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 秋人はゆっくり階段を下りながら、なぜ命が苛立っていたのかを考えた。しかし、彼の心中は全く想像できなかった。


 下は人でごった返しているから誰かに体を傷つけられることを危惧しているとか? 

 外れている気がするが、何にせよ怪我やドラッグには気を付けよう。


 一階のフロアに入ると、大音量の立体的な音楽に包み込まれる。モニターでできた壁や床には橋爪の作成した映像が絶え間なく流れ、レーザーが立体映像で橋爪のグラフィティを空中に描き出す。耳も目も忙しない場所だ。


 ステージには真っ黒なレンズのサングラスをかけたDJがパフォーマンスをしていた。音楽のジャンルには詳しくないが、リバイバル・テクノか何かだろう。聞いているだけでだんだんと気持ちがそわそわしてくる。おそらく人を高揚させる音の研究結果をふんだんに盛り込んだ音の連なりだろう。しかし、公共の場で流れているということはこれでも合法ラインだ。


 カウンターで飲み物を注文していると、腕にそっと触れられた。ぎょっとして半歩下がった。体のラインを強調する服を着た綺麗な男が隣に立っていた。


「隣いいですか? ここじゃグラスかけないと楽しめませんよ?」


 男がそう耳打ちしてきた。この場所はうるさすぎて普通には会話ができない。

 秋人がグラスをかけようとすると、男はくすっと笑う。


「そんな古いの使ってるんですか?」


 言われてみれば、何年も買い換えていない。買い換える気が起こらなくて古いモデルをずっと使っている。


 男は秋人にシルバーフレームのグラスをかけてきた。急なことだったので逃げられなかった。驚いて瞬きをしていると、グラスが起動動作だと認識して視界にポップアップが現れた。


「あげますよ」

「いえ、そんな、悪いですよ」


 秋人がグラスを返そうとすると、ちょうどバーテンダーが秋人に飲み物を渡してきた。秋人が飲み物を受け取ると、男は鼻白んだ様子でどこかへ行ってしまった。


 何だったのだろうと思いつつ、飲み物を飲んでいると、自分が左手薬指に指輪をしていたのに気づいた。男もこれに気づいて離れて行ったのだろう。


 残念に思う自分に気が付いて戸惑った。アプローチをかけられてうっとおしいと思わない自分がいる。


 どうしようかうじうじ悩みそうになったが、ふっと思考は途切れた。


「どうせ死ぬんだから、いいか……」


 ちらと三階のラウンジの窓を見上げるが、命は見えなかった。いや、何を気にしているのだろう。死んだあとの自分にしか用がない命からすれば、俺が誰と遊ぼうが関係がないはずだ。今夜くらいあの男のことは忘れよう。


 指輪を外して内ポケットに入れた。これで失くす心配もない。もし命に何か言われたら、落とさないように外しておいたと言おう。


 カウンターで飲み物を飲んでいると、他の人が代わる代わる声をかけてきた。いつもは人に話しかけられないようにしているが、話しかけられるのを待っている雰囲気を出せば、こうして人は勝手に寄ってくる。


 悪くないかもと思った人とは少しだけ言葉を交わしてみた。案外悪い気はしなかったし、むしろ楽しいとさえ思った。


 顔や身なりを褒められることが多かったが、いかにも手慣れていそうなタイプはあえてそういった話題を避けていた。でも、手や腰を撫でようともくろむ目が全てを物語っていた。


 話していて命を思い出す男は適当にあしらったが、あしらうたびに罪悪感とも後悔ともつかない感情を覚えた。


 脳裡に命の顔がちらついたので、忘れないうちにメッセージを確認した。もう帰りませんか、と命から来ている。先に帰っていろと返事をしてウィンドウを消した。

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