1-3 幽霊嫌いの外戚官吏
嫌な予感がしていたのだ。
じっと強い眼差しでこちらを睨んでいる眼鏡をかけた徒弟の少女の顔を見ながら、顔を隠す
青藍は
何しろ、人の理で計れないのだ。死人に法も理もあったものではない。
死んだはずのものが身体も無いのに言葉を発する、物を動かす、挙げ句の果てに宙を飛ぶ。どうかすると生首も飛ぶ。
そんな存在が恨み妬み嫉みを背負ってうっそりと闇に立って、こちらを睨んでいる——などと想像したくも無い。
なのに、よりにもよって洗冤院から派遣されたらしいこの少女は霊が見えると言うのである。実に洒落になっていない。
こんなことなら、科挙など受けずに大人しく外戚としての余禄で満足しておくのだった。
青藍はじっとりと濁った空を見上げながら、今更のようになんとか断れなかったものだろうかと数日前に皇太后に呼ばれた時のことを思い返さずにはいられなかった。
「――宮女の霊、でございますか?」
内廷に参内した青藍は嫌な予感をべっとりと張り付かせたまま、叔母である皇太后に思わず尋ね返していた。
皇帝の代理たる皇太后の言葉を尋ね返すなど本来ならば許されないことである。
しかし、御簾を取り払った部屋で青藍と向き合った皇太后はそれをとがめるわけでもなく静かに同意した。
「そうです。時に青藍。主上の大婚の儀が数年先に控えていることは存じていますね?」
「噂程度でしたら」
話の筋が見えないまま青藍は黙然とうなずいた。
幼帝が即位したのは今から二年前のことだ。今年で御年十歳。そろそろ皇后の候補を選ばねばと噂になっていることは青藍も知っていた。
たしかにまだ少し早いという声もあったが、幼帝は大婚の儀と同時に親政を開始する。となれば、皇后は新婚すぐに後宮を含めた内廷を一人で差配しなければならないのだ。そのための教育のことを考えれば、早すぎるなどということはない。
ただ、それがなぜ自分と関わるのかが見えてこない。
御簾を取り払った部屋でこうして向かい合うということは、今の青藍は外戚とはいえ皇族と見なされていることになる。
皇族扱いの自分と女官の霊と大婚の儀。
どうにもよく分からない話の組合せだ。
「当然ながら皇后の候補を養育しなければならないわけですが、その宮に」
「出た、ということですか」
「そういうことです。今、妃候補たちは北苑の南側に住まわせているわけですが」
ふむ、と青藍は広大な内廷の地図を脳裏に思い浮かべた。
北苑の大半は後宮に属しており、もちろん後宮は男子禁制の場所である。その南側と言えば、池と川を渡ればすぐに内廷に入ることが可能だ。実際の教育は内廷の専門部署で行うことになることを考えれば、確かに都合が良い。
皇后養育にはいささか格が落ちる場所だが、まだ后でも妃嬪でもない他家の娘を養育のためとはいえ内廷に住まわせることは出来ない。
本来の養育の場である芳儀殿がとある理由で長らく閉鎖されているとなれば理解は出来る。
「そこに宮女の霊が出てしまったとなれば、これを捨て置くわけにはいきません」
「道士や巫覡で祓えばよろしいのでは?」
どちらかというとそれが一般的な対応だと青藍は聞いたことがある。
実際問題、霊にまつわる話は大方が勘違いや気の迷いの類である。そんじょそこらにほいほい霊がいるわけがないのだ。というか、いてもらっては困るし怖い。
しかし、青藍の提案に皇太后はゆっくりと頭を振った。
「北苑の南といえば、もうほとんど内廷と言っても過言ではありません。後宮と呼べるほどの妃嬪が住んでいたような場所ではないのです。そんな場所でさえも霊が彷徨っているとなれば――」
北苑全体にどれほどの恨み辛み未練が澱となっているか知れたものではない。と、皇太后は結ぶと、張りのある支配者としての声で青藍に告げた。
「ゆえに青藍。そなたを権知洗冤令事に任じます。北苑と言わず内朝に澱沈む死者の未練や無念を解き明かし、これを詳らかにすることでこれを鎮めるのです」
「お、お待ちください! 私は男です。北苑は無論、内廷を闊歩することも憚られます。第一、洗冤令は
思わず立ち上がって抗弁すると、それまで壁際に控えていた護衛の宦官が威嚇するように腰の剣に手を伸ばした。皇太后は軽く腕を振って制すると、また元の彫像のような姿で壁際に控えなおす。
「だから、代理の権知洗冤令事ということです。それに皇家には外戚を含めそなた以外に適任者がおりません。幸い、青藍。そなたは実力で科挙登第を果たした才子。外戚の威を借る七光りとは誹られることはないでしょう」
「それはそうかもしれませんが……」
冗談では無かった。先帝の御代から科挙出身の便利な外戚として使われることには馴れている。しかし、これだけは話が別だ。
「君子、怪力乱神を語らずと申します。私に洗冤の勤めが果たせるとは思いません」
「そなたの場合は君子、怪力乱神を畏るるでしょう」
幼い頃の青藍を知っている皇太后はいたずらっぽく微笑んだ。
「いや、そんなわけでは……。それにそもそも、その女官の霊とやらが本物の未練を残した死人かどうかも分からないではありませんか。それにやはり男の私が後宮に渡るというのは禁忌ではないかと」
「往生際が悪いですよ、青藍。幸いというわけではありませんが、先帝陛下がお隠れになり幼い主上はまだ後宮を開いておりません。今、この時期であれば何とでもなります」
逆に言うと、後宮が開かれた後に何か起こっても手の出しようがないということでもある。青藍の心配は実はそうではないのだが、そこも含めて皇太后はあくまでも青藍を洗冤院の長官代理にすると心に決めているようだった。
こうなってしまえば是非もない。青藍は臣下の礼をもって皇太后に向き合った。
「ご下命、謹んで」
「期待していますよ」
思い返すほどにため息しか出ない。
よりにもよって、なぜ自分なのだと考えてみれば、皇太后の言うように他に人がいないからだということになる。
お飾りとは言え外戚という威を持ち、科挙出身としての才には自負もある。外朝の廷臣たちからも高く評価されている皇太后のおぼえもめでたく、おまけに幼帝とも面識がある。
たしかに自分しかいない。
霊が怖いという隠し事さえなければ、だが。
まさか幽霊が怖いからやっぱり辞退しますとは言えない以上、女官の霊など気の迷いであることを証明するしか逃げる方法はない。
青藍は腹を括ると改めて、フンヌと自分を見上げる黎明と彼女が指さす池を見比べた。
――やはり、何も見えない。つまり、この娘の気の迷いということだ。そう決めた。
そう気を取り直して、青藍は改めて徒弟の少女と宦官に向き合った。
「福円と黎明だったか? 私には何も見えないのだが? まあ、場所が場所だ。そんな気になるのも理解出来ないわけではない。少し落ち着いて、もう1度見直してはどうだ?」
しかし、太っちょの宦官が黎明と呼んだ娘は池をちらりと見ただけでまた青藍を睨んでくるのだった。
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