第10話 欲望を捨てよ

この街では、すべての者に「放下着ほうげじゃく」が求められる。

欲望を、過去を、名前すらも──手放せ。


それが“平穏”の名のもとに作られた秩序だった。


かつて、タケルはこの街の財をほぼ一人で牛耳っていた。

裏取引に、買収、情報操作。

成功の名のもとに、あらゆるものを積み上げてきた。


「俺はこの街を動かしてる。俺が法律だ」


だが、その夜、彼のもとに黒衣の巡察官が現れた。

仮面の奥から静かな声が響く。


放下着ほうげじゃく


「は? なんだそれ。俺のどこが悪い。俺は努力してきたんだぞ!」


「あなたは、あまりにも執着しすぎた。

その執着が、あなた自身を壊しはじめている」


黒衣の巡察官が銃を構える。


「ふざけるなッ、俺は手放さない。誰がこんなもん……!」


パァーン。


銃声が路地に木霊する。


タケルはその場に崩れ落ち、手からは金時計が滑り落ちた。


数日後。街外れの寺に、老いた旅僧がひっそりと訪れていた。


「……放下着ほうげじゃく、か。ずいぶん歪んでしまったな」


隣にいた若い修行僧が問う。


「師匠、放下着ほうげじゃくとは、欲を持ったら殺されるということなのですか?」


老僧は首を横に振る。


「いいや。放下着ほうげじゃくとは“自ら気づいて、手放すこと”。

殺して無理に手放させるなど、まるで逆だ。

禅とは、命をより深く生きるためにあるものだよ」


空を見上げる。


「“放下着ほうげじゃく”とは、手放したその先にこそ、本当の自由がある──その教えだったのに」


老僧はそっと目を閉じた。

誰も知らない。かつてこの街が、静かな禅寺だったことを。


今では、静かすぎるほどの死の街だ。

ただ「放下着ほうげじゃく」の声だけが、今日も風に乗って響いている。

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