【第8節】『森の少女(3)』
少女は、木々の影から一歩も動かなかった。
銀灰色の髪が、わずかな風に揺れている。肌は日に焼けておらず、白く透き通るようだった。身にまとっているのは、粗末な布を
歳は——十五、六といったところか。
小柄で
けれど、その頭頂部からは三角形の獣の耳が覗き、背後ではふさふさとした銀灰色の
フィーナ。
五年前の悲劇を生き延びた、
ユーリアは、その姿に言葉を失っていた。
獣人を見るのは、初めてだった。資料で読んだことはある。絵を見たこともある。けれど、実際に目の前にすると——想像とは全く違った。
化け物でも、獣でもない。
ただの少女だった。
傷つき、
「……人間。なぜ、ここに来た」
フィーナが、再び問いかけた。
その声は低く、硬かった。警戒心を隠そうともしていない。
「こんにちは」
リーゼロッテが、穏やかに応じた。
「私はリーゼロッテ。こっちはユーリア。怪しい者じゃないよ」
「……嘘だ」
フィーナの声が、さらに冷たくなった。
「人間は、いつも嘘をつく」
「嘘じゃないよ。本当に——」
「黙れ」
鋭い声が、リーゼロッテの言葉を遮った。
フィーナの背後で、
「お前たちが何者か、ルドが教えてくれた」
フィーナは言った。
「銀髪の女は、普通の人間じゃない。魔法の匂いがする。強い魔法使いだ」
リーゼロッテを見る目には、警戒の中にわずかな興味が混じっていた。
「そして——」
フィーナの視線が、ユーリアに移った。
その瞳が、さらに冷たくなる。
「金髪の女は、『狩る者』の匂いがする」
「狩る者……?」
ユーリアは、思わず声を上げた。
「私は、何も——」
「お前の腰にあるもの。それは、獣を殺すための道具だろう」
確かに、
「私は、あなたを傷つけるつもりなど——」
「嘘だ」
フィーナが、吐き捨てるように言った。
「人間は、いつもそう言う。『傷つけるつもりはない』『敵じゃない』『信じてくれ』——そう言いながら、私たちを殺した」
その声には、深い
「五年前も、そうだった。人間たちは笑いながらやってきた。『話し合おう』と言いながら。そして——村を焼いた。父さんを殺した。母さんを殺した。みんな、みんな——」
声が
怒りなのか、悲しみなのか。おそらく、その両方だろう。
「だから、信じない。人間の言葉は、絶対に信じない」
ユーリアは、何も言えなかった。
反論したかった。自分は違う、自分はあなたを傷つけるつもりはない、と。
けれど——彼女の言葉を、否定できなかった。
昨夜、村で聞いた話を思い出す。獣人を「化け物」と呼び、「皆殺しにすべきだった」と言っていた男たち。彼らにとって、獣人を殺すことは「正義」だった。
フィーナの言う通りだ。
人間は、嘘をつく。「敵じゃない」と言いながら、平気で殺す。
そんな人間を、どうして信じられるだろう。
「……ごめんなさい」
気がつけば、そう
「えっ……?」
フィーナが、怪訝そうな顔をした。
「謝って、どうなる。お前が何をしたわけでもないだろう」
「でも——」
言葉が詰まった。
自分が直接手を下したわけではない。五年前の
けれど——自分は〝人間〟だ。
フィーナにとって、人間は全て敵なのだ。五年前に全てを奪った、憎むべき存在。
その〝人間〟の一人として、謝らずにはいられなかった。
「……変な奴」
フィーナが、ぽつりと呟いた。
その声には、先ほどまでの敵意とは少し違う響きがあった。困惑、あるいは——戸惑い。
「私に謝る人間なんて、初めてだ」
「……そう、ですか」
「だからって、信じるわけじゃない」
フィーナは、すぐに表情を引き締めた。
「帰れ。ここはお前たちの来る場所じゃない」
「待って」
リーゼロッテが、一歩前に出た。
フィーナの体が
「それ以上近づくな」
「近づかないよ。ただ、一つだけ聞かせて」
リーゼロッテは、足を止めた。
そして——フィーナの胸元を見つめた。
「その首飾り。綺麗な緑色の宝石ね」
フィーナの手が、反射的に胸元へ伸びた。
そこには、銀の鎖に繋がれた緑色の宝石があった。深い森を思わせる、透き通った緑。宝石の表面には、複雑な紋様が刻まれている。
――『ロナンの涙』。
一級アストレア。動物や植物との意思疎通能力を与える、魔法道具。
ユーリアは、息を呑んだ。
あれが——任務の目標。回収すべきアストレア。
「……触るな」
フィーナが、首飾りを握りしめた。
「これは、私のものだ。お母さんが、最後にくれたものだ」
「知ってる」
リーゼロッテは、穏やかに言った。
「『ロナンの涙』でしょう? それがあるから、あなたは動物たちと話ができる」
フィーナの目が、見開かれた。
「なぜ、それを……」
「私は
リーゼロッテは微笑んだ。
「大丈夫。奪いに来たわけじゃないわ」
「嘘だ」
フィーナが叫んだ。
「人間は、いつも奪いに来る。五年前も、そうだった。『ロナンの涙』を
言葉が途切れた。
フィーナは、自分が言い過ぎたことに気づいたように、口を閉ざした。
「五年前も……?」
リーゼロッテが、静かに問いかけた。
「あなたの集落が襲われたのは、『ロナンの涙』が原因だったの?」
フィーナは答えなかった。けれど、その沈黙が答えだった。
「……そう」
リーゼロッテの声が、低くなった。
「やっぱり、そういうことだったのね」
「どういう、ことですか」
ユーリアが問うと、リーゼロッテは振り返らずに答えた。
「五年前の虐殺。ただの
「そんな……」
「証拠はないわ。でも、状況を考えれば自然な推測よ。辺境の小さな集落を、わざわざ焼き払う理由なんて、普通はない。でも、一級アストレアがあったなら——話は別」
ユーリアは、言葉を失った。
つまり——フィーナの家族を奪ったのは、ただの差別や恐怖ではなく、『ロナンの涙』を手に入れようとした何者かの陰謀だった、ということか。
「黙れ」
フィーナが、震える声で言った。
「それ以上、喋るな」
「……ごめんね。辛いことを思い出させた」
リーゼロッテは、静かに頭を下げた。
「でも、だからこそ——私はあなたを守りたいの」
「守る……?」
「そう。五年前と同じことが、また起ころうとしてる。『ロナンの涙』を狙う者がいる。今度は——
フィーナの表情が、変わった。
警戒と敵意はそのままだったが、そこに別の感情が混じった。
動揺。そして——恐怖。
「……知ってる」
小さな声で、フィーナは言った。
「最近、森に変な人間が入ってきてる。罠を仕掛けたり、動物を捕まえたり」
「それよ。その連中が——あなたを狙ってる」
「……っ」
フィーナが、首飾りを強く握りしめた。
「私たちは、あなたの敵じゃない」
リーゼロッテは、真っ直ぐにフィーナを見つめた。
「信じてほしいとは言わない。でも——私たちは、あなたを守りに来た。それだけは、本当よ」
沈黙が流れた。森の空気が、張り詰めている。
フィーナは何も言わず、ただリーゼロッテを見つめていた。
やがて——狼のルドが、小さく鳴いた。
フィーナが、ルドの方を見る。二人の間で、何かが交わされたようだった。
言葉ではない、もっと直接的な何か。
「……ルドが言ってる」
フィーナが、ぽつりと言った。
「銀髪の女は、嘘をついていない、って」
リーゼロッテが、小さく微笑んだ。
「ありがとう、ルド。信じてくれて」
狼は、ふん、と鼻を鳴らした。けれど、敵意は薄れていた。
「でも——」
フィーナの視線が、再びユーリアに向いた。
「そっちの金髪は、分からないって」
ユーリアは、息を呑んだ。フィーナの琥珀色の瞳は、まだ冷たかった。
「お前は、まだ信用できない」
「……っ」
「ルドは、お前の心が『揺れてる』って言ってる。迷ってる。何かを隠してる」
言葉が、胸に突き刺さった。
隠している——それは、任務のことだ。
ユーリアの本来の任務は、『ロナンの涙』の回収。リーゼロッテは「奪わない」と言っているが、魔法省の命令は違う。
その矛盾が、心の中で渦巻いていた。
フィーナには——いや、動物たちには、それが見えているのだ。
「……否定、しません」
ユーリアは、
「私は……まだ、迷っています。何が正しいのか、分からないのです」
「正直だな」
フィーナが、意外そうな顔をした。
「嘘をつかないのは、いいことだ。でも——」
その目が、再び冷たくなる。
「迷ってる奴は、信用できない。いつ裏切るか、分からないから」
返す言葉がなかった。フィーナの言うことは、正しかった。
迷っている自分は——彼女にとって、
「とりあえず——」
フィーナが、
「ついてきて。話は、もう少し奥で聞く」
「いいの?」
リーゼロッテが、少し驚いたように聞いた。
「信用したわけじゃない。ただ——」
フィーナは振り返り、二人を見た。
「密猟者のことは、本当なら知りたい。それだけだ」
そう言って、森の奥へと歩き出した。
ルドが、その後に続く。他の動物たちも、音もなく姿を消していった。
残されたのは、リーゼロッテとユーリアだけ。
「行きましょう、子犬ちゃん」
リーゼロッテが、歩き出した。
「一歩前進よ。少なくとも、話は聞いてもらえる」
「……はい」
ユーリアは、その後に続いた。
胸の中で、フィーナの言葉が反響していた。
——迷ってる奴は、信用できない。
その通りだと思った。
自分は、まだ迷っている。何が正しいのか、何を守るべきなのか。
けれど——
迷っているからこそ、見なければならないものがある。
自分の目で見て、自分で考える。
リーゼロッテの言葉が、頭の中で
今はまだ、答えが出なくてもいい。
まずは——この少女のことを、知ろう。
そう心に決めて、ユーリアは森の奥へと足を踏み出した。
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【長編】アストレア・レコード ~星詠みの魔法道具~ 浅沼まど @Mado_Asanuma
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