第3話 教わらぬものの深さ
3. 潮騒と筆跡
手帳に書かれた言葉は、一度悠人の内に入り込むと、もはや修復を要する古物や、仕入れるべき稀覯本よりも、遥かに重要な存在となった。
その文章は、哲学的であるにもかかわらず、どこか切実で、読む者に問いかける力が強い。特に、「教わったものの中から教わらないものの深さを みずからの養いとしている」という行には、祖父・源一郎が教えとして残した言葉の、さらに奥にある、情念の源のようなものが感じられた。
悠人はまず、手帳の持ち主が誰であるかを特定しようとした。
筆跡は女性的でありながら力強く、感情がほとばしるように見える。古い紙質やインクの分析から、書かれたのは一九六〇年代の後半であることが推測できた。その時代、この岬で祖父の身近にいた女性。悠人が知る限りの源一郎の交友録には、該当する人物はいない。
ある日の夕暮れ、羅針盤を磨いていた修復室で、悠人は再び祖父の遺品箱を開けた。その底に、古く黄色く焼けた一枚のモノクロ写真があった。
二十代前半らしき源一郎が、海を背に、屈託のない笑顔で写っている。そして彼の隣には、細身で目鼻立ちの整った一人の女性が、海に向かって背を向けるように立っていた。彼女の髪は潮風に吹かれて乱れ、その表情はどこか儚く、悠人の知るどんな女性とも違っていた。
写真の裏には、源一郎の筆跡で、たった一言だけ日付が記されていた。
「一九六七年・初夏」
悠人は、手帳の筆跡と、写真の女性の立ち姿から伝わる雰囲気を照合した。確証はない。しかし、彼の内側の「私でないもの」が、強く頷いていた。
「汐(しお)さんだ」
祖母が生前、一度だけ、ぽつりと漏らした名前だ。源一郎が結婚するずっと以前に、この岬で激しく愛し合い、しかし何らかの理由で、時が止まったように忘れ去られてしまった女性。一九六七年といえば、悠人の分析した手帳の執筆時期とほぼ一致する。
潮(しお)——。海の音をそのまま名にしたその女性が、この哲学的な散文詩の作者である可能性に、悠人の心臓は高鳴った。
4. 因縁と時間
手帳が汐の遺したものであると確信して以来、悠人は手帳の言葉が自分の血となり肉となるように読み込んだ。
「生きているしるしがすべてを形づけている、それがお前の本当の前世からの因縁だぞ」
悠人は一九九六年生まれの二十九歳。汐は一九六七年に二十七歳で亡くなっている。
彼女の生きた時間、その「内面の養い」が結晶化した言葉を、悠人は、彼女の享年を超えたこの年齢で受け取っている。その事実が、悠人にとって、単なる発見ではなく、継承を意味しているように感じられた。
ある日、みさきが分厚い荷物を届けに来た。それは、首都圏の古書愛好家からの大口注文だった。
「悠人さん、今日もたくさんありますよ。古書なのに、こんな岬の端まで送ってもらえるって、不思議ですよね」
みさきが笑う。彼女の笑顔はいつも健やかで、汐の言葉を読み続ける悠人の内的な陰鬱さを、一瞬で払い去る力があった。
「不思議じゃないですよ、みさきさん」と悠人は答えた。古書に囲まれ、内省を深めるばかりの悠人が、みさきに対して自発的に言葉を紡ぐのは珍しいことだった。
「知識っていうのは、別に東京にあるわけじゃない。この岬にだって、本を通じて流れてくる。みさきさんが郵便を運んでくれるみたいに、本は、あらゆる機会と場所を選んで、誰かの心を生きているんです」
悠人の言葉に、みさきは目を丸くする。
「まるで、『人間だけではない動物や植物やこの植物を支えている根っこだってそうだ』っていう言葉みたいですね」
悠人は驚き、みさきを凝視した。
「今、私が言った言葉は、祖父が教えてくれた言葉の一部です。なぜそれを知っているんですか?」
「え、私が言ったのは、この辺の昔からの漁師さんの船歌の一節ですよ? もともとは自然に対する感謝の歌だったって。植物の根っこは、海につながるって。…悠人さん、顔色悪いですよ?」
悠人は言葉を失った。
この岬の漁師の歌、古くからの知恵、そして汐が遺した詩的な散文、さらに祖父が教えた哲学の言葉が、すべて同じ「根っこ」を共有している。
それは、特定の知識や教育とは関係なく、この土地と、生きとし生けるものすべてに宿る「普遍的な生命の連鎖」の自覚であった。
「みずからの養いとしている」ものが、個人の思考を超えて、この世のすべてを貫く秩序として存在していることを、悠人は初めて確信したのだった。
4. 潮風と生命の連鎖
悠人は、手帳が汐の遺したものであり、その言葉が祖父の教え、そしてこの岬に根付く古の知恵と共鳴している事実に、強烈な衝撃を受けていた。
「知識」や「教育」という枠組みを飛び越え、生命の根源的なつながりが存在することを、彼は今、体温をもって感じていた。
その日、みさきはいつものように分厚い荷物を届けに来たが、今日はいつになく長居をした。古書店の窓から見える海は荒れており、配達用のバイクを置いて、しばらく店内で潮が引くのを待つと言う。
「悠人さんのとこに来ると、なんか落ち着くんですよね。物が全然動いてないのに、時間がすごく動いてる気がする」みさきは古書店の古い木製のベンチに腰掛け、ヘルメットを抱えて言った。
「動いてないように見えるものが、一番時間を吸い込んでいるんですよ」悠人は羅針盤の修復を続けながら答えた。「この羅針盤だって、一世紀近く前に誰かの航海を導いた。この古書だって、何百人もの手に渡って、そのたびに違う人の思考に触れてきた。この『潮騒書房』自体が、時間と記憶の容器なんです」
みさきは、悠人が初めてこんなに饒舌に語ることに少し驚いたが、その言葉にはどこか共感するものがあった。
「そうか。私が運んでる手紙や小包も、みんな誰かの『過去』や『未来』が詰まってる容器だもんね。でも、悠人さんは、いつも容器の中身ばっかり見てる感じがするな」
「中身、ですか?」
「うん。外は見てないっていうか。ほら、今日は風が強くてさ、海の匂いがいつもより濃いでしょう? この匂いも、今日っていう一日の記憶なんだって、私配達中にいつも思うんですよ」
みさきは立ち上がり、店の扉をわずかに開けた。潮風が勢いよく吹き込み、古書のほこりっぽい匂いと、生命力に満ちた磯の匂いが混ざり合う。
「悠人さんばっかりじゃない、人間って、みんなそうなんだって、汐さんだって言ってたんじゃないかな」
悠人の手が一瞬止まった。 「……汐、ですか?」
「あっ、ごめんなさい。私のおばあちゃんが、昔、この辺にいた人の話をしてくれたことがあって。その人が『汐』って名前だったって。すごくきれいな人で、いつも海に向かって詩みたいな、歌みたいなのをつぶやいてたって。その詩の中に、『人間だけではない動物や植物やこの植物を支えている根っこだってそうだ』っていうのがあったんです。だから、悠人さんの話を聞いて、急に思い出しちゃって」
それは、因縁が具現化する瞬間だった。
みさきの祖母が語った「汐」の断片的な記憶、そして地元の「古くからの知恵」として受け継がれていた詩の一節。これらが、悠人が手帳から得た哲学的真理と、同じ根っこを持っていた。
「葉に恋人のようにいつでも触れてる大気だって、そう。太陽の光だってそうなんだよ」
悠人は、手帳に記された次の行を、まるで応答するかのように静かに口にした。
みさきは、その言葉がなぜか自分の中に昔からあったような懐かしさを覚え、目を輝かせる。
「そう!その通り!不思議ですね、悠人さん。その続きを、どうして知ってるんですか?」
悠人は、彼女に手帳の存在を告げることはしなかった。まだ、汐の秘密を他者に明かす段階ではない。
「……祖父から教わった言葉です。祖父は、この場所のすべてが繋がっていることを、知っていたようです」
悠人はそう答えながら、みさきの朗らかさが、汐の言葉にある「大気」のように、彼の孤独を抱きしめているのだと理解した。みさきは、悠人が内面で深める探求を、生きた世界へと繋ぎとめる、重要な結び目であった。
悠人は、知識や孤独といった自己の内部だけでなく、この岬の潮風、みさきの笑顔といった「私でないもの」を通じて、生命のネットワークが自分を生きさせていることを、確かに感じ始めた。この感覚こそが、彼が手帳から得るべき「教わらぬものの深さ」だった。
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