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 鬱病になってからは、筆舌に尽くしがたい苦しみの嵐が体の内側に、脳内に、自分という存在の中にはちきれんばかりに吹き荒れていて、安楽死どころか、生活にまつわることさえ考えられなくなった。


 それどころか、安楽死制度を使って死ぬなんて許されるはずがないとまで考えるようになった。論理的な思考と妄想とが入り混じり、いや全ては妄想だったかもしれないが、自分は惨めに死ななくてはならないという考えに辿り着いた。


 秋人は暗黒の影の気配に気づいて、パンフレットをラックに戻した。強く手を握りしめて、体の内側に染み込んでくる影の重さに耐えた。


 安楽死を選んでいいのか? たくさんの人が必死に働いてできた税金や保険料で苦しまずに死ぬ、そんな権利が果たして本当に自分にあるのか? 

 だって、そんなにまともに生きてきてない。まっとうに育てられてなんてない。でもこれ以上生きてたってまっとうになれない。もう全て何もかもが手遅れで、やり直すこともできないで、生まれてきたことが間違いだった。

 それなら早く死ぬべきじゃないか? 生きて社会の荷物になりつづけるよりも早く荷台から落ちるべきじゃないか?


「秋人さん、お待たせしました」


 命の間の抜けた声で我に返る。不自然に緊張した秋人の表情に気づいた様子はなく、なかなか立ち上がらない秋人を不思議そうに見つめてくる。


「家に帰りましょう」


 命が手を握ってきて、思わず払いのけた。やらかした。全身から血の気が引いた。あまりの気まずさに体の重さも忘れてすぐさま立ち上がった。


「帰りにおやつでも買っていきます? 道の途中に美味しいお団子屋さんがあるんですよ」

「い、いい。別に。お腹空いてない」


 命は手を払いのけられたことなどまるで気にする様子を見せなかった。車に戻って二人きりになっても、命は平然としていた。


 秋人は慎重に呼吸をした。そうでもしないと窒息しそうだった。


 相手が気にしていないことを、いつまでもいつまでも気にしてしまう。手を払いのけた時は大した力もこもっていなくて、軽いじゃれあいの延長線にあったのに、気に障ったんじゃないかと不安でたまらなかった。答えはすぐ隣にあるのに、怖くて聞けなかった。


 家に着くと、秋人はどっと疲れに襲われて、帰宅してすぐにベッドにもぐりこんだ。張り詰めていた神経の糸が切れてしまった。こういう時は、あらゆる刺激を断ってじっと耐え忍ぶしかない。


「ここにお水を置いておきますね。何かあったら呼びつけてください。一応ご飯は用意しますが、食べられなかったら僕が食べるのでお構いなく。カーテンは閉めておきますが、手元のボタンで開閉できるのでご自由に」


 てきぱきと説明をして、命は扉を静かに閉めて部屋を出て行った。急に配慮が行き届き始めたところを見ると、役所に行く前の時間に鬱病のことを調べたのだろう。そういうところは素直に頭が下がる思いだった。


 話ができるくらいになったら、すぐにでも命に謝罪をしたい気持ちに駆られた。だが、指一本たりとも動かせなかった。命が置いていった水さえも、世界の果てに置かれているように感じられた。


 悪化している。


 認めたくない現実が頭をがつんと殴ってきた。意思とは関係なしに涙が流れていく。


 涙がからからに乾いたころ、秋人は一度も立ち止まることなく山の頂上まで歩かされたような疲労感を覚えていた。薄い胸を去来するのは凍り付くような孤独感と罪悪感だった。


 死んでしまいたかった。あの嵐の夜、命に会わなければ、とっくに楽になれていたはずなのに。そうだ、だから苦しいんだ。何でもかんでもあの男のせいだ。


 下敷きにしてしまった右腕は動かせず、やっと左手がペットボトルを掴んだ時には何時間も経過したように感じられた。


 薄闇の中で指輪がかすかに光る。こんなきれいなものが自分に似合っているとは到底思えないが、外すこともできはしない。もし失くしたらどうやっても償えないのだから。

 

 何かを綺麗だと感じる心が麻痺していても、気付けばぼんやりと見つめ続けていた。

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