嘘だと言ってよ

旗尾 鉄

第1話 喫茶店

 新しいオフィスビルや商業施設が立ち並ぶ市街地中心部と、開発の波に取り残され、あるいはその波に乗ることを拒絶したダウンタウン。ちょうどその境界線のあたり、小さな店々が肩を寄せ合う通りに、一軒の喫茶店があった。

 レトロ風、というよりも、実際に古びた店だ。ライトブラウンの外装は落ち着いた雰囲気といえば確かにそうだが、目を引く装飾も、これといった特徴もない。街路樹のイチョウが黄色い葉を歩道に散らすなか、店は街の風景に埋もれるように存在している。

 店内は静かだ。BGMも無し。客はたった一人。窓際の奥のほうの席に、五十歳ほどの男が一人腰かけている。男はグレーのスーツ姿で、ノートパソコンを広げて何やら一心にキーボードを叩いている。こんな閑古鳥にもかかわらず、カウンターの向こうに立つ、だいぶ年かさの口髭を生やしたマスターはいかにも満足げで、ゆったりとした動作でカップの手入れをしていた。


 やがて、入り口ドアに付いた鈴がカランコロンと音を響かせた。客である。

 入ってきた客は、マスターと同年代だ。おおむね、七十歳前後といったところか。背が高く、良い体格をしていて、紺色のソフトジャケットが似合っている。いわゆる「チョイワル」な雰囲気を微かに漂わせ、失礼な言い方だが、所作に年寄りじみたところがなかった。ただひとつ、足が少し悪いのか、右手に持ったステッキに体重をやや預けるような歩き方をしている。

 この新しい客は常連らしく、左手を軽く上げてマスターに挨拶した。

 マスターはそれに応えて軽く頷くと、唯一の客が座る、奥の席を手で示した。

羽田はねださん、いらっしゃい。もう、お見えになってますよ」

 新旧二人の客は、この店で待ち合わせをしていたようだ。

 マスターの示した先では、スーツの男がすでに立ち上がり、羽田と呼ばれた男に深々と頭を下げていた。






「はじめまして。フリースポーツライターの野滝のだきといいます」

 スーツの男は野村と名乗り、名刺を差し出して丁寧に挨拶した。

「はじめまして、羽田です。申し訳ない、他人様に名刺で挨拶するような生活、してないものだから」

 羽田老人は名刺を受け取ると、おどけた調子でそう言って笑った。初対面の硬かった空気が一気に和らぐ。

 向かい合って席に着くと、羽田は自分の右膝を軽くさすった。

「現役時代に傷めた膝が、最近また痛んできた。困ったもんだ」

「大丈夫ですか。すみません、そうとは知らず、ご足労いただいてしまって」

「いやいや。ここで、って指定したのは俺のほうだから。少しは動かしたほうが、リハビリになって良いよ」

 マスターがコーヒーを運んできた。二人の席に、独特の豊かな芳香が広がる。羽田はコーヒーを一口すすると、まだ少し緊張気味の野滝にさりげなく話しかけた。

「プロ野球も終わったねえ。今年もまた、何人もメジャーリーグ挑戦するみたいだね」

「ええ。最近はトップ選手のメジャー移籍の話題が、すっかりシーズンオフの風物詩になりましたね」

「俺たちの頃は、考えもしなかったなあ」

 羽田は軽く目を閉じ、コーヒーの温かさと香りにしばし浸っているようだったが、やがて目を開けた。

「さて。それじゃあ、本題に入ろうか」

「はい。本日はお時間いただき、ありがとうございます。よろしくお願いします」

「取材なんて久しぶりだねえ。上手く喋れるかな。どうだろう」

「羽田さんのプロ生活について、なんでも自由に語っていただきたいんです。僕は可能なかぎり、聞き役に徹するつもりです」

「わかった」

「録音、いいですか?」

「ああ、どうぞ」

 野滝はボイスレコーダーをテーブルの上に置き、録音ボタンを押した。

「僕のいつものやり方なんですけど、最初にお名前と、競技をお願いできますでしょうか。いちおう、同意の上の取材だと明らかにしたいと思いまして」

「ハハハ、真面目だなあ、野滝さん。わかりました。羽田はねだ丈一じょういち、元プロ野球選手、スコーピオンズ所属でした。そして……四十年前の八百長事件で、追放処分になった男でもある」

 野滝の表情が、一瞬にしてこわばった。

「羽田さん、それは……」

「いいんだよ。自分がやったことだからね。それに、俺に取材をする以上、一番聞きたいのはあの事件のことでしょ?」

 羽田は悪戯を楽しむ少年のように笑った。いっぽうの野滝は、観念したかのようにうなだれる。

「……すみません。タイミングを見計らってお願いするつもりでした」

「正直な人だねえ。うん、あなたには、事実をありのまま話そう。ただし条件がある。俺の話には、当時の関係者の名前が出てくるはずだ。だが記事にするか、何か発表するときには、俺以外の名前は伏せてほしい。みんな、もう充分に社会的制裁っていうやつは受けたはずだから。これ以上はそっとしておいてやってほしいんだ」

「それは、もちろんです。約束します。僕は純粋に、あの件を羽田さんが今どう思ってらっしゃるか、それがお聞きしたいのです。過去を蒸し返して誰かを叩くようなことをするつもりはありません」

「ありがとう。では、どこから話そうかな……」

 羽田はコーヒーに口をつけた。窓外のイチョウに視線を向け、なにかを思っているようだった。しばらくの間、沈黙が続いた。

 カタリ、と軽い音が沈黙のなかに響いた。羽田と野滝が音のしたほうへ視線を向ける。それは、マスターがドアに掛けてある木のボードを裏返した音だった。この店は『準備中』になったのだ。

 羽田はゆっくりと話をはじめた。

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