第47話 デートの終わり
自動ドアが開くと同時に、むっとした熱気が全身にまとわりついた。
サンシャイン水族館の出口。
さっきまで包まれていた青く涼やかな静寂は、夏の暴力的な日差しと都会の喧騒にかき消されていく。
それはまるで、探偵さんが言った通り。
儚い泡が弾けて、夢から覚めてしまったみたいだった。
「……暑いね」
探偵さんは黒いコートを羽織ったまま、涼しい顔でそう言った。手にはいつの間にか、新しい箱のパッキーが握られている。
さっき、水槽の前で見せたあの儚げな表情はもうどこにもない。いつもの、食えない探偵さんに戻っている。
少しだけ、胸がちくりとした。
あの横顔は、私だけが見た幻だったんだろうか。
エレベーターに乗って一階まで降りる。
「これからどうします?」
「うん、ここには色々なアミューズメント施設もあるし、その辺りをブラブラしてもいいよね」
「ニャンジャタウンとかですよね。あそこ楽しいんですよ!」
「そうなんだ、行ったことがないから興味があるな」
「それじゃ、今から行きません? 中で餃子とかも食べれますし!」
――はっ! デートで餃子ってどうなんだろ?
かなりミスチョイスでは!?
恐る恐る探偵さんに目をやると、興味津々の表情で私を見つめ返している。
「餃子! いいねぇ、餃子! 実はまだ食べたことがないんだ!」
「そうなんですか? 餃子食べたことがない人って相当に珍しいと思いますよ?」
「知識としてなら知っているよ。小麦粉を練った皮で肉や野菜を包んで加熱する……この調理法は、世界中で普遍的に見られる食文化の収斂進化だからね」
探偵さんは、手にしたパッキーを指揮棒のようにくるりと回して見せた。 スイッチが入ったのか、その口調が少しだけ早くなる。
「例えばロシアには『ペリメニ』という、シベリア発祥の料理がある。形は日本の餃子に似ているけれど、サワークリームをたっぷりかけて食べるのが特徴だ。冬の保存食としても優秀らしい」
「へ、へぇ……サワークリームですか」
「イタリアなら『ラビオリ』、ネパールなら『モモ』、ポーランドなら『ピエロギ』。南米にだって『エンパナーダ』という揚げ餃子のような料理がある。人類は皆、何かを皮で包むことに情熱を注いできたわけだね。実に興味深い」
次々と出てくる料理名に、私は目を丸くした。
「す、すごい……めっちゃ詳しいじゃないですか! なのに食べたことないんですか?」
「ああ。あくまで知識だけなんだよね、残念なことに」
探偵さんは、ふふっと自嘲気味に笑うと、ポリリとパッキーを齧った。
「概念や歴史は理解していても、その『味』というクオリアは僕にとって未知数なんだよ」
「……ごめんなさい、何いってるのかわかんないです」
「まぁ簡単にいうと、君が誘ってくれた『ギョーザ』という未体験の有機物が、僕にどんな刺激を与えてくれるのか……非常に楽しみだね!」
そう言って微笑む探偵さんの顔は、なんだか初めて遊園地に連れてこられた子供みたいに無邪気で。 私は「ニンニクの匂い、大丈夫かな……」なんて小さな悩みが、どうでもよくなってしまった。
「ふふ、わかりました。じゃあ、世界一美味しい餃子、食べさせてあげますね!」
「期待しているよ、ワトソンくん」
それじゃニャンジャタウンに行こうかな、と足を進めていると、不意に声がかかった。
「――真弓さん」
振り返ると人混みの中に、最近になって見慣れた姿があった。
ラフなTシャツにジーンズ姿。ポニーテールを揺らして、梓さんが立っていた。
「梓さん!」
私が駆け寄ると、梓さんはふわりと優しく微笑んだ。
こっちが嬉しくなるような、暖かな表情だ。
「今日はデートなの? 探偵さんと」
梓さんの視線が、私と、その後ろにいる探偵さんを行き来する。
その瞳に、少しだけ悪戯っぽい色が混じった気がした。
「え、あ、その……」
「ふふ。顔、赤いよ」
梓さんは、私の頬にそっと触れた。その指先が少し冷たくて、火照った肌に気持ちいい。
彼女はもう、私にとって『謎の追跡者』じゃない。
運命を共有する、大切な友達だ。
「……邪魔してごめん。でも、ちょっといいかな?」
「は、はい。何でしょう?」
私の答えに梓さんは安堵したように息をつくと、私の後ろに立つ探偵さんへ向き直った。
その瞬間、纏う空気が少しだけ引き締まる。
敵意ではない。けれど、油断ならない相手に対する、一線引いた顔つきだ。
「探偵さん。……真弓さんを連れ出してくださって、ありがとうございます」
「やあ、梓くん。君も来ればよかったのに。空飛ぶペンギンは中々興味深かったよ」
「私は結構です。……それに、貴方は正体不明ですし」
探偵さんが差し出したパッキーの箱を、梓さんは静かに手で制した。
探偵さんは「おや」と肩をすくめ、自分でポリリと齧る。
梓さんは呆れたようにそれを見つめながらも、その言葉遣いには彼への敬意――あるいは警戒からくる距離感が滲んでいた。
「それより、真弓さん」
梓さんが、私の顔を真っ直ぐに見た。
その瞳が、真剣な光を帯びている。
「え、はい」
「さっき、久我さんから連絡があったの」
梓さんの言葉に、心臓が跳ねた。
また、何かが起きたんじゃないか。そんな不安がよぎる。
けれど、梓さんの口から出た言葉は、予想外のものだった。
「柳田先生が、目を覚ましたって」
「え……?」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
あの戦いで、異形と化して、最後には倒れてしまった先生。
命は助かったと聞いていたけれど、もう二度と話せないかもしれないとも思っていた。
「先生が……意識を取り戻したんですか!?」
「ええ。久我さんも、今は落ち着いていると言っていたわ」
胸の奥が、熱くなる。
よかった。本当によかった。
「だから、これからお見舞いに行こうと思うの。真弓さんも、一緒にどう?」
「行きます! 行きたいです!」
私は食い気味に頷いた。
先生に会いたい。無事な姿を見て、謝りたいし、お礼も言いたい。
「ふふ、そう言うと思った」
梓さんが微笑む。
そして、探偵さんの方を向いた。
「探偵さんも、ご一緒していただけますね?」
「もちろん。感動の再会だ、見届けさせてもらうよ。餃子はまたの機会だね」
探偵さんは、またポリリとパッキーを齧った。
その表情からは、何を考えているのか読み取れない。
でも、今はそんなことどうでもよかった。
先生が目覚めた。
その希望の光だけで、今の私には十分だった。
「行きましょう、梓さん!」
「ええ」
私たちは陽炎の揺らめく街へと歩き出した。
柳田先生の待つ、病院へと。
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