閑話:銀の鎖と夏の水
その男は、真夏の炎天下だというのに、黒のロングコートという正気とは思えない格好で池袋の街を歩いていた。コートの下は首元までぴっちりとボタンを留めたシャツと灰銀色のネクタイ、さらにシャツの下には(見えていないが)鉄の鎖で体を縛り上げている。
「あ、汗が止まらない……これが現実世界の辛さか……」
ブツブツと訳のわからない独り言を呟きながら、その男――探偵は池袋の北口の出口を出て平和通りにやってきた。
そう、ここには彼がスマホで手に入れた情報にある銭湯なる施設があるのだ。
池袋の路地裏。階段を降りた地下。開店直後の『平和の湯』の暖簾をくぐるなり、探偵は番台に小銭を叩きつけた。
「店主殿。汗を流したい! どうか施設の使用許可を頂けないだろうか?」
いうと同時に探偵は懐からコインを取り出し、番台にたたき付けた! ドヤ顔で店主を見る探偵。
自分はルールを遵守しているという確信に溢れた表情だ。
「ああ……? ああ、いらっしゃい?」
条件反射的に返事をしたらしい番台の男。
かなり頭の薄くなっている初老の男が呆気に取られている――それはそうだろう。この真夏にロングコートだ。有り体に言って気が狂っている――間に、探偵は脱衣所へと突き進む。
「数分……そう、ほんの数分ならこのコートを脱いでもいいよね? だって暑いし、コート着ては汗は流せないし……」
誰かに言い訳するように、言葉を口にしながら迷いのない手つきでコートを脱ぎ、続いてシャツを脱ぎ捨てた、その時だった。
「……お、お客さん、ちょっと待って!?」
主人の鋭い声が飛ぶ。
「ん? なんだろう? 僕は一刻も早く汗を流したいのだけれど」
「違うよ。その、体に巻き付いてる物騒なもんは何だい。うちは刺青は構わんが、鎖を持ち込まれちゃ困るよ。他のお客さんが怖がるだろうが」
「鎖? ああ、これのことか。えーっとこれはだね……何というか」
「とにかく、そんな錆びそうなもん巻いたまま湯船に入られたら、掃除が大変なんだ。悪いが、今日は帰っとくれ」
「店主殿、対話の余地はないのか? 僕は大変汗を流したく思っているのだけれど……」
「ねえよ! ほら、返金だ。さっさと服着な!」
数分後。
探偵は、池袋の灼熱の路上に、手ぬぐい一本を握りしめて立ち尽くしていた。ちなみに手ぬぐいは、探偵に同情した店主が施してくれた物だ。
「……拒絶された。此岸のルールは、時に物理法則よりも過酷だ」
アスファルトの照り返しが、容赦なく鎖を熱していく。
探偵は力なく歩き出した。
その背中は、世界の終焉を阻止する探偵というよりは、目当ての駄菓子を買い損ねた子どものように寂寥感に満ちていた。
陽炎の向こうに、見覚えのある公園の緑が見えてくる。
そこで彼は、見覚えのあるシルエットを捉えた。
◇
「何やってるんですか、探偵さん」
声をかけると、探偵さんはこれ以上はないほど、肩を落として見せた。夏休み、お気にの私服で買い物帰りのバッグを抱えた私を、彼は恨めしそうな目で見上げる。
「ワトソンくん……聞いてくれたまえ。僕は今、平和という名の湯屋から、平和的に追放されたのだよ」
「当たり前でしょ。その鎖、服の上からでもわかるのに、裸になったらただの事案ですよ。大体、ワトソンって呼ぶのやめてくださいってば。そんなにホームズが好きなんですか?」
私は思い出す。
あれは出会って、探偵さんと契約をしたしばらくした後のことだ。
「聞いてくれ、ワトソン君! 僕はついにシャーロック・ホームズを全巻読破したよ!」
公園のベンチで再会した彼は、どこか誇らしげに胸を張っていた。
区立図書館で一気読みしたんだそうだ。
あそこなら冷房も効いているしさぞ快適だったんだろうな。
「分かったよ、ワトソン君。あの男は、私に非常によく似ているんだ」
「……一日で全部読んだんですか?」
「ああ。彼は化学薬品を愛し、バイオリンを弾き、僕はパッキーを愛し、鎖を鳴らす。本質は同じだ。ただ一つ、彼に足りないのは超常現象に伴う圧倒的な暴力への備えだな」
「いや、そういう話じゃないと思うんですけど……」
頭を振って過去回想から今に回帰する。
そう、あの日以来、探偵さんは時々私のことをワトソン君呼ばわりするのだ。いや、そういったのは私だけどさぁ!
あんまり言われると、君頭悪いねって言われてる気がするよね!
「――それより暑いのだ、ワトソン君。知っているかい? 黒は太陽熱をもっとも吸収しやすい色で、私の全身をほっこりと蒸し上げようとするのだよ」
作り物めいた台詞にイラッとする。
この人、存外影響されやすい人なのかも知れない。
いいからコートを脱げ!
もう何度目になるかはわからない突っ込みを脳裏に思い浮かべる。
そう、何度も何度も言ったのだ、既に。
だが彼は頑として普段そのコートを脱ごうとはしないのだ。
本当に何か理由でもあるのかな? 願をかけてるとか?
――もう……死なれても困るし。
私は大きな溜息をついて、彼を西口のグローバルリングへ連れて行く。そう、ここは夏の間、中央に大きな噴水が吹き出していて子供たちの水遊びの場所になっているのだ!!
「ほら。これなら無料ですし、出入り禁止にもなりませんから」
「おお……恵みの雨だね」
探偵さんは膝をつくと、広場の中央から垂直に吹き出している水の柱に身を躍らせた。
「ちょっと水量が足りないかな?」
そう呟くと探偵さんは、とんとん、と軽く地面をつま先で蹴る。
――と。
どぉーーーーーん!!!
凄まじい勢いで、水が天に向かって吹き上がった。
「な、何したんですっ!?」
「え、いや、ちょっと超常の力を……」
「こんなことでそんな力を使わないでくださいっ!!!」
天に届くほどの勢いで噴き出した水が、グローバルリングを越えた辺りで反転し、彼の頭から服の隙間へと、勢いよく流れ込む。
ジャブジャブどころか、バシャバシャと音を立てて水を浴びるその姿に、私は思わず呆気に取られた。
けれど、濡れた前髪を無造作にかき上げた彼の横顔が、陽光に透けて見えたとき。
ドクン、と心臓が跳ねた。
滴る水滴が首筋を伝って、服の隙間に吸い込まれていく。
不意に目が合う。
透き通った瞳が、宝石みたいにキラキラと輝いていて。
……え。
ちょっと待って。私、今、ときめいた?
いやいや、違う。これは暑さのせいだ。あるいは、捨て犬が意外と可愛かったときに感じる保護欲だ。絶対にそうだ。
「ワトソン君、素晴らしいよ。水分子が因果の熱を奪っていく。これで僕の演算能力も正常化するね。君も一緒にどうだい? そのままじゃ、熱中症になってしまうよ?」
ほら、口を開けばこれだ。
私は慌てて視線を逸らし、頬が熱くなるのを隠した。
「遠慮します! 女子高生に何言ってるんです! でも、何言ってるかさっぱりですけど、良かったですね。あ、顔拭くタオル、これ使ってください……って何です、その手ぬぐい?」
「ああ、これは銭湯の店主殿のプレゼントなんだ。……だけど、ワトソン君。最近の東京の水は、少しばかり、味が濃いとは思わないかな?」
「味? ……さあ。カルキ臭いのはいつものことですし。それより、早く拭かないと風邪引きますよ。夏風邪はバカが引くって言いますから」
自分の心臓の音を振り切るように、私は早足で歩き出した。
顔が熱い。やっぱり、今日の池袋は暑すぎる。
そんな私の背後で、嫌な予感のする音が響いた。
――ブルブルブルブルッ!
「きゃっ!? ちょっと、何するんですか!」
振り返ると、そこには頭を勢いよく振って、全身の水を撒き散らす探偵さんの姿があった。
犬だ。水浴びをした後の、大型犬そのものだ。
「ふぅ。これで体の芯まで冷却が完了したよ」
満足げに胸を張る探偵さん。
対する私は、お気に入りのTシャツからスカートまで、飛んできた水飛沫でびしょ濡れになっていた。
「……最低。私のときめきを返してくださいよ、このバカ犬!」
「おや、ワトソン君。顔が赤いよ。やはり熱中症かな?」
「うるさい! もう、知らない!」
私は彼を置き去りにして、全力で駆け出した。
胸の奥に産まれた小さな「ときめき」さえ、今は怒りと恥ずかしさで、綺麗に忘れてしまうことができたような、そんな気がする夏の午後だった。
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