第18話 青の妖精、影に触れられる

 その朝、セリアがギルドへ向かう足取りは、いつもより慎重だった。

 黒アレスと別れた直後から、胸の奥で小さな寒気が揺れ続けている。


(……声……まだ、耳に、残ってる……)


 誰のものかもわからない囁き。

 優しくもなく、冷たくもなく、ただ皮膚の裏側に落ちてくるような声。


(黒さまの声じゃ……ない……気持ち悪い……)


 その一点だけが、彼女の心臓を締めつけた。



 ギルド《グランド・タスク》は、朝なのに、やけに静かだった。


「あれ、セリアさん……顔色悪くないですか?」

 ミランダが心配そうに眉をひそめる。


「……だいじょうぶ……」


「だいじょうぶじゃない顔してますよ!?」

 カリンが慌てて身を乗り出す。


「……影……ついてる?」

 エステルがぽつりと言った。


「え?」

 三人が同時に振り返る。


 エステルはセリアの肩越し、背後の空気をじっと見ていた。


「……セリアさん、見られてる?気配は……私には読み取れないけど」


 セリアは全身が固まった。


(気のせいじゃ……なかった……)


 アレスがギルドに入ってくるや否や、三人娘が説明した。


「セリアが“つけられてる”って……?」


 アレスは一瞬で表情が変わり、すぐにセリアの横に立った。


「今日は俺が近くにいる。絶対に一人になるな」


「……はい……」


 セリアは小さくうなずいた。


 だが、その瞬間だった。


 “すっ……と何かが抜ける音”が、耳の奥で響いた。


(……え……?)


 アレスも三人娘も気づかない。

 店内の冒険者たちも気づかない。

 けれど──セリアだけが、感じてしまった。


 首筋に冷たい指が触れた。


「……っ!」


 肩が跳ねる。

 アレスが即座に剣の柄へ手を伸ばした。


「どうした!」


「……だれかが……触った……」


「ここには誰もいない」


 アレスは周囲に魔力を散らして探索するが、何も引っかからない。


(……黒さまの時と……“似てる”…)

(影……気配を完全に……消してる……でも……違う……)


 黒アレスと似た雰囲気。

 けれど冷たさがまったく違う。


 黒アレスの影は柔らかい。

 けれど、これは──


「……捕食する影……?」


 うまく説明できないが、セリアなりの感想だった。


 彼女の言葉に、アレスの眉が動いた。


「セリア。今日は中止だ。黒の悪魔のところへ帰れ」


「……黒さまに……迷惑……」


「迷惑なんかじゃない」


 アレスは強い声で断じた。


「“お前が狙われてること”を一番気にするのは、黒の悪魔のはずだ。……必ず伝えておけ」


 セリアは胸が熱くなった。


(黒さま……心配するかな……。わたし……弱いから……)


 恐怖と、申し訳なさと、そして──

 黒アレスに“必要とされている”という感情が、複雑に混ざっていく。



 夕刻。黒の巣へ戻る途中。

 井戸の影が長く伸びる時間帯。


 セリアが井戸へ向かう足を止めた。


(……いる……)


 影の端で、ひとつの“気配”がゆらぎ、形を取る。


 淡い金色の瞳。


 それは、夕陽の最後の光を集めるように輝いていた。

 現れた男は穏やかな笑みを浮かべ、まるで旧友に挨拶するように軽く頭を下げた。


「こんばんは、セリアさん」


 声は柔らかいのに、底が真っ黒に空いている。


「……な……まえ……呼んだの……あなた……?」


「そうですね。あなたの耳が、よく私を拾ってくれました」


 優しい声だけれど、氷のように冷たい微笑。


「初めまして。“リンド”といいます」


 セリアは一歩後ずさる。


「……黒さまの……敵……?」


「敵、ですか。さて……」

 リンドは目元を細めた。


「あなたを“知りたい”だけですよ」


 影が、足元からセリアへと伸びる。


 触れられたわけではない。

 けれど──冷気が骨の中を這い回る。


「どうして……わたし……なの……?」

 声が震える。


「あなたは“黒の悪魔の隣”にいる。

 だからこそ……価値がある」


 リンドの笑みが深まる。


「その価値は……試したくなるでしょう?」


 影が一気に伸びてくる。


 逃げなきゃ。

 でも足が動かない。

 声も出ない。


(黒さま……黒さま……!)


 次の瞬間。


「──よくないなぁ、そういうのは〜」


 ふわり、と風が割れた。


 黒アレスの声が、セリアの背後から落ちてきた。


 リンドが初めて表情を変える。


「……ああ。“戻って”きてしまいましたか」


 黒アレスの瞳は笑っていた。

 けれど、その笑みを覆う影は──冷たく、深かった。


「リンドくん〜♪ セリアに手を出すのは……よくないよ〜?」


 空気が一瞬で凍りつく。


 “影そのものが硬質化したような圧”が、井戸の周囲に満ちている。


 セリアは足がすくみ、黒アレスの背中に縋りついた。

 黒アレスは軽く手を伸ばし、セリアの肩に触れて「下がってて〜♪」と優しく押す。


 だが、その声音の奥は氷の刃だった。



「……黒の悪魔さん。あなたはいつも……“ひとり”で動くものと思っていましたが」


 リンドがひとつ、指を鳴らす。

 影が地面で揺らぎ、花が咲くように広がっていく。


 黒アレスは肩をすくめた。


「ん〜? ひとりのほうが楽なんだけどね〜?

 でもセリアは〜……ほっとくと死にそうだから〜」


「なるほど。弱点を増やした、と」


「ちがうちがう〜。“大事にしたい”ってだけ〜♪」


 言葉は軽いが、空間の魔力密度が変わった。


 黒アレスの黒いマントがふわりと浮き、周囲の影が吸い寄せられるように集まる。


 沈黙のあと、リンドはコートの裾を少し持ち上げ、丁寧に一礼した。


「……では、その“情”がどれほどの強さに変わったか。

 少しだけ、拝見しましょう」



 瞬間、世界が“切り替わった”。


 セリアの目には何も見えない。

 黒アレスとリンドが“消えたように”しか感じられない。


(え……? どこ……?)


 次の瞬間──


 ガチィン!!


 金属がぶつかったような音とともに、視界の端で火花が散った。


 黒アレスの腕に巻きつく黒縄が、リンドの影刃を受け止めている。


「おぉ〜。やるね〜♪ 影を刃にするのは得意なの〜?」


「あなたほどでは。私は“削る”のが得意です」


 リンドが指を動かすと、影刃が細かく震え、黒縄を削り始めた。


 黒アレスは片手をぱん、と叩いた。


「俺は“絡める”のが得意なんだよ〜?」


 黒縄が生き物のように増殖し、リンドの影を逆に捕縛しようと広がる。


 影と影が絡み合い、ねじれ、火花すら生むほどぶつかり合う。



 セリアにはただ“光が歪み音が震える”だけの世界。


 でも──ひとつだけわかった。


(黒さま……攻めてない……

 わたしを庇いながら……戦ってる……)


 黒アレスは常にセリアを背後に置き、絶対に線を越えさせない位置取りをしていた。


「ねぇリンドくん〜

 セリアに触ったの……よくなかったよ〜?」


「試しただけです。壊すつもりはありません」


「触った時点でアウトなんだよ〜♪」


 黒アレスがマントを大きく広げた。

 それは、黒い夜空そのものを振り下ろしたような一撃。


 リンドの足元の影が反応し、彼の体が後方へ滑る。


 接触の一瞬。

 石畳が“線”で切れ、粉になって崩れた。


「……これは……」


 リンドが初めて、小さく息を呑む。


「あなた、前より強くなってますねぇ……

 “守りたいものができると弱くなる”と思っていたのですが」


「ん〜? 俺は違うよ〜」


 黒アレスの影が、井戸の底からでも這い上がるような深みで広がる。


「守りたい子ができたら〜

 “敵を全部壊すだけ”だから〜♪」


 リンドの瞳が細くなる。


「やはり……あなた、危険ですね」


「知ってる〜♪ 危険だよ〜?

 でもね〜♪……俺より危険なのは“怒った俺”だよ〜?」



 次の瞬間。


 影が弾け、風が逆流し、石壁が抉れる。


 セリアは思わず目を閉じた。


「──今日はご挨拶なので。

ここまでにしておきましょう」


 リンドの背後が裂けるように暗くなり、影が彼を包む。


「黒の悪魔さん。

 あなたの“隣”……やはり価値があるようです」


「だから狙うの〜? 悪い子だね〜?」


「次は……もう少し本気でいただきます」


 影が煙のように散った。



 静寂。


 黒アレスがセリアの肩に手を置く。


「……怖かった〜?」

 その声は先ほどまでの殺意を隠し、優しく揺れる。


 セリアは震える声で答えた。


「……黒さま……守って……くれた……」


「当たり前だよ〜?

 セリアは俺の隣でしょ〜?」


 その一言に、セリアの胸が熱く満たされる。


(黒さまの……隣……

 奪わせない……絶対に……)


 だが──


 戦闘は“完全な決着”には至っていない。リンドは、確実にセリアを狙っている。


 そして黒アレスも薄々理解していた。


(あれは……“本気”じゃなかったな〜)


 次に来るときが、本当の脅威。

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