕の手を見ていた。

「僕は、僕は、神様がいたなら、あんなに苦しむことは絶対になかった。僕は願い続けたのに、ずっと、ずっと」

 記憶の奥底へしまい込んでしまいたいような日々がフラッシュバックする。お前は出来損ないと言われ続け、学校でいじめられても僕のせいだと決めつけ、まともに取り合ってすらしなかったあの日々が。成績が悪くて親が望む学校に行けず、おびただしいほどの叱責と殴打を喰らったあの日々が。

「分かってる。君がどんなに苦しんできたかは」

 苦しそうに男は僕の手を掴み、振り払おうとした。だが、僕は決して離すものか、と力を込めた。

「分かってたなら、なんで助けてくれなかったんだよ!」

 思わず大きな声が出てしまって、渇いた喉の奥が引っかかって、僕は噎せた。反射で口を手で覆ったから、男の襟元から手を離してしまった。

「大丈夫?」

 いつの間にやら男の手には水の入ったペットボトルがあった。僕は何も考えずそのボトルを奪い取り、勢いで飲み干した。

「落ち着こう、一旦。深呼吸して」

 彼は僕の肩に手を置き、深く息を吸った。僕もつられて同じように吸った。そうしたら、ゆっくりゆっくり息を吐き始めた。僕もそれにならった。それを何度か繰り返すうちに、僕の憤りはいくらか収まってきた。

「ずっと外にいても寒いから、中、入ろう」

 耳に優しい声が、すっと僕の脳へ浸透した。僕は連れられるがまま、屋内へ戻った。

 塔屋の中の、チカチカする蛍光灯の下だと、彼の顔がよく見えた。神様という割には、いたって平凡な、三十代から四十代くらいの男性に見えた。この初冬の寒い時期に、春のサラリーマンみたいな軽装をしている。ますますこの人が神だってことが信じられなかった。ただの変わった人じゃないのか?

 だが、よく目を凝らすと、その背中のあたりに透明な翼のようなものが見えた。光の反射具合で、うっすら見えた。チカチカと蛍光灯が光るたび、プリズムのようにきらきらと光を反射させていた。

「状況を確認させてほしい」男はネクタイを緩めながら言った。「君――岩村陽介いわむらようすけは、両親からの酷い束縛や暴力を受けていて、成人したあとも独り立ちすることを認められず、その苦痛に耐えかね、自殺しようとした――ここまでで間違いはない?」

 僕は頷く。間違いはないはずだ。

「それで、両親を深く憎んでいたわけだね?」

 再び頷く。全ての原因はあの人たちのせいだ。間違いない。

 男はしばらくの間虚空を見つめ、考え込んでいた。僕は寒さで震え、くしゃみをひとつした。

「あのさ」男はおもむろに口を開いた。「さっきの君の願い、叶えてほしい?」

 さっきの願い? そう問うように僕は男の顔を見上げた。

「君が死んだ後、辛い目に遭いますように、とか、君が死んだことを死ぬほど後悔しますように、とか、両親が人生で一番の苦痛を味わってから死にますように、とか。叶えられるとしたら、本気で叶えて欲しい?」

 男の顔はいたって真面目で、真剣だった。その表情を見て、この人は本当に神様で、願いを叶える権限を持っているだな、と本当に思った。それだけで、本当にそう思ったのだ。

「……はい」

 さっきのが本当に本心だったのかどうか、今の僕には分からなかった。どうせ叶わないからとデタラメで言ったことのようにも、本当に長年心から願っていたことが自然と口から出た言葉のようにも思えたからだ。だけど、叶うのならば、叶ってほしい。その時の僕はそう思った。

「本当に、いい?」

 声の圧が強くなった。ぐっ、と心を押しつけてしまうような気迫に、僕の覚悟は揺らぎそうになった。ほんの一瞬、本当に両親がそんな目に遭わないといけないのか、なぜそんな目に遭わせたいのか、という疑問が浮かんだが、すぐに気のせいだと気づいた。

「はい」僕はさっきより強く言った。

 すると、男は深呼吸をして、手首をぶらぶらさせてほぐした後、両手の掌をそっと合わせた。

「確認だけど、君は両親が死ぬところを見たい? それとも、願いが叶ったという事実があればいい?」

 男は掌に集中しつつも、僕に尋ねた。僕は少し悩んだが、「その事実さえあればいい」と答えた。

 男は小さく頷くと、掌に力を込めた。と思った次の瞬間、その手の隙間から強烈な光が拡散して、僕は思わず目をつぶった。その寸前、男の背中に、金色にも似て虹色にも似たような、今までで見たことのないほど美しい色の翼が生えたように見えた。

 やがて光が弱くなり、僕は目を開いた。男はもう手を合わせていなかったし、翼も透明になってしまっていた。

「これで君の願いは叶った」男は無表情のまま言う。「良かったね」

 ……死んだ。あの人たちが。両親が。本当に? 本当に死んだの? 僕がそう男に尋ねると、

「確認したい?」

 そう聞き返してきて、僕は何度も首を縦に振った。

 じゃあ、ついてきて、と男は階段を下へ降り始めた。僕はそれにただついて行った。

 途中で、彼が僕の部屋に向かっていると気がついた。男は僕の自宅の扉の前で立ち止まった。廊下の薄暗い明かりが、ほんの少しだけ背中の翼の色を照らしていた。

「君の手でここを開けて、確認しなさい」

 男はずっと表情のない、仮面のような顔で言った。僕は鍵を閉めずに出てきた家の扉のノブを、恐る恐る握った。

 廊下は、僕が家を出た時のまま、電気がついたままだった。もう夜だから、絶対に二人がいるはずなのに、人の気配は全くない。それが逆に怖かった。入るのが急に恐ろしくなって、家の中に入る一歩がなかなか踏み出せなかった。

 じりじりと、少しずつ僕は玄関の戸をくぐり、靴を脱ぎ、家に上がった。ただいまも言わずにそのまま家の中に入っていった。後ろを彼がついてくるのが、足音でわかった。

 リビングダイニングに入るドアを開く。電気が消えていたので、付ける。机の上に、一枚の紙があるのを見つけた。近づいてみると、それが手紙であることに気がついた。

 僕に向けた、両親からの手紙だった。母の字だった。


――陽介、ごめんなさい

  あなたを守ることができなくて

  

  学校でのいじめや、成績不振で落ち込んだ

  あなたの心を

  ケアしてあげることは私たちには

  できなかった


  あなたがどんどん狂っていくのを

  治してあげられなくて本当にごめんなさい


  私たちのせいでそうなってしまったんだと

  思い込んでしまうのも仕方がないと思います


  でも、本当のことをこれだけ言わせてほしい

  私たちは、あなたを守りたかった

  あなたを救いたかった

  あなたを傷つけたかったわけでも

  縛りつけたかったわけでもないの


  あなたが下したこの罰は、当然すぎる

  結果だと思いました

  どうか、精一杯生きてください


 しばらくの間、僕はその紙を握りしめていた。紙が破けそうになった時、男が手で制してくれた。それではっと気がついた。この空間に僕以外がいたことを。

「……そういうことですよね」

 僕の瞳から涙は出てこなかったが、声だけは涙声になっていた。木枯らしの風のような掠れた声だった。

 男は答えない。無表情の、仮面のまま僕の目を見ていた。

「両親は……、元から僕を苦しめていたわけじゃなかったんですか」

 全て狂ってしまった僕の思い込みだったというのか。両親が僕を出来損ないと言っていたことも、いじめを無視していたことも、束縛していたことも、僕を折檻していたことも。全部僕の思い込みで、僕の自傷行為だったというか。だとしたら、僕は何の罪もない両親を、さんざん苦しめて殺したというのか。この、神と名乗る男に願ったために。

「どうして」鼻の先がツンとして熱かった。「最初からそう教えてくれなかったんだ!」

 僕は怒りのあまり、男の胸ぐらを掴んでいた。その勢いでそのまま壁に押しやり、男の頭がダイニングの壁に痛々しく音を立てて当たった。だが、男の表情は全く変わらないままだった。

「教えたところで信じなかったよ、君は」

 男は呟くようにそう言った。どこか諦めたような顔に見えた。

 僕は男の襟から手を離した。力が抜けてしまって、膝から崩れ落ちた。たちどころに涙が溢れ出してきた。

 嘘だ。こんなことがあってたまるか。僕の喉から、細い声が漏れた。視界が悪くなっていく。滲んで、見えなくなっていく。

「本当のことだ」男の声が頭上から降ってきた。「君がそう望んだんだろ?」

 僕の心の中で、何かが崩壊する音がした。僕は号哭した。あまりにも醜く、長く、か弱い声だった。



 男は岩村陽介の下を離れ、近くのコンビニへ寄った。そこの店の前には、同じく一仕事を終えた同僚が立っていた。

「お疲れー」

 同僚はそう言って、男に缶コーヒーを手渡した。男は「ありがとう」と微笑んで受け取った。

「今日のお前の担当、大変だったな」

 同僚は自分の肉まんを頬張りながら言った。

「だって、あの少年、かなり可哀想だったもんな。学校でのいじめに、親からの虐待……。いっそ死んだ方がマシだったなんてオチもあったろうに」

「縁起でもないこと言うな」

 ぴしゃりとそう制すると、同僚は「神だけに、か?」と薄く笑った。男が横目で睨むと、口を引き締めた。

「にしても、どうしてあの少年を騙すことにしたんだ? 両親が彼を虐待してなかったってことになったとしても、結局彼が傷つくだけだろ。手紙だって、お前の偽造だし、彼が親に苦しめられていたのは本当の事実じゃないか」

 男は缶コーヒーを開け、一口飲んだ後答えた。

「その後のことを考えたら、その方が彼にとって幸せだろうと思ったんだ。私が言ったことは、きっとこの先も信じ続ける。真実に気づくことはきっとない」

 同僚はあまり納得いっていない様子だった。男は、こいつだったらどうしていたと思い、尋ねようとした時、同僚がニヤッと笑った。ジョークを言う時の癖だ。

「『てんのかみさまのいうとおり』、ってやつ?」

 男は不覚にも少しつられて笑ってしまった。

「そんな、二択で決められることのわけないだろ」

 それは確かに、そうだな、と同僚は笑った。

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