最終話 光を運ぶ
一年で最も寒い時期を越え、暦は新しい年の始まりを示していた。
雪がやみ、岬の空は信じられないほど澄み切っていた。みさきは古書店へ向かう坂道で、バイクを降りて深呼吸をした。潮風はまだ冷たいが、そこに春の予感のような、生命の息吹を感じた。
前日、悠人さんに会ったとき、彼の瞳にはまだ深い影が宿っていた。まるで、誰にも分かち合えない究極の孤独に身を置いているようだった。あの時、みさきは自分の「生の輝き」を彼に届けることしかできないと感じた。
「汐さんは、きっと光を見ていた」—みさきは岩場でそう確信した。
そして今朝、陽光が古書店の古い屋根を照らしている。この光こそ、汐が歌った「太陽の光」、みさきが運ぶべき「希望」そのものだ。
みさきがバイクを止め、郵便物を手に古民家の扉を開けた瞬間、彼女の目は見開かれた。
店内の暗闇が消えていた。
悠人さんが、古書店の扉を大きく開け放っていたのだ。外の光が直接差し込み、埃の粒がきらめき、古本の匂いと、新鮮な潮風が混ざり合っている。いつもの薄暗い「知識の檻」のような雰囲気は消え、店全体が、外の世界の生命を受け入れているようだった。
悠人さんが、その光の中に立っていた。彼の顔色はまだ白いが、瞳のくすみは消え、静かで、澄んだ光を湛えていた。それは、祖母が語った源一郎さんの「賢すぎる寂しさ」ではなく、すべてを見極め、受け入れた者だけが持つ安堵のように見えた。
みさきが店内に踏み入ると、悠人は静かに顔を上げた。
「みさきさん。おはようございます」
「おはようございます、悠人さん。今日は、すごく明るいですね」
悠人は微笑み、テーブルの上に置かれた小さな木箱を示した。中には、修復が完了した真鍮の羅針盤が収められていた。朝日に照らされ、羅針盤は黄金色に輝いている。
悠人はそれを手に取り、みさきへ差し出した。
「これを、みさきさんに。私の孤独の旅路に、遠い場所から羅針盤を運んできてくれた。あなたは、私の今の『出会い』です」
みさきは羅針盤を受け取った。その金属の冷たさと、悠人の言葉の温かさが、手のひらに同時に伝わる。彼が口にした「出会い」という言葉は、汐の詩の結びの言葉、「思い出とはふるさとの出会いで、やはり自分との出会いになってくる」と響き合っていた。
汐の「思慕」と、悠人の「継承」が、みさきという「現在」に結びついた。
その瞬間、潮騒の音が遠く響き、三世代の因縁と、二人の若者の感情が、一つの真実へと収束した。汐が手帳に遺した言葉が、時を超えて、彼らの中に静かに満ちる。
そこに本当の私が生きている。
羅針盤を抱きしめたみさきは、彼の目を見て、深く頷いた。彼女は言葉ではなく、その瞳の輝きで、彼が抱きしめた「明らめ」を祝福した。
「また来ますね。光を運びに」
みさきは、羅針盤をポケットにしまい、いつもの明るい声で告げた。彼女の役割は、特別な伝言を伝えることではなく、日常という名の生命を運ぶことだ。
悠人は、開け放った扉の前に立ち、みさきのバイクの音が遠ざかるまで、ただ見送った。
潮風は穏やかになり、古書店には、古書と潮風、そして新しい生の静かな匂いが満ちていた。
彼はもう、知識の檻の中にいない。祖父と同じ29歳で因縁を明らめ、彼は今、すべてを受け入れた本当の自分として、この岬で、静かに生き始めた。
二人の物語が始まった。
潮騒と羅針盤 御園しれどし @misosiredosi
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