ノイズ・アリア

和よらぎ ゆらね

序章「無菌室の培養土」

この街の沈黙は、完璧に管理された庭園の芝生のように美しく――

そして、窒息するほど退屈だった。


統合調和都市エコーズ。

かつて人類が「言葉」という不確かな刃物で互いを切り刻んだ歴史への反省から生まれた、巨大なシェルター都市。

その構造は、まるでひとつの巨大な生体のようだった。

上層の中枢区画は、乳白色の細胞核のように光を放ち、外縁の居住区は柔らかい細胞膜のように守られている。外界の荒廃した大気は完全に遮断され、内部は温度から湿度まで完璧に制御された「静寂の温室」だった。


ここでは、誰も大声を出さない。

誰も口論をしない。

喉の奥にある声帯という器官は、盲腸と同じように退化しつつあり、人々は滅多にそれを動かさない。


代わりに、彼らの首筋にはニューラル・リンクと呼ばれる小さな楕円形のデバイスが埋め込まれていた。皮膚の下に薄く沈むそれは、血管の鼓動と同期して微かに脈動している。

リンクは感情をろ過し、毒性のある衝突を排除した上で、淡く光るARアイコンとして周囲へ投影する。


街を歩けば、人々の頭上に色と形の違う光の粒子が浮かぶ。

感謝を示す淡いブルーの幾何学模様。

好意を示すピンクの螺旋。

謝罪を示す薄いグレーの砂粒。


それらはどれも丸みを帯び、刺激を最小限に抑えるデザインで規格化されていた。無害で、滑らかで、摩擦ひとつ許されない世界。

透明なビニールで包まれたお菓子のように、一切の汚れを許さない。


レンは、その光の群れを、薄汚れた作業用ゴーグル越しに睨みつけた。

彼の仕事は、都市の地下区画――

地上の完璧さからあぶれた「旧時代の澱」が堆積する場所の清掃だった。


錆び、カビ、濁った空気。

そこではフィルタリングされていない匂いが、そのまま肺に流れ込んでくる。


レンは、この「腐敗していく現実」の匂いを、愛していた。

地上の消毒液と人工香料でマスキングされた空気よりもずっと誠実だと思えた。


作業の合間、監視ドローンの死角に身を隠すように屈み込み、レンは首に巻いた包帯を緩めた。肌に食い込んでいた布地が解かれ、微かな自由が訪れる。

喉の奥を少しだけ開き、息をひとつ吸う。


――乾いた咳が漏れた。


その瞬間、喉の奥が焼けつくように痛んだ。鉄錆の味が口内に広がり、胃の底がひっくり返るような熱が全身に駆け抜けた。

退化しかけた声帯を無理やり震わせる訓練は、自傷行為に近い。

だが、この痛みだけが、自分がまだ「飼い慣らされた家畜」ではないことを証明していた。


そのとき、手元の端末が震えた。

業務連絡ではない。

レンがハッキングして無理やり接続している、都市管理システムの深層データからの通知だった。



『個体識別名:シア(Sia)

 ステータス:完全同期(フル・シンクロ)準備完了

 実行予定:明日 08:00』



レンは息を飲んだ。


シア――都市の心臓部にいる「調律者(チューナー)」。

人々が日常的に放つ微細な感情データを解析し、問題があれば調整し、都市の精神衛生を保つ役目を負う唯一の存在。

彼女は都市の核に近い位置に置かれ、ほとんど自由を与えられていないが、そのことに不満を示したことはない。


──だが明日。

彼女は「完全同期」を行う。

自我をシステムに明け渡し、都市と一体化し、都市の脳そのものとなる。


それは、栄誉であり、献身であり。そして――緩やかな死刑宣告だった。


レンは作業用グローブを握りしめた。

油と泥で汚れた自分の手を見た。

こんな汚れた手で、あの無菌室に触れることは許されない。触れた瞬間、街は不快のアラートを鳴らすだろう。


それでも、決めた。


この手で、あの無菌室のガラスを叩き割る。

都市の臓腑に押し込められ、声すら奪われた彼女を――連れ出す。

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