卒業アルバム

@kagerouss

第1話


「じゃあ、これチェックしといてくれ」


担任の先生が俺に手渡したのは、出来上がったばかりの卒業アルバムだ。

高校三年の三月。卒業式を間近に控えた俺たちは、最後の学校生活を楽しみながらも、それぞれの未来へ向かって動き出していた。進学、就職、浪人。様々な道があるが、どの道を選んでも、この高校で過ごした三年間はもう戻ってこない。


俺はアルバムの表紙をめくり、懐かしさを感じながらページをめくっていく。


部活動の写真、文化祭、修学旅行。思い出がぎっしり詰まっていて、どのページにも懐かしい自分や友達の姿があった。


「……へぇ、こんな写真も載ってるんだ」


俺は笑いながら、一緒にアルバムを見ていた親友の翔太に話しかける。


「お前、この時の写真ふざけすぎだろ」


「いやいや、お前もだろ!」


翔太とふざけながらページをめくる。しかし、次のページを開いた瞬間、俺は違和感を覚えた。

クラス写真のページ。全員が整列し、笑顔で写っている。俺も、翔太も、他のクラスメイトたちもみんな晴れやかな笑顔だ。


だが…


「……誰だ、こいつ?」


俺はページを指で押さえたまま、そこに写る一人の男子をじっと見つめた。黒髪の短髪、少し細身の体格。特に特徴があるわけではないが、俺はどうしてもその顔に見覚えがなかった。


「あれ? これ……誰?」


「は? お前何言ってんの?」


翔太は俺を不思議そうに見つめ、アルバムを覗き込んだ。そして、俺が指さしている人物を確認すると、当たり前のように言った。


「橋本 透(はしもと とおる)じゃん。お前、透のこと忘れたのか?」


「……橋本、透?」


俺は聞いたことのない名前を口にしながら、もう一度写真を見返した。しかし、何度見ても俺の記憶の中にそんなクラスメイトはいなかった。


「いやいや……待てよ。こいつ、いたっけ?」


俺は周囲のクラスメイトにも聞いてみた。


「橋本 透? そりゃいるだろ。クラスメイトだぞ?」

「何言ってんの、お前?」

「体育祭で、お前と応援団のペアだったじゃん」


全員が「透はいた」と口を揃えて言う。しかし、俺の記憶にはそんな奴、一切残っていなかった。


(おかしい……)


焦燥感がじわじわと広がる。みんなが当然のように「透はいた」と言うのに、俺だけが彼の記憶を持っていない。


俺は確認するために、卒業アルバムのクラス名簿を開いた。


確かに「橋本 透」という名前はそこに載っている。写真の顔と一致するし、別に捏造された形跡もない。


「……いやいや、おかしいだろ」


俺は呟く。こんなこと、ありえるのか?俺だけが彼を覚えていないなんて。いや、彼の存在を「知らない」のか…。


違和感が止まらず、俺は一度アルバムを閉じた。

その瞬間、ブゥゥゥン

ポケットのスマホが震えた。通知を確認すると、知らない番号からのメッセージだった。


「思い出してくれた?」


俺は息を呑んだ。俺は震える指でスマホを握りしめた。


「思い出してくれただって?」


送信者は知らない番号。だが、それよりも問題なのは、このメッセージが何を意味するのかということだった。


(思い出す? 何を?)


既読をつけるのが怖くて、スマホの画面をそっと閉じる。だが、胸のざわつきは収まらなかった。


透…橋本 透。

クラスメイト全員が「いた」と言い張る男。アルバムにははっきりと写真が載っているのに、俺の記憶には一切ない。


こんなことがあり得るのか?


(俺の記憶が間違ってる? それとも……)


訳が分からないまま家に帰ると、俺は急いで自分の過去の卒業アルバムを引っ張り出した。


中学二年、三年…透の名前も顔もない。でも、高校一年のクラス写真には、奴が写っていた。俺の通っていた学校は小学校からエスカレーター式で、記憶の中には転校生が転入生、中途入学などはいなかった。やめた奴は何人かいたが、橋本透なんてやつはいなかった。


俺は息を呑んだ。


(……おかしいだろ)


誰かが冗談で写真を合成した? いや、クラスメイト全員が彼のことを覚えているんだ。

俺だけが知らないなんて、そんなことがあり得るのか?


「お前、本当に透のこと覚えてないの?」


次の日、学校で翔太にもう一度確認すると、彼は呆れたように言った。


「マジでお前、どうしちまったんだよ。透とお前、前に一緒に帰ったこともあったろ?」


「……そんなこと、一度もない」


「嘘つくなよ。二年の時、一緒にゲーセン行ってたじゃん」


翔太の言葉に、俺の頭の中がぐらりと揺れた。そんな記憶、俺には一切なかった。


だが——


「悠真?」


背後から、声が聞こえた。振り向くと、そこにはいなかったはずの「橋本 透」が立っていた。

少しだけ濡れた黒髪の短髪、細身の体格。アルバムの写真と同じ顔。


「お前、俺のこと本当に忘れたの?」


笑っているはずなのに、目だけが笑っていない。


(いつから、ここに——?)


俺は喉の奥がひりつくような感覚を覚えながら、必死に記憶を探った。

やはり、ない。何もない。


「なあ、思い出してよ……」


透が、少しずつ俺に近づいてくる。


「俺たち、親友だっただろ?」


——違う。


俺たちは、親友なんかじゃない。

そもそも、俺はお前のことを「知らない」。


なのに周りを見渡すと、クラスメイトたちは皆、普通に談笑していた。

まるで透の存在を「普通のこと」として受け入れているかのように。


「……っ!」


耐えきれずに俺は後ずさった。だが、透はさらに近づいてくる。その時、突然、スマホが震えた。また、あの番号からのメッセージだった。


「もうすぐ思い出せるよ」


俺はもう、逃げられない気がした。俺は放課後、家に帰るとすぐに自室に閉じこもり、息を整えた。スマホのメッセージ「もうすぐ思い出せるよ」、透の言葉「俺たち、親友だっただろ?」


そんなわけがない。俺は橋本透なんて知らない。なのに、なぜ俺以外の全員が彼の存在を当たり前のように受け入れているのか。


(何かがおかしい。何かを思い出さなきゃいけない——)


机の引き出しを開け、古い卒業アルバムを引っ張り出す。高校のものではなく、俺が小学生だった頃の卒業アルバム。


表紙をめくると、小学六年生当時のクラス写真が現れた。懐かしい顔ぶれの中、俺は何度も目を凝らして確認する。


——いない。


そこに「橋本透」の姿はなかった。


(やっぱり……いなかったんじゃないか?)


安堵しようとしたその時、違和感に気づいた。最後のページ。寄せ書きが書かれた欄に、一つだけ異質なメッセージがあった。


「橋本 透くん、さようなら。君のことは、みんな忘れないよ」


心臓が冷たくなるのを感じた。俺は慌てて過去の記憶を辿ろうとする。小学生の頃…そうだ、俺は一年ほど入院していた。頭の奥がズキズキと痛む。まるで、記憶が何かに蓋をされているようだった。


何かを……俺は忘れている。いや、忘れさせられた?その瞬間、ぼんやりとした映像が脳裏に浮かんだ。


水面。

沈む影。

誰かが手を伸ばして、助けようとしている。


そして——


「……っ!」


俺は反射的に顔を上げた。目の前の卒業アルバムのページが、ひとりでにめくれたように見えた。


すると、そこに、一枚の写真があった。


橋本 透の写真。寄せ書きの隣、「故人」と書かれた小さな文字の下に、彼は笑顔で写っていた。


(死んでいる……? 透が……?)


記憶が激しく揺さぶられる。あの水面。沈む影。伸ばした手。

そうだ。俺は透を……助けられなかった。


透は、小学五年生の夏、俺の目の前で溺れた。俺も一緒に遊んでいたが、怖くなって手を伸ばせなかった。


そのまま、透は水の底に沈んだ。誰も悪くない事故だった。そう言われた。俺はその出来事を「忘れた」。忘れさせられた。

だが、透は——


「やっと、思い出してくれたね」


その声が、俺のすぐ後ろから聞こえた。背後から聞こえたその声に、俺の全身が凍りつく。

ゆっくりと振り向くと、そこに橋本透がいた。


水に濡れた黒髪の短髪、細身の体格。だが、その肌は異様に青白く、濡れたような黒い影が足元に広がっている。


「……透……?」


俺の声はかすれていた。頭の中で何度も否定してきた名前。だが、今目の前に立っている彼を否定することはできなかった。


「思い出した?」


透はゆっくりと微笑んだ。その笑顔が、どこかひどく悲しげに見えた。


「俺たち、ずっと親友だったよな?」


俺は何も言えなかった。親友?そうだったのかもしれない。幼い頃、俺と透は確かにいつも一緒だった。夏休みも、冬休みも、放課後も。だけどあの日。俺は透を助けられなかった。手を伸ばせば、もしかしたら間に合ったかもしれない。けれど、俺は怖くて動けなかった。


「ごめん……」


言葉が、かすかに口をついて出た透は静かに首を傾げた。


「……ごめん?」


「俺……俺……助けられなくて…」


苦しくて、胸が締めつけられる。俺がずっと目を背けてきた過去。けれど、透は静かに微笑んだまま、首をゆっくり振った。


「違うよ、悠真。俺が悲しかったのは…」


「……え?」


「お前が、俺のことを……忘れたこと」


透の目が、暗い闇に沈んだように見えた。

忘れた。俺は透を、あの事故を、「忘れた」。

忘れようとしたんじゃない。誰かに忘れさせられたわけでもない。


俺自身が、透を記憶の奥底へと封じ込めた。


「俺のこと、もう思い出した?」


透が、すっと手を伸ばす。その手が俺の肩に触れた瞬間、全身が凍りつくような寒気が走った。


「だったら一緒に、行こうよ。親友だろ?」


その言葉に、俺の心臓が跳ね上がった。


「……な、なんで……?」


「だって、俺とお前は親友だから」


透は微笑んだまま、俺の腕を掴んだ。


冷たい。まるで水の底に引きずり込まれるような感覚。俺の視界がぐにゃりと歪んでいく。息苦しくなっていく。


「……待て、透……!」


「大丈夫だよ、悠真。今度は俺が、お前を助けてやる」


にっこりと笑う透の顔が、徐々に滲んでいく。遠くで、誰かの声がした。

俺は、このまま消えるのか?意識が、闇に沈んでいく。視界が暗くなる。


水の中にいるような、重たい静寂が広がる。透の手が俺の腕を掴んだまま、少しずつ、少しずつ沈んでいく。


(このままじゃ……俺も……)


意識が遠のく中、ふと、胸の奥から何かが込み上げてきた。


違う!


「透!……俺は、お前を忘れたかったんじゃない!」


その言葉を絞り出した瞬間、透の手がぴたりと止まった。


「……なに?」


「俺は、俺は…忘れようとしたんだ。……いや、忘れなきゃいけなかったんだ。じゃなきゃ俺は正気でいられなかった…俺はお前が死んだあと1年間精神科に入院してた。隙さえあればお前を追いかけようとしてたんだ…」


自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。透の顔が、かすかに揺らぐ。


「俺は……お前を助けられなかった。俺があのとき、手を伸ばせていたら、お前は——ごめん…ずっと親友だったのに…忘れててごめん」


言いかけて、唇を噛んだ。透の目が暗く沈んだものから、少しだけ光が差していた。そして、静かに首を振った。


「悠真、ごめん…。俺どうかしてた」


「……え?」


透の目が、どこか寂しげに細められる。


「俺は……お前を恨んでるわけじゃないんだ。」


「……透?」


「お前だけが俺を忘れたわけじゃない。みんな、俺を忘れたことが悲しくて…」


透はゆっくりと目を閉じ、続けた。


「……でも、お前は自分で思い出してくれた」


その瞬間、俺の体を締めつけていた寒気が、ふっと消えていった。手首にはあの時透がつけていたミサンガが結ばれている。目の前の透の姿が、淡い光に包まれていく。


「透……」


「ありがとな、悠真」


透の笑顔が、あの頃のままの無邪気なものに戻っていた。


「……俺、もう行くよ」


透の手がそっと離れる。


「お前は、ちゃんと卒業しろよ。おめでとう」


「透——!」


俺が叫ぶと同時に、透の姿が光の中へと溶けていった。


俺はただ、その姿を見送ることしかできなかった。


————


目を覚ますと、そこは自分の部屋だった。


夢だったのか?


だが、額には汗が滲み、心臓はまだ激しく脈打っている。夢と現実の境目が曖昧なまま、俺はゆっくりと起き上がった。手首には透のミサンガ。


机の上には、昨日までと変わらない卒業アルバムが置かれていた。俺は震える手でアルバムを開き、クラス写真のページを確認する。

透の姿が、消えていた。俺の隣にいたはずの彼の姿はどこにもなく、まるで最初からそこに存在しなかったかのように、整然と並ぶクラスメイトたちの顔があるだけだった。


(やっぱり……透は)


確かめるように名簿のページを開く。


「橋本 透」の名前も、そこにはなかった。


教師の記録からも、学校の公式名簿からも、誰の記憶からも——透という存在は消え去った。

俺が思い出したから、透は成仏できたんだろうか。ふと、机の引き出しを開けると、奥に古びたノートがあった。それは、小学校の頃に書いていた日記だった。何かに導かれるように、俺はページをめくる。


そして、ある一節を見つけた。


「橋本 透と一緒に遊んだ。今日はすごく楽しかった!一生親友だ」


その横には


「俺も一生親友!」


透の名前が、そこに残っていた。俺はそっとページを閉じる。


(……忘れないよ、透)


俺は彼のことを、二度と忘れない。


今日は、卒業式だ。透が見送ってくれる、この世界で。

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