【第2節】『出会い(2)』
馬車は、街道を東へと進んでいた。
二頭立ての小さな馬車。
窓の外を、のどかな田園風景が流れていく。
麦畑が
けれど、ユーリアの心は晴れなかった。
向かいの座席では、リーゼロッテが窓枠に
——この人は、任務だということをわかっているのだろうか。
ユーリアは背筋を伸ばしたまま、膝の上で手を組んでいた。姿勢を
沈黙が続いていた。
出発してから、もう一時間は経っただろうか。リーゼロッテは特に会話を求めてこないし、ユーリアから話しかける理由もない。任務上の同行者であって、友人ではないのだから。
と、リーゼロッテが
座席の
——お菓子だった。
小さな紙袋に入った、色とりどりの砂糖菓子。リーゼロッテはそれを一つ
「んー、美味しい!」
幸せそうに目を細める。ユーリアは
「……あの、リーゼロッテ様」
「リーゼでいいって言ったでしょ?」
「……リーゼロッテ様。任務中にお菓子を召し上がるのは、いかがなものかと」
「えー、なんで?」
リーゼロッテは
「お腹が空いたら食べる。
「当たり前かどうかではなく、規律の問題です。任務中は——」
「任務中だからって、お菓子を食べちゃいけない規則なんてあるの?」
「それは……」
言葉に
確かに、そんな規則はない。任務中の飲食を禁じる
リーゼロッテは、にやりと笑った。
「ほら、ないでしょ? 子犬ちゃんは規則が大好きなくせに、規則にないことまで自分で縛ってるのね~」
「自分で
「じゃあ、はい」
リーゼロッテが紙袋を差し出してきた。
「一つどうぞ。王都で評判のお店のやつなの。美味しいよ」
「いえ、結構です」
「
「
「食べないと、ずっとこうしてるからね」
紙袋を持った手が、ユーリアの目の前で止まったまま動かない。
リーゼロッテは微笑んでいる。穏やかな、けれど有無を言わせない笑顔。
「……では、一つだけ」
仕方なく手を伸ばし、砂糖菓子を一つ
——美味しい。
思わず、そう思ってしまった。
「ね? 美味しいでしょ?」
リーゼロッテが得意げに笑う。
ユーリアは無言で
「子犬ちゃんはさ」
リーゼロッテが言った。
「そんなに肩に力入れてると、疲れちゃうよ」
「……別に、力など入れていません」
「入れてるよ。見てるこっちが
リーゼロッテは自分も砂糖菓子を一つ口に入れ、窓の外に視線を戻した。
「森までまだ二日もあるのに、そんな調子で持つの? 緊張しすぎて倒れたら、
「倒れたりしません。私は——」
「真面目だから? 規則正しいから?」
言葉を先回りされた。ユーリアは口を
「……あなたには、わからないでしょう」
気がつけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
「あなたのように才能に恵まれた人には。努力しなければ、認められない人間の気持ちなんて」
言ってから、しまった、と思った。
任務中に、感情的なことを言うべきではない。相手は監視対象だ。個人的な感情を見せるなど、
けれど、リーゼロッテは怒らなかった。ただ静かに、ユーリアを見つめていた。
「……そうかもね」
やがて、リーゼロッテは言った。
「私には、わからないのかも。子犬ちゃんの気持ちは」
その声には、からかいの色はなかった。
ただ穏やかに、受け止めるような響きがあった。
「ねえ、子犬ちゃん」
「……何ですか」
「どうして監察官になったの?」
唐突な問いだった。
ユーリアは一瞬、答えを
「……
「うん。グレイスから聞いた」
「なら、話は早いです」
ユーリアは窓の外に視線を向けた。
麦畑が流れていく。金色の波が、風に揺れている。
「私の実家は、かつては名のある貴族でした。けれど、父の代で
言葉を切った。古い記憶が、胸の奥で疼く。
「……家族は散り散りになりました。姉たちはそれぞれ
「それで、自分の力で生きることにしたの?」
「はい」
ユーリアは
「私には、特別な才能はありません。魔法の適性も、戦闘の素質も、人並み程度。でも——真面目に努力することだけは、できました」
「規則を守り、職務に励み、誰よりも真面目に働く。それが、私にできる唯一のことでした。そうすれば、認めてもらえると思った。居場所を作れると思った」
「……だから、規則を守ることが大事なのね」
「はい。規則は——私にとって、生きるための
言葉にすると、改めて実感する。
規則を守ること。それは、ユーリア・ヴァイオレットという人間の存在証明だった。
才能がなくても、
そう信じて、三年間やってきた。
沈黙が降りた。
馬車の車輪が、
「そっか」
やがて、リーゼロッテが言った。
その声は、驚くほど柔らかかった。
「君は、真っ直ぐだね」
「……真っ直ぐ?」
「うん。
ユーリアは顔を上げた。
リーゼロッテは、窓の外を見つめていた。その横顔には、さっきまでのからかいの色はなかった。どこか遠くを見るような、寂しげな表情。
「私には、そんなふうに真っ直ぐ信じられるものがなかったから」
「……リーゼロッテ様?」
「ん、何でもない」
リーゼロッテは首を振り、いつもの軽い調子に戻った。
「子犬ちゃんの話、聞けてよかった。少し、君のことがわかった気がする」
「私のことなど、わかっていただかなくても——」
「わかりたいの。
リーゼロッテが、真っ直ぐにユーリアを見た。
「私はね、子犬ちゃん。仲間のことは知っておきたいの。どんな人で、何を大事にしていて、何のために戦うのか」
「仲間……」
「そう。少なくとも、この任務の間は仲間でしょ?」
仲間。その言葉が、胸の奥で反響した。
この人は——監視対象ではなく、仲間だと言っている。
ユーリアは、どう反応すればいいのかわからなかった。
「……私は、あなたを監視するために来たのですが」
「知ってる」
「それでも、仲間だと?」
「うん」
リーゼロッテは、あっさりと頷いた。
「監視でも何でもいいよ。でも、同じ目的のために動くなら、仲間じゃない? 難しく考えすぎだよ、子犬ちゃんは」
難しく考えすぎ。そうなのだろうか。
ユーリアには、わからなかった。この人の考え方は、自分とはあまりにも違う。
けれど——不思議と、嫌な気持ちはしなかった。
「お菓子、もう一つ食べる?」
リーゼロッテが、再び紙袋を差し出してきた。今度は、迷わなかった。
「……では、いただきます」
手を伸ばし、青い花の形をした砂糖菓子を一つ取る。
口に含むと、先ほどとは違う、爽やかな甘さが広がった。
「それ、私のお気に入りなの。ラベンダーの香りがするでしょ?」
「……はい。美味しいです」
「でしょ?」
リーゼロッテが、嬉しそうに笑った。
その笑顔は、さっきまでの掴みどころのないものとは違って見えた。
ユーリアは、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
——この人のことは、まだわからない。
規則を軽んじる姿勢は、受け入れられない。
けれど——悪い人では、ないのかもしれない。
ほんの少しだけ、そう思った。
馬車は、街道を東へと進んでいく。
窓の外では、太陽が少しずつ
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