人はなぜ努力をするのか?

夕暮れの家

人はなぜ努力するのか?

夕暮れの街に、少し早めの秋風が吹いた。

その喫茶店は、駅から離れた裏通りにひっそりとある。

看板は古びていて、名前も目立たない。

だが、なぜか落ち着く。

そんな場所だった。


青年がドアを開けると、カランという鈴の音が鳴った。


「いらっしゃい」


奥のカウンターで新聞を読んでいたマスターが、顔を上げた。


「ブレンド、お願いします」


青年はカウンターに腰を下ろし、鞄を足元に置くと、ぼんやりと前を見つめた。

注文を受けてから豆を挽くのがこの店のやり方だった。

静かな時間が流れる。


やがて、コーヒーの香りとともに、湯気の立つカップが目の前に置かれた。


「……マスターさ」


青年は小さな声で言った。


「どうして人って、努力しなきゃならないんだろうね」


マスターは、カウンターの内側で手を拭きながら笑った。


「突然、哲学的だな。何かあったのかい」


「いや……仕事がうまくいかなくてさ。どれだけ頑張っても結果が出ないと、“努力しろ”って言葉が暴力みたいに聞こえてくるんだよ」


マスターは頷き、少し考えてから静かに言った。


「努力ってのはね、支配者が民を黙らせるための、いちばん手軽な“希望”なんだよ」


「……どういうこと?」


「たとえばさ、政治家が“あなたが貧しいのは努力が足りないからです”って言えば、構造のせいだと怒る人は減る。金持ちが“自分も最初は苦労した”って語れば、搾取されてる人も“じゃあ俺も”って思うだろ?」


「うん……確かにそういう話、よく聞く」


「統治する側からしたら、“努力すれば報われる”って思想ほど都合のいいものはないよ。現状を受け入れてもらえるし、不満が自分に向かなくなる」


青年はカップを見つめたまま、黙っていた。

マスターは続けた。


「努力を美徳にすれば、報われない人間は“怠け者”にされる。そうすれば、どんな格差も正当化できる。“成功=正義”って理屈になる。支配の仕組みとしては、実によくできてるんだ」


「それ……すごく嫌だな」


「でもね」


マスターはゆっくりと微笑んだ。


「それでも、人は努力するんだよ。不思議なことに」


「洗脳されてるってこと?」


「いや、そうじゃない。たとえば君は、なぜその仕事を選んだ?」


青年は少し考えた。


「……昔から、文章を書くのが好きだったから」


「じゃあ、その夢を追いかけるために努力してるのも、君自身の意志だ。誰かに強制されたわけじゃない」


青年は小さくうなずいた。


「努力ってのはな、他人に押しつけられると毒になる。でも、自分の中から湧いてきたものは、希望にもなる」


「じゃあ、自発的な努力は悪くないってことか」


「そう。だからこそ難しい。“努力は尊い”って言葉は、毒にも薬にもなる。だから気をつけろ」


マスターはコーヒーを一口すすり、言葉を続けた。


「本当はね、努力に意味があるかどうかなんて、その時にはわからないもんなんだよ。報われるかどうかも、わからない。だけど人は、それでも努力する。なぜか?」


青年は首をかしげた。


「……なぜ?」


マスターは、窓の外の茜空を見ながら、こう言った。


「人生が長いからだよ」


青年はその言葉を飲み込むように繰り返した。


「人生が……長いから」


「そう。何もしないで何十年も生きるのは、逆に地獄だ。希望がない時間は、恐ろしく長く感じる。でも“なにかに向かってる”っていう感覚があるだけで、人は前を向ける。努力ってのは、ある種の“灯り”なんだよ」


青年はカップの中を見つめた。残り少ないコーヒーの中に、自分の姿がうっすらと映っていた。


「じゃあ、もう少しだけやってみようかな、努力」


「そうしな。どうせ生きてる時間は、まだまだたっぷりある」


青年は立ち上がり、深く頭を下げた。

店を出ると、風が少し冷たくなっていた。


けれど、背中は軽かった。

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