【第2節】『出会い(2)』

馬車は、街道を東へと進んでいた。

二頭立ての小さな馬車。御者台ぎょしゃだいにはやとわれの老人が座り、客室には向かい合わせの座席が二つ。リーゼロッテとユーリアは、それぞれの座席に腰を下ろしていた。

窓の外を、のどかな田園風景が流れていく。

麦畑が黄金色こがねいろに輝き、遠くにはゆるやかな丘陵きゅうりょうが連なっている。空は抜けるように青く、白い雲がゆっくりと流れていた。旅をするには絶好の日和だ。


けれど、ユーリアの心は晴れなかった。

向かいの座席では、リーゼロッテが窓枠にひじをついて外をながめている。時折、小さく鼻歌を歌いながら。その横顔は穏やかで、まるで遠足にでも来たかのような気楽さだった。


——この人は、任務だということをわかっているのだろうか。


ユーリアは背筋を伸ばしたまま、膝の上で手を組んでいた。姿勢をくずすつもりはない。たとえ馬車の中でも、監察官としての矜持きょうじは保たなければならない。

沈黙が続いていた。

出発してから、もう一時間は経っただろうか。リーゼロッテは特に会話を求めてこないし、ユーリアから話しかける理由もない。任務上の同行者であって、友人ではないのだから。


と、リーゼロッテが不意ふいに動いた。

座席のわきに置いていた小さなかばんを開け、中から何かを取り出す。

——お菓子だった。

小さな紙袋に入った、色とりどりの砂糖菓子。リーゼロッテはそれを一つまみ、口に放り込んだ。


「んー、美味しい!」


幸せそうに目を細める。ユーリアはまゆをひそめた。


「……あの、リーゼロッテ様」

「リーゼでいいって言ったでしょ?」

「……リーゼロッテ様。任務中にお菓子を召し上がるのは、いかがなものかと」

「えー、なんで?」


リーゼロッテは心底しんそこ不思議そうな顔をした。


「お腹が空いたら食べる。のどかわいたら飲む。当たり前のことでしょ?」

「当たり前かどうかではなく、規律の問題です。任務中は——」

「任務中だからって、お菓子を食べちゃいけない規則なんてあるの?」

「それは……」


言葉にまった。

確かに、そんな規則はない。任務中の飲食を禁じる条文じょうぶんなど、聞いたことがない。

リーゼロッテは、にやりと笑った。


「ほら、ないでしょ? 子犬ちゃんは規則が大好きなくせに、規則にないことまで自分で縛ってるのね~」

「自分でしばっているわけでは——」

「じゃあ、はい」


リーゼロッテが紙袋を差し出してきた。


「一つどうぞ。王都で評判のお店のやつなの。美味しいよ」

「いえ、結構です」

遠慮えんりょしないで」

遠慮えんりょではなく——」

「食べないと、ずっとこうしてるからね」


紙袋を持った手が、ユーリアの目の前で止まったまま動かない。

リーゼロッテは微笑んでいる。穏やかな、けれど有無を言わせない笑顔。

根負こんまけしたのは、ユーリアの方だった。


「……では、一つだけ」


仕方なく手を伸ばし、砂糖菓子を一つまむ。

あわ桃色ももいろの、花の形をした菓子だった。口に含むと、ふわりと甘い香りが広がった。

——美味しい。

思わず、そう思ってしまった。


「ね? 美味しいでしょ?」


リーゼロッテが得意げに笑う。

ユーリアは無言でうなずいた。くやしいが、認めざるを得ない。


「子犬ちゃんはさ」


リーゼロッテが言った。


「そんなに肩に力入れてると、疲れちゃうよ」

「……別に、力など入れていません」

「入れてるよ。見てるこっちがかたりそうなくらい」


リーゼロッテは自分も砂糖菓子を一つ口に入れ、窓の外に視線を戻した。


「森までまだ二日もあるのに、そんな調子で持つの? 緊張しすぎて倒れたら、本末転倒ほんまつてんとうでしょ」

「倒れたりしません。私は——」

「真面目だから? 規則正しいから?」


言葉を先回りされた。ユーリアは口をつぐんだ。


「……あなたには、わからないでしょう」


気がつけば、そんな言葉が口をついて出ていた。


「あなたのように才能に恵まれた人には。努力しなければ、認められない人間の気持ちなんて」


言ってから、しまった、と思った。

任務中に、感情的なことを言うべきではない。相手は監視対象だ。個人的な感情を見せるなど、監察官かんさつかんとして失格だ。

けれど、リーゼロッテは怒らなかった。ただ静かに、ユーリアを見つめていた。


「……そうかもね」


やがて、リーゼロッテは言った。


「私には、わからないのかも。子犬ちゃんの気持ちは」


その声には、からかいの色はなかった。

ただ穏やかに、受け止めるような響きがあった。


「ねえ、子犬ちゃん」

「……何ですか」

「どうして監察官になったの?」


唐突な問いだった。

ユーリアは一瞬、答えを躊躇とまどった。けれど、リーゼロッテの紫色の瞳は真剣しんけんだった。からかいでも、挑発でもない。純粋な、問いかけだった。


「……没落ぼつらく貴族きぞくの三女だと、ご存知なのでしょう」

「うん。グレイスから聞いた」

「なら、話は早いです」


ユーリアは窓の外に視線を向けた。

麦畑が流れていく。金色の波が、風に揺れている。


「私の実家は、かつては名のある貴族でした。けれど、父の代で没落ぼつらくしました。事業の失敗、借金、そして——」


言葉を切った。古い記憶が、胸の奥で疼く。


「……家族は散り散りになりました。姉たちはそれぞれとつぎ先を見つけましたが、三女の私には何もなかった。後ろ盾も、財産も、縁談の話も」

「それで、自分の力で生きることにしたの?」

「はい」


ユーリアはうなずいた。


「私には、特別な才能はありません。魔法の適性も、戦闘の素質も、人並み程度。でも——真面目に努力することだけは、できました」


ひざの上で、こぶしにぎりしめる。


「規則を守り、職務に励み、誰よりも真面目に働く。それが、私にできる唯一のことでした。そうすれば、認めてもらえると思った。居場所を作れると思った」

「……だから、規則を守ることが大事なのね」

「はい。規則は——私にとって、生きるための指針ししんなんです」


言葉にすると、改めて実感する。

規則を守ること。それは、ユーリア・ヴァイオレットという人間の存在証明だった。

才能がなくても、血筋ちすじがなくても、規則さえ守れば認められる。

そう信じて、三年間やってきた。

沈黙が降りた。

馬車の車輪が、石畳いしだたみむ音だけが響いている。


「そっか」


やがて、リーゼロッテが言った。

その声は、驚くほど柔らかかった。


「君は、真っ直ぐだね」

「……真っ直ぐ?」

「うん。まぶしいくらいに」


ユーリアは顔を上げた。

リーゼロッテは、窓の外を見つめていた。その横顔には、さっきまでのからかいの色はなかった。どこか遠くを見るような、寂しげな表情。


「私には、そんなふうに真っ直ぐ信じられるものがなかったから」

「……リーゼロッテ様?」

「ん、何でもない」


リーゼロッテは首を振り、いつもの軽い調子に戻った。


「子犬ちゃんの話、聞けてよかった。少し、君のことがわかった気がする」

「私のことなど、わかっていただかなくても——」

「わかりたいの。一緒いっしょに任務をするんだから」


リーゼロッテが、真っ直ぐにユーリアを見た。


「私はね、子犬ちゃん。仲間のことは知っておきたいの。どんな人で、何を大事にしていて、何のために戦うのか」

「仲間……」

「そう。少なくとも、この任務の間は仲間でしょ?」


仲間。その言葉が、胸の奥で反響した。

この人は——監視対象ではなく、仲間だと言っている。

ユーリアは、どう反応すればいいのかわからなかった。


「……私は、あなたを監視するために来たのですが」

「知ってる」

「それでも、仲間だと?」

「うん」


リーゼロッテは、あっさりと頷いた。


「監視でも何でもいいよ。でも、同じ目的のために動くなら、仲間じゃない? 難しく考えすぎだよ、子犬ちゃんは」


難しく考えすぎ。そうなのだろうか。

ユーリアには、わからなかった。この人の考え方は、自分とはあまりにも違う。

けれど——不思議と、嫌な気持ちはしなかった。


「お菓子、もう一つ食べる?」


リーゼロッテが、再び紙袋を差し出してきた。今度は、迷わなかった。


「……では、いただきます」


手を伸ばし、青い花の形をした砂糖菓子を一つ取る。

口に含むと、先ほどとは違う、爽やかな甘さが広がった。


「それ、私のお気に入りなの。ラベンダーの香りがするでしょ?」

「……はい。美味しいです」

「でしょ?」


リーゼロッテが、嬉しそうに笑った。

その笑顔は、さっきまでの掴みどころのないものとは違って見えた。

純粋じゅんすいに、嬉しそうな笑顔。

ユーリアは、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

——この人のことは、まだわからない。

規則を軽んじる姿勢は、受け入れられない。

自由奔放じゆうほんぽうな振る舞いも、理解しがたい。


けれど——悪い人では、ないのかもしれない。


ほんの少しだけ、そう思った。

馬車は、街道を東へと進んでいく。

窓の外では、太陽が少しずつかたむき始めていた。

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