Chapter 3 Contract 契約

第10話 三日目の朝

 目覚ましが鳴る。

 重い瞼を開けると、天井が見えた。


(……あの人……)


 胸が、どくん、と跳ねる。

 探偵さんの腕の感触。

 お姫様抱っこされたときの体温。

 常軌を逸した身体能力――


(……って、私、何考えてるの……!)


 顔が熱くなる。

 慌てて体を起こすと、後頭部がずきんと痛む。

 腕には、かすり傷。

 パジャマの裾が破れてる。


(……そうだ……千晶ちゃん……)


 胸のドキドキが、一気に冷える。

 昨夜のことが、フラッシュバックする。

 黒い影。

 探偵さん。

 そして――


(……千晶ちゃん……)


 胸が、ぎゅっと痛む。

 時計を見る。

 いつもより30分遅い。


「やば……遅刻する……!」


 慌てて着替えて、家を飛び出した。



 駅前で、サヤカと合流した。


「おはよー、真弓」


「おはよ……」


 サヤカが、私の顔をじっと見た。


「……真弓、顔色悪いよ?」


「え、そう?」


「うん。目の下にクマあるし……寝不足?」


「ちょっと……夢見ちゃって……」


「また悪夢? 最近多いよね」


 サヤカが心配そうに眉を寄せる。


「大丈夫? 保健室行く?」


「大丈夫、大丈夫。ちょっと寝不足なだけだから」


 本当のことは、言えない。

 夢のこと。

 真夜中に一人で出歩いたこと。

 黒い影に襲われたこと。

 探偵さんに助けられたこと。

 ――全部、言えない。


「……真弓?」


「ん?」


「ほんとに大丈夫? なんか……元気ないよ?」


 サヤカの声が、優しい。


「……うん。大丈夫」


 私は無理やり笑顔を作った。


「ちょっと疲れてるだけ。大丈夫だから」


「……そう。無理しないでね」


 サヤカは、それ以上追及しなかった。

 そういうところが、サヤカの優しさだ。



 学校に着くと、いつもと違う空気を感じた。

 教室の前で、生徒たちがひそひそ話している。


「聞いた?」

「まじで?」

「やばくない?」


(……何……?)


 胸騒ぎがする。

 嫌な予感。


 私とサヤカは、顔を見合わせた。


「……何かあったのかな……」


「……分かんない……」


 教室の扉を開ける。

 そしてその日も一見すると、普段と変わらないような一日がはじまった。いえはじまって?

 しかし、そんな思いは、すぐに粉砕されることになるのだけれど。


 ――休み時間。

 私は、意を決して梓さんの席に向かった。


(聞かなきゃ……夢のこと……)


 心臓がバクバク鳴る。

 でも、知りたい。


「あ、あの……梓さん」


「……虚木真弓さん」


 梓さんが、静かにこちらを見た。


「昨日の夜……夢、見たんです」


「夢?」


「その……変な夢で……梓さんが、弓を持ってて……」


 梓さんの目が、一瞬だけ細められた。


「……そう」


「あの……それって……」


「気をつけて、虚木真弓さん」


「え……?」


「あなたは、見えてしまうのね。

 それは、とても危ないことだから」


 梓さんはそれだけ言うと、また本を開いた。


(……見えてしまう……?)


 どういうこと?

 夢じゃなかったってこと?


 混乱したまま、席に戻る。


 そして――

 その日の午後から、梓さんへのいじめが始まった。


 そのきっかけは何だったんだろう。

 ほんとに、大したことじゃなかった気がする。


 だって梓さん、別に何かしたわけじゃないし。

 いきなりクラスの空気を悪くするような失言もしてないし。

 授業中に先生へ噛みついたとかでもないし。

 むしろ、あの人、ずっと静かで、

 誰かとぶつかる隙すらなかったんだよ。


 なのに――午後にはもう、なんかあの子ムカつくよね、みたいな空気になっていた。


 原因は多分……いや、ほんと多分なんだけど、今朝のホームルームで起きた、たった一つのそれだけのこと。


 先生がプリントを配って、美咲さんがそれを床に落として、拾おうともしなくて、でも梓さんがすっと拾って渡した時。


 あの時の美咲さんの顔。

 あれだと思う。


 たぶん、あの一瞬だった。


(あー……やばいやつだこれ……)


 私の中の危険センサーが、パチンってスイッチ入れたみたいに鳴った。


 でもその瞬間には、まだ誰も何も言わなかったし、まして私に何かできるわけでもなかった。


 ただ――あれが始まりだったんだ。

 今なら、分かる。


 今日の教室は、午後から変な温度だった。

 クーラーは効いてるのに、空気はぬるい。

 人の視線って温度あるんだなって、あの時初めて思った。


「ねえ見た? さっきのあれ」


「やばくない?」


 クラスの女子カースト上位3人組。

 相沢ミサと、その取り巻き二名。


 ミサは背が高くて、スタイルもいい。

 セミロングの髪はサラサラで、メイクも上手い。

 多分、親の金で買ったブランドもののヘアピンが、

 わざとらしくキラキラしてる。


 取り巻きの2人は、

 ミサのコピーみたいに髪型も仕草も真似してる。


 なんかもう、声にトゲが刺さってるんですよ。


 私はプリントを出しながら聞こえないふりをしたけど、

 耳は勝手に拾っちゃう。そういう仕様なんです、私。


「ていうかさ、なんか気取ってない?」

「わかる。あれ絶対ウチらのことバカにしてるよね」


(いやいやいや、何もしてないじゃん……。昨日プリント拾ってくれただけじゃん……ていうか拾えよ……)


 心の中で全力ツッコミするけど、もちろん言えません。

 だって私、勇気とか戦闘力とかそういうステータス全部初期値ですし。


 そして――

 標的にされてる本人、梓さんはというと。


 席に座って、真っ直ぐ黒板を見てる。

 表情ゼロ。

 眉ひとつ動かない。

 なんなら呼吸してるのかも怪しいくらい静か。


 まるで何かを待っているような、そんな目をしていた。

 いじめられても動じない――というより、

 最初から覚悟していたような静けさ。

 

 それが逆に、クラスメイトを苛立たせているように見えた。


(わ、わ……これ、もっと悪くなる……)


 思った通りに、女子たちが梓さんの前で口を開き始める。


「田舎帰れよって感じなんだけどー」


「昨日の挨拶のやつもさ、なんか嘘っぽくなかった?」


(いや、めっちゃ丁寧だったよ……?

 むしろあなたたちより礼儀正しかったよ……?)


 そういうのも全部言えずに、私はただプリントの角をいじる。


 ――その時。


「ちょっと静かにしよ?」


 柳田先生が入ってきた。

 声は優しいけど、瞳の奥にちゃんと怒ってるのが分かるやつ。


「今朝のこと、私は見てたからね。人に拾わせるのはよくないよ?」


「……はーい……」

「……すみませーん……」


 完全にやる気ゼロの謝罪。

 はい、これは絶対に反省してないやつです。

 秒で分かる。


 梓さんはというと、やっぱり無反応。

 ほんとに「気にしてない」って感じだった。


(それがまた……火に油ってやつだよね……)


 私の胸に、いやーな予感が広がる。

 これ絶対終わらない。むしろこれから始まるタイプのやつだ。


 案の定、休み時間になった瞬間。


「ねえ矢野さんってさあ」

「昨日のニュースのあれ、知ってる?」

「うちらの駅の近くで失踪あったじゃん。関係あったりして」


「ちょっと、それどういう……」と止めたいけど、声が出ない。

 喉がぎゅっと縮まる。心臓だけがバンバンうるさい。


 梓さんは……

 本当に何も言わない。

 ただ黒板を見て、ペンを動かすでもなく、

 呼吸の音すらしないみたいに静か。


(わ、わ……これ、もっと悪くなる……)


 私は机の端を握りしめて、ただそれを見ていた。

 止められない。止められない自分が一番嫌い。


 そんな私を横目で見て、サヤカが小声で言う。


「真弓、顔色やばいよ……」


「……うん……分かってる……」


 でも、どうにもならない。


 そして放課後――

 最悪は、本当にそこからだった。

 翌日の教室は、妙にざわついていた。

 夏の日差しがカーテンから差し込み、机の上を白く照らしているのに、空気だけが濁っているように感じた。


「ほんと態度悪い……」

「……ムカツク」


 耳に入れたくない声が、背後から聞こえてくる。


(……梓さん……)


 視線を向けると、教室の中央で梓さんを取り囲むように三人の女子が立っていた。

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