第18話 青の妖精、影に触れられる
その朝、セリアがギルドへ向かう足取りは、いつもより慎重だった。
黒アレスと別れた直後から、胸の奥で小さな寒気が揺れ続けている。
(……声……まだ、耳に、残ってる……)
誰のものかもわからない囁き。
優しくもなく、冷たくもなく、ただ皮膚の裏側に落ちてくるような声。
(黒さまの声じゃ……ない……気持ち悪い……)
その一点だけが、彼女の心臓を締めつけた。
◆
ギルド《グランド・タスク》は、朝なのに、やけに静かだった。
「あれ、セリアさん……顔色悪くないですか?」
ミランダが心配そうに眉をひそめる。
「……だいじょうぶ……」
「だいじょうぶじゃない顔してますよ!?」
カリンが慌てて身を乗り出す。
「……影……ついてる?」
エステルがぽつりと言った。
「え?」
三人が同時に振り返る。
エステルはセリアの肩越し、背後の空気をじっと見ていた。
「……セリアさん、見られてる?気配は……私には読み取れないけど」
セリアは全身が固まった。
(気のせいじゃ……なかった……)
アレスがギルドに入ってくるや否や、三人娘が説明した。
「セリアが“つけられてる”って……?」
アレスは一瞬で表情が変わり、すぐにセリアの横に立った。
「今日は俺が近くにいる。絶対に一人になるな」
「……はい……」
セリアは小さくうなずいた。
だが、その瞬間だった。
“すっ……と何かが抜ける音”が、耳の奥で響いた。
(……え……?)
アレスも三人娘も気づかない。
店内の冒険者たちも気づかない。
けれど──セリアだけが、感じてしまった。
首筋に冷たい指が触れた。
「……っ!」
肩が跳ねる。
アレスが即座に剣の柄へ手を伸ばした。
「どうした!」
「……だれかが……触った……」
「ここには誰もいない」
アレスは周囲に魔力を散らして探索するが、何も引っかからない。
(……黒さまの時と……“似てる”…)
(影……気配を完全に……消してる……でも……違う……)
黒アレスと似た雰囲気。
けれど冷たさがまったく違う。
黒アレスの影は柔らかい。
けれど、これは──
「……捕食する影……?」
うまく説明できないが、セリアなりの感想だった。
彼女の言葉に、アレスの眉が動いた。
「セリア。今日は中止だ。黒の悪魔のところへ帰れ」
「……黒さまに……迷惑……」
「迷惑なんかじゃない」
アレスは強い声で断じた。
「“お前が狙われてること”を一番気にするのは、黒の悪魔のはずだ。……必ず伝えておけ」
セリアは胸が熱くなった。
(黒さま……心配するかな……。わたし……弱いから……)
恐怖と、申し訳なさと、そして──
黒アレスに“必要とされている”という感情が、複雑に混ざっていく。
◆
夕刻。黒の巣へ戻る途中。
井戸の影が長く伸びる時間帯。
セリアが井戸へ向かう足を止めた。
(……いる……)
影の端で、ひとつの“気配”がゆらぎ、形を取る。
淡い金色の瞳。
それは、夕陽の最後の光を集めるように輝いていた。
現れた男は穏やかな笑みを浮かべ、まるで旧友に挨拶するように軽く頭を下げた。
「こんばんは、セリアさん」
声は柔らかいのに、底が真っ黒に空いている。
「……な……まえ……呼んだの……あなた……?」
「そうですね。あなたの耳が、よく私を拾ってくれました」
優しい声だけれど、氷のように冷たい微笑。
「初めまして。“リンド”といいます」
セリアは一歩後ずさる。
「……黒さまの……敵……?」
「敵、ですか。さて……」
リンドは目元を細めた。
「あなたを“知りたい”だけですよ」
影が、足元からセリアへと伸びる。
触れられたわけではない。
けれど──冷気が骨の中を這い回る。
「どうして……わたし……なの……?」
声が震える。
「あなたは“黒の悪魔の隣”にいる。
だからこそ……価値がある」
リンドの笑みが深まる。
「その価値は……試したくなるでしょう?」
影が一気に伸びてくる。
逃げなきゃ。
でも足が動かない。
声も出ない。
(黒さま……黒さま……!)
次の瞬間。
「──よくないなぁ、そういうのは〜」
ふわり、と風が割れた。
黒アレスの声が、セリアの背後から落ちてきた。
リンドが初めて表情を変える。
「……ああ。“戻って”きてしまいましたか」
黒アレスの瞳は笑っていた。
けれど、その笑みを覆う影は──冷たく、深かった。
「リンドくん〜♪ セリアに手を出すのは……よくないよ〜?」
空気が一瞬で凍りつく。
“影そのものが硬質化したような圧”が、井戸の周囲に満ちている。
セリアは足がすくみ、黒アレスの背中に縋りついた。
黒アレスは軽く手を伸ばし、セリアの肩に触れて「下がってて〜♪」と優しく押す。
だが、その声音の奥は氷の刃だった。
◆
「……黒の悪魔さん。あなたはいつも……“ひとり”で動くものと思っていましたが」
リンドがひとつ、指を鳴らす。
影が地面で揺らぎ、花が咲くように広がっていく。
黒アレスは肩をすくめた。
「ん〜? ひとりのほうが楽なんだけどね〜?
でもセリアは〜……ほっとくと死にそうだから〜」
「なるほど。弱点を増やした、と」
「ちがうちがう〜。“大事にしたい”ってだけ〜♪」
言葉は軽いが、空間の魔力密度が変わった。
黒アレスの黒いマントがふわりと浮き、周囲の影が吸い寄せられるように集まる。
沈黙のあと、リンドはコートの裾を少し持ち上げ、丁寧に一礼した。
「……では、その“情”がどれほどの強さに変わったか。
少しだけ、拝見しましょう」
◆
瞬間、世界が“切り替わった”。
セリアの目には何も見えない。
黒アレスとリンドが“消えたように”しか感じられない。
(え……? どこ……?)
次の瞬間──
ガチィン!!
金属がぶつかったような音とともに、視界の端で火花が散った。
黒アレスの腕に巻きつく黒縄が、リンドの影刃を受け止めている。
「おぉ〜。やるね〜♪ 影を刃にするのは得意なの〜?」
「あなたほどでは。私は“削る”のが得意です」
リンドが指を動かすと、影刃が細かく震え、黒縄を削り始めた。
黒アレスは片手をぱん、と叩いた。
「俺は“絡める”のが得意なんだよ〜?」
黒縄が生き物のように増殖し、リンドの影を逆に捕縛しようと広がる。
影と影が絡み合い、ねじれ、火花すら生むほどぶつかり合う。
◆
セリアにはただ“光が歪み音が震える”だけの世界。
でも──ひとつだけわかった。
(黒さま……攻めてない……
わたしを庇いながら……戦ってる……)
黒アレスは常にセリアを背後に置き、絶対に線を越えさせない位置取りをしていた。
「ねぇリンドくん〜
セリアに触ったの……よくなかったよ〜?」
「試しただけです。壊すつもりはありません」
「触った時点でアウトなんだよ〜♪」
黒アレスがマントを大きく広げた。
それは、黒い夜空そのものを振り下ろしたような一撃。
リンドの足元の影が反応し、彼の体が後方へ滑る。
接触の一瞬。
石畳が“線”で切れ、粉になって崩れた。
「……これは……」
リンドが初めて、小さく息を呑む。
「あなた、前より強くなってますねぇ……
“守りたいものができると弱くなる”と思っていたのですが」
「ん〜? 俺は違うよ〜」
黒アレスの影が、井戸の底からでも這い上がるような深みで広がる。
「守りたい子ができたら〜
“敵を全部壊すだけ”だから〜♪」
リンドの瞳が細くなる。
「やはり……あなた、危険ですね」
「知ってる〜♪ 危険だよ〜?
でもね〜♪……俺より危険なのは“怒った俺”だよ〜?」
◆
次の瞬間。
影が弾け、風が逆流し、石壁が抉れる。
セリアは思わず目を閉じた。
「──今日はご挨拶なので。
ここまでにしておきましょう」
リンドの背後が裂けるように暗くなり、影が彼を包む。
「黒の悪魔さん。
あなたの“隣”……やはり価値があるようです」
「だから狙うの〜? 悪い子だね〜?」
「次は……もう少し本気でいただきます」
影が煙のように散った。
◆
静寂。
黒アレスがセリアの肩に手を置く。
「……怖かった〜?」
その声は先ほどまでの殺意を隠し、優しく揺れる。
セリアは震える声で答えた。
「……黒さま……守って……くれた……」
「当たり前だよ〜?
セリアは俺の隣でしょ〜?」
その一言に、セリアの胸が熱く満たされる。
(黒さまの……隣……
奪わせない……絶対に……)
だが──
戦闘は“完全な決着”には至っていない。リンドは、確実にセリアを狙っている。
そして黒アレスも薄々理解していた。
(あれは……“本気”じゃなかったな〜)
次に来るときが、本当の脅威。
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