第3話 大好きなおじちゃん
入院から二週間。
体調の管理は難しく、以前父と会って以来、面会の時間に起きていられることは少なくなっていた。
けれど、病室は少しずつ彩を取り戻していた。
父からの短い手紙。悠希や朝日、由紀から届いたメッセージカード。
机の上には事務所に所属するライバーから贈られたお見舞いの品が並び、無機質だった空間に温もりが宿っていく。
ようやく体を起こし、固形物を口にできるようになった今日。
窓から差し込む午後の光が、いつもより柔らかく感じられる。
――そして、この日はおじいちゃんが迎えに来てくれる日だった。
「だ、大丈夫です…。」
声を絞り出すと、霧島さんは安心したように微笑んだ。
「そう、よかった。今日は大事な日だからね。無理はさせないから安心して」
彼女の声は柔らかく、病室の白い空気に溶けていく。
至近距離で覗き込まれたせいで、まだ頬が熱い。
視線を逸らしたまま、僕は車いすの肘掛けをぎゅっと握りしめた。
窓の外では、冬の光が淡く差し込んでいる。
今日――祖父が迎えに来てくれる日。
病室を出る準備が整い、心臓が少し早く脈打つ。
「ふふっ、それじゃあ、おじいさんが下で待ってるから行こっか?」
霧島さんの声に背中を押されるように、車いすが静かに動き出す。
廊下を進むたびに、消毒液の匂いと機械の電子音が少しずつ遠ざかっていく。
白い壁に反射する光が流れていき、僕の胸の奥に不思議な高鳴りが芽生えた。
(もうすぐ…おじいちゃんに会えるんだ)
エレベーターの扉が閉まり、わずかな揺れが体を揺らす。霧島さんは僕の肩にそっと手を置き、安心させるように微笑みかけてくる。
やがて一階のロビーに着くと、広い空間に人々のざわめきが響いていた。
窓から差し込む午後の光が床に広がり、病室とは違う温かさを感じる。
ロビーの奥――そこに、懐かしい背中が立っていた。
ごつく、少し猫背気味の姿。
それでも、僕を見つけた瞬間に顔がほころび、手を大きく振っている。
(おじいちゃん…)
胸がじんわりと熱くなり、自然と涙が滲んだ。
「おぉ~氷翠!しばらく見ない間にでかくなったなぁ!」
180㎝もある祖父の大きな体に抱きしめられる。
その腕は丸太のように太く、力強いのに、包み込まれる感覚は不思議と安心を与えてくれた。
(おじいちゃんも元気そう)
バングルを通してそう言葉を伝えると、祖父はニカッと白い歯を見せ、豪快に笑う。
そしてガシガシと僕の頭を撫で繰り回す。
少し痛いけれど、その不器用な優しさが懐かしくて、自然と頬が緩んだ。
「はっはっは!俺はまだ69だからな!元気ピンピンだぞ!!」
そう言って、真冬だというのに半袖をたくし上げ、誇らしげに二の腕を見せてくる。
(何で僕だけ身長も低いし、骨格も小さいんだろ…?)
「それじゃあ向かうか!霧島先生、氷翠の面倒を見てくれてありがとうな!」
祖父の声はいつも通り豪快で、病室の空気を一瞬で明るくする。
「いえいえ、こちらも仕事ですから。最善は尽くさせていただきました…それから」
霧島さんはにっこりと微笑んだ。だが次の瞬間、その笑顔はすっと消え、真剣な色が瞳に宿る。
彼女は祖父の耳元へ身を寄せ、低い声で何かを囁いた。
その瞬間、病室の空気がわずかに張り詰める。
僕は車いすに座ったまま、二人のやり取りを見つめるしかなかった。
「…わかった。こちらも警備を追加して最善を尽くそう」
祖父の声は先ほどまでの豪快さとは違い、低く重い響きだった。
「えぇ、お願いいたします。どうやらそうとう心の傷は深いみたいです。しっかりと寄り添ってあげてください」
霧島さんの言葉は柔らかいが、その奥に切実な願いが込められている。
祖父は深く頭を下げ、真剣な表情を浮かべた。
そして次の瞬間、何事もなかったかのように顔を上げ、僕の車いすを押し始める。
その背中は大きく頼もしく、押し進める手は揺るぎない力を感じさせた。
(なんの話をしてたの?)
問いかけると、祖父は豪快に笑いながら「ははっ、秘密だよ」ととぼけた顔を見せる。ちょっとイラついた――
その笑顔はいつも通りなのに、さっきの真剣な表情が頭から離れない。
胸の奥に小さな不安が芽生える。けれど同時に、祖父の大きな背中に包まれるような安心感も広がっていた。
冬の光が窓から差し込み、車いすの影を長く伸ばしていく。
◇◇
執事さんの運転する車に揺られて二時間。
窓の外の景色は都会のビル群から、次第に広い空と田畑へと変わっていった。やがて埼玉県に入り、少し車を走らせると――目の前に巨大な門が現れる。
黒い鉄製の門は重厚で、両脇には石造りの柱がそびえ立っていた。
門がゆっくりと開くと、長い並木道が奥へと続いている。
その先に見えるのは、まるで洋館のような祖父の家。
(子供の時だから思わなかったけど…やっぱおじいちゃんの家って…デカすぎるよね)
広い庭には整えられた芝生が広がり、噴水が陽光を反射してきらめいている。
玄関前には数人の使用人が並び、車の到着を待っていた。その光景を横目に見ていると車が停まった。停車後、執事さんがすぐにドアを開け、丁寧な所作で僕を車いすへと引き降ろす。
「氷翠様、大丈夫ですかな?」
(大丈夫です…。ありがとうございます)
片眼鏡に糸目…アニメキャラがすぎるこの執事は、どうやらおじいちゃんの同級生で薬丸恭二郎さんというらしい。
その落ち着いた声色と、どこか芝居がかった仕草に、ちょっと中二病心がくすぐられる。
「恭二郎、一階に作った氷翠の療養室に運んでやってくれないか?流石に疲れただろうしな」
祖父はそう言うと、その手は相変わらず不器用で暖かい手で豪快に僕の頭をガシガシと撫でてくる。恭二郎さんはその様子を見てニコッと笑い、深々と一礼した。
「かしこまりました」
車いすのハンドルがしっかりと握られ、屋敷の中へと運ばれる。玄関の扉が開かれると、広いホールが目に飛び込んできた。
大理石の床は白く輝き、天井には大きなシャンデリアが吊るされていた…。冬の光がステンドグラスを通して差し込み、床に色とりどりの影を落とす。
(やっぱり…おじいちゃんの家って、デカすぎるよね)
その圧倒的な空間に少し気圧されながらも、恭二郎さんの落ち着いた声が耳に届く。
「氷翠様、こちらが貴方様のお部屋でございます」
薬丸さんがバングルを扉へかざすと、重厚な両開きの扉が無音で開いていく。
その瞬間、目の前に広がった光景に思わず息を呑んだ。
(…部屋広すぎない?)
部屋の広さで言うならば、あまり詳しくは無いが4LDKほどの空間が広がっている。天井は高く、シャンデリアが柔らかな光を落としている。
壁際には最新式の医療機器が整然と並び、ベッドはホテルのスイートルームのように大きく、白いシーツが清潔に張られていた。
窓は二重構造で、防音と断熱が施されているらしく、外の冷たい風の気配は一切感じず、奥には応接セットのようなソファとテーブルが置かれ、さらに書棚や小さなキッチンまで備え付けられていた。
(あまり部屋の広さ等に頓着は無いけど…個人の部屋でここまで与えられると、さすがに引くな…)
薬丸さんは胸に手を当て、誇らしげに微笑む。
「氷翠様の療養に必要なものはすべて揃えてございます。医師も常駐しておりますので、どうぞ安心してお過ごしください」
(ありがとうございます)
そう伝えた瞬間、視界がぐらりと揺れた。白い壁が波打つように歪み、天井のシャンデリアが二重に見える。
胸の奥がざわつき、呼吸が浅くなる。
「氷翠様…!」
薬丸さんはすぐに異変に気づき、片眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
バングルを素早く操作すると、低い駆動音とともに医療用運搬ドローンが滑るように現れる。
冷たい金属のアームが丁寧に僕の体を支え、ベッドへと運んでいく。
「本日はお疲れさまでした。ゆっくりおやすみなさいませ」
視界は次第に暗くなり、薬丸さんの穏やかな声音も遠ざかる。最後に見えたのは、薬丸さんが深々と頭を下げる姿だった。
――そして僕は、再び三日間の眠りへと沈んでいった。
◇◇
大事なかわいい孫が来て、早くも一か月が経った。
氷翠は日に日に弱っていくように見える。容体そのものは安定してきたが、心の奥に刻まれた傷は容易に癒えない。
――あの女が植え付けたトラウマは、想像以上に深いものだった。
更に周年ライブが三か月後に控えていることも、氷翠自身が理解しているのだろう。
だが、そのせいか友人たちとの連絡も途絶えがちになり、部屋の中で静かに過ごす時間が増えていた。
笑顔を見せることも少なくなり、祖父としては胸が締め付けられる思いだった。
「ふむ…どうしたものかな」
重厚な木製の机に腰を下ろし、祖父は深く息を吐いた。
自室は広く、壁一面に並ぶ書棚には古い蔵書と最新の資料が混在している。窓際に置いている大きな観葉植物が、冬の光を受けて静かに揺れていた。
カップを持ち上げ、ゆっくりとコーヒーを口元へ運ぶ。
苦みと香ばしさが舌に広がるが、心のざわめきを鎮めるには足りない。
「ふぅむ…何か氷翠にとっていい気分転換になるものはないか…。」
祖父は椅子に深く腰掛け、バングルを操作しながら様々な配信を巡っていた
。
画面には、VPRo第一期生・歌姫桜花の歌配信が映し出されている。澄んだ歌声が部屋に響き渡り、重厚な書斎の空気を柔らかく揺らしていた。
(氷翠も、かつてはこんなふうに人を楽しませていたな…)
祖父は胸の奥に微かな痛みを覚えながらも、孫のためになる言葉や企画を拾おうと耳を澄ませる
。
だが、時は流れ、窓の外の光は徐々に傾いていった。
薬丸から「夕飯の準備が整いました」とのメッセージが届き、祖父は小さく息を吐く。
「はぁ、仕方あるまい」
席を立とうとしたその時――。
画面のコメント欄が急にざわめき始めた。
「え!?」「まじか!」「新情報きた!」といった文字が次々に流れ、視聴者の熱気が画面を埋め尽くす。
「ん…?何があったんだ?」
祖父は眉をひそめ、配信画面を大きくし音声を上げた。
すると、ゲーマーズと呼ばれる人気グループの大規模コラボ配信で、新作ゲームの発表が行われているところだった。
「さぁ皆!今まで秘匿されていた新作VRMMORPG、Chronicle of Arcanumの最新映像の公開です!」
小柄な制服姿の少女がステージ中央で声を張り上げる。
その瞬間、コメント欄は爆発したように流れ、画面の向こうで視聴者たちが一斉に沸き立つ。
少女の周囲では他のメンバーもわちゃわちゃと騒ぎ、興奮を隠しきれない様子だった。
その様子を見て、制服姿のリーダーらしき青年が一歩前に出る。
落ち着いた声で皆を宥め、冷静に会社の紹介を始めた。
「はい、皆の興奮が収まらないので僕から紹介していこうと思います。Chronicle of ArcanumはChronos Gate Entertainmentという日本のVR専門のゲーム会社が手掛ける新作VRゲームです。王道のファンタジーと近未来の要素を融合させたVRMMORPGです」
ホログラムが展開された瞬間、部屋全体が異世界に変わった。
足元には風に揺れる草原が広がり、遠くには中世風の大都市がそびえている。
石造りの城壁、尖塔を持つ教会、賑わう市場のざわめきまでが再現され、まるで本当にそこに存在しているかのようなクオリティだ。
「ほぅ…これはすごいな」
思わずぽろりと口から自然と声が漏れてしまった。
映像は次々と切り替わり、灼熱の砂漠では陽炎が揺らめき、火山地帯では赤黒い溶岩が噴き出す。
その熱気までもが肌に伝わるようで、祖思わず眉をひそめた。さらに驚かされたのは、そこに映り込む人々の姿だった。
草原で羊を追う少年、街角で商売をする女性、火山の麓で鉱石を掘る男。
彼らはただの背景ではなく、表情豊かに笑い、怒り、驚き、まるで本物の人間のように生活している。
「はい!こちらの映像を見てもらったらわかるように、このゲームはフルオープンワールドのゲームになっております!いやぁ、ちらほらNPCらしき人たちも映り込んでいましたが、すごい表情豊かですね!」
「うむ、そちらについては我が説明しよう」
魔王を思わせる漆黒の衣装に身を包んだ男が、ゆっくりとセンターへ歩み出る。
その姿は舞台装置のように荘厳で、観客の視線を一瞬で集めた。
「今作のゲームではNPCひとりひとりに独自の成長型AI【idea】が実装されている。それによりゲーム内に存在するNPC達は自我を獲得しているらしく、人間と遜色がない…と説明文に書いてあった」
その言葉に合わせて映像が切り替わる。
草原で羊を追う少年、街角で商売をする女性、火山地帯で鉱石を掘る男。
彼らはただのプログラムではなく、表情に喜怒哀楽が宿り、互いに会話を交わし、生活を営んでいるように見える。
「ほぅ…これは皆が盛り上がっても不思議ではないな」
年甲斐もなく身を乗り出してしまった...。一呼吸おいて椅子に座るり映像を見ると、NPCたちの瞳は確かに生きているように輝き、仕草には人間らしい癖があった。
まるで仮想世界そのものが呼吸をしているかのようだ。
コメント欄はさらに熱狂を増し、
「やばすぎる!」「人間じゃん!」「これ本当にゲームなのか!?」「おいまおー、最後なんか漏れてるぞ」
といった文字が画面を埋め尽くす。
「さらにさらに!種族はなんと50種類以上!その中にはなんとレアな種族もあるんだよね!」
制服姿の少女が声を張り上げると、コメント欄は再び熱狂に包まれた。
「ドラゴン族!?」「天使もあるのか!」「レア種族絶対やりたい!」と文字が流れ続ける。
「うむ、それも説明書に書いてあったな」
「お前それしか言えないんか?」
「それ以外に何が言えるんだ???」
「さ…最後に紹介するのは…自由な成長要素……です!」
おどおどした雰囲気の少女が言葉を探しながら説明を続ける。
「戦闘、鍛錬、クラフト、交流など、プレイヤーの選択によって成長の方向性が変化したり……します!仲間を集めたり、ギルドを結成して交流を深めたり…」
その言葉を補うように、大人っぽい女性が前へ出る。落ち着いた声で、彼女は観客を安心させるように説明を引き継いだ。
「イベントなんかも盛りだくさんみたいね。PvEやPvP。生産職用のイベントなんかも盛りだくさんみたいだから、是非チェックしてほしいわね」
映像が切り替わり、巨大なドラゴンを討伐するレイド戦、プレイヤー同士が競い合う闘技場、そして市場で職人たちが品を並べる様子が映し出される。
「それでは皆様ここまでご視聴いただきありがとうございます!発売日は来週の金曜日ですので、ぜひ僕たちと一緒にクロニクルオブアルカナムの世界へと旅立ちましょう!!!!」
「うおぉぉぉ!」「会いに行くぞー!」「カードの貯蔵は十分か」
「それじゃあ皆ー!せーのっ!」
「「「おつプロー!!!!」」」
本日の配信は終了しましたという表示が出て椅子に深く座り込む。昔からありふれたMMORPG――。だがそのどれもがただのゲームの枠を超えた「もう一つの世界」のようで年甲斐もなく高揚してしまった。
祖父は深く息を吐き、コーヒーを机に置きニヤリと笑い――
「これに決まりだな」
そう言葉を残し自室を後にした。
◇◇
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