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 歩いて五分ほどで男の家に着いた。白色の壁が特徴的な戸建ての家だった。家族で住んでいるのだろうか、と考えたが、家の中には誰もおらず、どうやら一人で暮らしているらしかった。


 男は秋人を玄関で待たせてバスタオルを取りに行った。


 一人残された秋人は玄関の壁にかけられた鏡をちらと見た。濡れそぼった自分が、飼い主に洗われた可哀そうな猫のように恨めしい目をして立っていた。


 黒い目に光はほとんど差し込まない。秋人の大きな目が半分も開かれることは普段からなかったし、長い睫毛が常に影を落とすからだ。


 秋人はすぐに鏡から目を背けた。美しいだとか、かっこいいだとか評される顔だが、自分では見るに堪えない。若いころの母にそっくりで、薄い唇だけは父親譲りで、見るたびに思い出の鋭い刃が心を刺す。


「お待たせしました」


 男がバスタオルを持って戻ってきた。


「拭いたら中にどうぞ。着替えも貸しますけど、あ、お風呂入れますね」

「着替えも風呂もいい」


 顔だけ拭いて、タオルを命に押し付けた。が、男は首を傾げて秋人の頭にタオルをかぶせて髪をわしゃわしゃと拭き始めた。


「何すんだよ!」

「全身びしゃびしゃじゃないですか。着替えないならせめてちゃんと拭いてください。そんな体で家に上がられると困ります」


 男は一通り拭き終えると、手を止めて秋人の目をじっと見つめた。思わず舌打ちする。


「……今度は何だよ」

「レンズ、入れてますか?」


 レンズとは、ICL(インターネットコンタクトレンズ、古くはインプランタブルコンタクトレンズ)のことだ。ICLを入れると、当人の視界にはデジタル情報が現実に重なって見えるが、外見の変化はない。


「いや、入れてない。グラス使ってる。今日は家に置いてきたけど。目にメス入れるとか、怖いだろ」


 今時グラスさえ常時つけていないことに驚かれるだろうか。そんな風に秋人は考えていたが、命の返答は予想の斜め上だった。


「他に手術をされたことはありますか? 大病とかもないですか?」

「は? まあ鬱の診断もらう前は内臓とかちょっと悪くしたけど治ったし、手術するほどの怪我も病気もしてない。それが何?」

「なるほど、鬱病の診断が下っている。でも、肉体はかなり頑丈なんですね。歯を見せていただいても?」


 男は返事を待たずに秋人の唇を親指で押し上げて、秋人の白い歯をしげしげと観察した。


「口を開けて。……虫歯はないんですね、しっかり治療されている。嘔吐癖もない」


 その仕草が歯医者での診察に似ていたものだから、秋人は抵抗できることをうっかり忘れてしまった。


 素晴らしい、と男が若干興奮気味に言って手を離した。秋人は気味が悪いと思った。目の前の男に対しての疑問が頭の中であふれかえっていて、回れ右して逃げる事を思いつかなかった。


「とりあえず中へどうぞ、温かい飲み物を持ってきますね」


 リビングルームへ通され、皮張りのソファーに座った。使い込まれた革の質感は柔らかく、ひんやりとしていたが不快ではなかった。


 部屋の中の家具や調度品はどれも主張は激しくなかったがうまく調和していて、居心地の良さを追求しているのがわかった。殺風景な自分の家とは正反対で物が多い。


 ソファーを撫でたところで秋人はようやく我に返り、知らない人の家に上がり込んでいることに不安を覚えた。今すぐ逃げ出したい気持ちに駆られたが、沸騰しそうな頭とは裏腹に体は鉛のように重かった。情けない、体力がないのに大雨の中を出歩いたせいだ。


「どうぞ、コーヒーです」


 部屋に戻ってきた男がコーヒーカップを差し出した。どうも、とぼそぼそ言って受け取った。


 男は海野命うみのみことと名乗った。薄茶色の髪が特徴的で、終始微笑を浮かべていて顔立ちははっきりわからない。まとう空気が柔らかすぎて却って警戒心を抱かせるほどだった。前世は詐欺師だったに違いない、そして今世は遺体回収屋なのだ。来世はもっとましな生き物になった方がいい。


 出された温かいコーヒーの匂いを嗅ぐと、急に喉の渇きを覚えた。そういえば家を出てから何も飲んでいなかった。知らない人の家で出されたものを飲むべきではなかったが、抗えなかった。舌先で味見をした。妙なものは入っていないようだったので、ちびちびと飲んだ。


「あんた、こんな大嵐の日に外で何してたんだ?」

「散歩ですよ」

「嘘つくな、そんな訳ないだろ。この大雨だぞ?」

「そんな訳ありますよ。だって僕、大雨が好きなんです」


 命は子どものような口調で言った。


「家の中で窓に叩きつける雨見てるのも楽しいのですが、外に出て土砂降りの中を歩くのも楽しいんですよ。それで、良い雨だと思って外を散歩してたら、身を投げようとしていたあなたを見かけたんです」

「いつか雷に打たれて死ぬぞ」

「あはは、結構口が悪いんですね、秋人さん。僕は死ぬなら布団の上が良いですね。でも、そういう運命なら、そうかもしれません」


 心底むかむかしてきてもっと悪口を言いたくなったが、そもそも命の家に来た理由があったのを思い出して話題を変えた。


「あんた、俺の体をもらえないかって言ってたけど、何者?」

「実は僕、プラスティネーション作家なんです」


 命はちょっと誇らしげに言った。秋人は首を傾げた。


「芸術家ってことか? プラスティネーションって、何?」

「そういう反応をされると思ってました。どうぞこちらへ、僕のアトリエで説明します」

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