白銀と黒のあいだ

倉井 依桜里

第1話 光の街

アウリア聖都は、夜明けとともに光を纏う。

魔警団本部のあるこの都市は、光の神を崇める者たちから「神殿の都」と呼ばれ、石造りの大通りは常に清浄な魔力に満たされていた。街の中央を貫く銀色の魔力導管が朝日に照らされ、ゆるやかに輝きを返している。

キリエル・アルテはその光景を見慣れたものとして受け取りながら、いつもと変わらぬ歩調で魔警団本部へ向かっていた。

硬い軍靴が石畳に小さな音を刻むたび、鋭い緊張感が背筋に宿る。

―今日も悪魔を狩る。

それが自分の宿命であり、誇りであり、生きる理由だった。

キリエルは28歳にして魔警団長直属の第一部隊に所属し、戦場では冷静で強く、そして誰よりも優しい女性として知られていた。栗色の髪を短く結い、光を反射する銀の鎧を身にまとい、それでいて無益な殺生を嫌う心根は、団内でも珍しかった。

「キリエル様、おはようございます」

若い団員たちが敬礼する。

キリエルは軽くうなずき返すと、団長室へ向かった。

そこで告げられたのが――

少女を守り導け。光の教えを叩き込め。

という任務だった。


少女が保護されたのは、アウリア聖都の外れに広がる古い路地だった。

大地震の夜。

街の護りが揺らぎ、瓦礫が降りしきる中、キリエルは必死に人々を救っていた。そのとき―

「……ぁ……」

崩れた民家の陰で、十歳くらいの子供が震えているのを見つけた。

白い髪。

どこか幼い面差し。

そして、信じられないほど透明な瞳。

「あなた、怪我は?名前は?」

少女はゆっくりと首を振った。

「……わからない……何も……」

完全な記憶喪失だった。

だが、その手は瓦礫の下に閉じ込められた猫を掴み、魔力のない素手で瓦礫を動かそうとしていた。

その姿にキリエルはわずかに胸を衝かれた。

―守られるべき存在が、誰かを守ろうとしている。

少女は保護され、名前のないままでは不便だと、キリエルが「リラ」と名付けた。

花の名。

光に向かい、静かに咲く花。

アウリア聖都の規定に従い、記憶の戻らないリラはキリエルの家で暮らすことになった。

質素だが清潔な家。朝に作るスープの香り。古い木のテーブル。

リラはそこで、まるで迷子の子鹿のようにキリエルの動きをじっと観察し、少しずつ生活に馴染んでいった。


リラは魔法を知らなかった。

火を灯す術も、魔力を視る感覚も、魔警団の基礎訓練に欠かせない身体強化の方法さえ知らなかった。

「リラ、ほら。魔力は、胸の奥に沈む湖のようなものよ。静かに、深く、触れるの」

キリエルが教えると、リラは必ず目を輝かせてうなずいた。

「うん……やってみる」

指先に魔力を集め、小さな火球を作る練習。

最初は火花すら散らなかったが――

「……できた……!」

半年が経つころ、リラは誰よりも丁寧に、純粋に魔法を扱えるようになっていた。

訓練場の団員たちも、少女を温かく迎えた。

「リラちゃんは吸収早いのね!」

「見ろよ、またキリエル隊長の魔法を真似て成功した!」

リラは照れたように笑うだけだが、キリエルは密かに誇らしく思っていた。

まるで妹か、あるいは―

娘のようにすら思えていた。

夕食の時間は静かだが、温かかった。

キリエルが作る野菜シチューを、リラは決まって両手でお椀をもって食べた。

「……キリエルのシチュー、好き。食べると胸があったかくなる」

「それは、スパイスのせいね。……ふふ」

キリエルの家に、笑い声がこぼれることが増えた。


ある日――

「ねえキリエル、私はどこからきたんだろう。何も覚えていないのはどうしてなの」

キリエルはリラに、ついに最も重要な教えを渡す時が来たと感じた。

光の神の教えをまとめた聖典、創世の書。

魔警団の全団員が幼少期から学ぶ、絶対の真理である。

光の神がこの大地を作り、動物を作り、人間を作った。

この世界は光の神によって全てのものが設計されている。

だが、悪魔は光の神を妬み、世界を自分のものとしたがっている。苦しみや憎しみの原因は全て悪魔の仕業なのだ。

でも、私たちには光の神がいる。

リラはまだこの世界のことを何も知らない。

記憶がなくても、安心して欲しい。光の神に近づけば、きっとリラの疑問も晴れる。

ー私が導いてあげなくては。

キリエルは椅子に座るリラの前へ、ゆっくりと神聖な銀装丁の書を置いた。

「これは……?」

「この世界の成り立ち。光と闇の歴史。神と悪魔のこと。―あなたも、これを知るべき時が来たの」

リラはページをめくった。

その瞬間―

本来なら理解できるはずのない、古代語の記述を、リラはふつうに読み始めた。

「……神は世界を七つの光環で覆い……闇を海底に沈め……」

キリエルの手が、震えた。

「リラ……あなた、その文字……読めるの?」

「え......?だって、書いてある通りでしょ……?」

キリエルは背筋に冷たいものが走った。

古代語を理解できる者は、魔警団でも高位の聖職者だけだ。

リラのような一般の少女が読めるはずがない。

創世の書の文字が淡く光り、リラの瞳に同じ光が反射しているように見えた。

キリエルは、知らない恐怖を初めて感じた。


翌日、アウリアの街を突如として激震が襲った。

建物が崩れ、叫び声が街に満ちる。

「リラ!外に出ちゃダメ!」

キリエルは叫んだ。

しかしリラは恐怖よりも、街の悲鳴に反応していた。

「……助けないと……!」

瓦礫の落ちる通りへ、一直線に駆け出した。

キリエルも追うが、その速度がまるで違う。

そして―

リラは崩れた教会の前で立ち止まった。

地中から闇が湧き上がる。

悪魔の影―サタンの眷属だ。

「下がって!リラ!」

キリエルが光剣を抜こうとしたその時。

リラの手が、瓦礫の下から伸びた“何か”へ触れた。

黒い金属の杖。

古代の遺物、闇の魔王が使っていたとされる禁呪兵装と同じ形。

「リラ!それは闇の……!」

キリエルの叫びより早く。

リラはその武器を軽々と持ち上げ、まるで最初から知っていたかのように構えた。

闇の魔物が迫る。

リラの足元に光でも闇でもない色が広がった。

白銀と漆黒が混ざり合うような――

この世界では決して見ない光。

「……消えて」

その一言で、闇の獣が音もなく霧散した。

キリエルは息が止まった。

―これは光ではない。

―闇でもない。

―それどころか、この世界の原理そのものを無視している。

リラが武器を下ろし、振り返った。

その瞳は透明で、しかし底が見えなかった。

「キリエル……わたしは、どうしたらいいんだろう……?」

キリエルは震え、答えられなかった。

リラが悪魔と同じ力を使った?

いや―それを遥かに凌駕していた。

光の神の力とも違う。

世界の枠そのものを越えている。

キリエルは生まれて初めて、

理解できない存在を見た。


夜。

キリエルが帰宅すると、机の上に手紙が置かれていた。

「キリエルへ。わたしはキリエルの教えを受けられません。

私は……みんなの中では生きられない。

そして……あなたのそばにいてはいけない気がするの。

ごめんなさい。今までありがとう。あなたに会えてよかった。

リラ』

キリエルは手紙を握りしめ、膝が落ちそうになった。

「リラ……どうして……!」

そのとき、家の外に光が走った。

いや、光でも闇でもない ―あの色。

キリエルが飛び出すと、家の前でリラが宙に浮かんでいた。

白銀と黒が混ざる光に包まれ、髪がゆっくりと揺れ―まるでこの世界の重力さえ届かないようだった。

「キリエル……ありがとう。あなたに会えてよかった」

「待って!リラ、どこへ行くの!?あなたは光か闇か……!」

リラは悲しげに微笑んだ。

風景が揺れた。

リラの周囲の空間が、布を裂くように歪む。

「ごめんね。私は……あなたを巻き込みたくないの」

「嫌よ……行かないで......!リラ!」

キリエルは手を伸ばした。

しかし、届かない。

リラは最後にそっと手を胸に当て、

祈るように呟いた。

「キリエルの光が……私を救ったの。

本当にありがとう」

暗い夜空に、白銀と黒の光が広がり――

リラの姿は、完全に消えた。

キリエルの叫びは、光の街に吸い込まれるように消えていった。


リラが去ったあと、アウリアの街では不気味な噂が広がった。

「闇と光の境界を越えた存在が現れたらしい……」

「神の外側から来た少女だと……?」

キリエルの頭は昨日の出来事を反芻していた。

リラは悪ではない。

光でもない。

キリエルは窓辺に座り、静かに手紙を読み返す。

――あなたに会えてよかった。

「……リラ、どうして。」

キリエルは涙を拭い、立ち上がった。

少女が残した謎は、神々さえ知らぬ真理へと続く扉かもしれない。

光も闇も絶対ではない。

そんな揺らぎがキリエルの中で生まれていた。

「あなたがいつか戻る場所を……私は守るわ」

夜風がカーテンを揺らし、光の街アウリアの灯りが静かにきらめいていた。

キリエルの祈りは、誰に届くとも知れず――

しかし確かに、ひとりの少女を想って輝いていた。

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