Ⅰ『ロナンの涙~Teardrops Ronan~』

【第1節】『出会い(1)』

王都アルカディアの東門を出て、街道かいどうを半日ほど進んだ先に、小さな宿場町しゅくばまちがある。王都と東方の諸都市を結ぶ街道沿いに栄えた町で、旅人や商人たちの中継地点として賑わっていた。石畳いしだたみの広場には露店が並び、宿屋の看板が軒を連ねている。


ユーリア・ヴァイオレットは、指定された時刻じこくの三十分前にその町に到着した。


待ち合わせ場所は、広場の東端とうたんにある古い噴水ふんすいの前。グレイス局長から渡された書類には、そう記されていた。噴水ふんすいは、かつては美しかったのだろう。今はこけむした石造いしづくりのふち風化ふうかし、水を吹き上げる彫像ちょうぞうの顔も半ばくずれている。それでも、きよらかな水だけは絶えることなくき出ていた。


ユーリアは噴水ふんすいふちに腰を下ろし、周囲を見回した。

まだ相手の姿は見えない。

——当然だ。約束の時刻まで、まだ三十分もある。

自分が早く着きすぎただけのこと。待つのは苦ではない。

むしろ、遅刻するよりはずっといい。

かばんから書類を取り出し、改めて目を通す。


リーゼロッテ・アステリア。銀髪、紫眼。身長165センチ。年齢25歳。元魔法省まほうしょう魔法管理局まほうかんりきょく特級とっきゅう監察官かんさつかん。現在はフリーランスの魔法道具師まほうどうぐしとして活動中——


経歴書の写真を見つめる。

何度見ても、その美貌びぼうには目を奪われる。

整った顔立ち、どこか挑戦的な眼差し。くちびるはしに浮かぶ、皮肉めいた笑み。

美しい人だ、と思う。同時に、近寄りがたい雰囲気ふんいきがある。


——組織を捨てた裏切り者。規則を守れない問題児。


セレナから聞いたうわさが、頭をよぎる。

ユーリアは書類を閉じ、小さく息を吐いた。

先入観を持つな、とは思う。

グレイス局長も「最初から敵だと決めつけるな」と言っていた。

けれど——規則を軽視する人間を、どうやって信頼すればいいのだろう。

ユーリアには、わからなかった。


「——あら」


不意に、声が降ってきた。

鈴を転がすような、涼やかな声。


「お目付け役かしら? ふふ、随分ずいぶんと可愛い子を寄越よこしたものね」


ユーリアははじかれたように顔を上げた。


いつの間に——


噴水ふんすいの向こう側、古いかしの木の下。

木漏こもが降り注ぐその場所に、一人の女性が立っていた。

銀色の髪が、風に揺れている。陽光ようこうを受けて、絹糸きぬいとのように輝く長い髪。白い肌。そして——紫水晶むらさきすいしょうのような、深い紫色の瞳。

写真で見た通りの、いや、写真以上の美貌びぼうがそこにあった。

浮世離うきよばなれした、という表現が最も近いだろうか。人間離れした、と言ってもいいかもしれない。まるで御伽噺おとぎばなしから抜け出してきた妖精ようせいのような——そんな存在感。


彼女はかしの木にもたれかかり、手には一冊の本を持っていた。優雅ゆうがただずまい。まるで猫が日向ぼっこをしているような、気だるげで自由な空気をまとっている。


リーゼロッテ・アステリア。


間違いない。この人が、自分の「監視対象」だ。

ユーリアはあわてて立ち上がり、姿勢を正した。


「し、失礼しました。魔法省まほうしょう魔法管理局まほうかんりきょく三級さんきゅう監察官かんさつかん、ユーリア・ヴァイオレットです。本日より、リーゼロッテ・アステリア様の任務に同行するよう命じられて参りました」


敬礼。完璧な角度。規則通りの所作しょさ

リーゼロッテは本を閉じ、ゆっくりとこちらに歩いてきた。

近づいてくると、その美しさがより際立つ。

整った目鼻立ち、長い睫毛まつげ、形のいい唇。

身長はユーリアより少し高く、すらりとした体躯たいく

そして——その紫色の瞳が、ユーリアを上から下までながめ回した。

品定しなさだめをするような、値踏ねぶみをするような視線。

ユーリアは背筋せすじを伸ばしたまま、その視線を受け止めた。


「……子犬こいぬ?」


ようやく、声が出た。


「失礼ですが、私は正式な三級さんきゅう監察官かんさつかんです。子犬こいぬなどと呼ばれるいわれはありません」

「うん、知ってる」


リーゼロッテは、あっさりとうなずいた。


「ユーリア・ヴァイオレットちゃんでしょ? 没落ぼつらく貴族の三女で、後ろ盾もなく自力で監察官かんさつかんになった努力家。真面目で規則に忠実ちゅうじつで、上司からの評価は高い。でも同僚どうりょうからは——」


言葉を切り、リーゼロッテは悪戯いたずらっぽく笑った。


「【規律の番犬オーダー・ハウンド】って呼ばれてるんだって?」


心臓が、ねた。


「なぜ、それを……っ」

「グレイスから聞いたの。あの人、昔から情報通じょうほうつうだから」


グレイス局長が。自分のあだ名まで、この人に伝えていたのか。

ユーリアはくちびるんだ。屈辱くつじょくだった。初対面の相手に、自分の恥ずかしい呼び名を知られている。しかもそれを、平然と口にされる。


「……その呼び名は、好きではありません」

「そう?」


リーゼロッテは首をかしげた。銀髪がさらりと揺れる。


「私は好きよ、響きが可愛くて」

「可愛い……?」

「うん。忠実で、真っ直ぐで、一生懸命で。番犬って、そういう生き物でしょ? ご主人様のために頑張る、健気けなげな子」


めているのか、馬鹿にしているのか。

その口調からは、判断がつかなかった。


「ね、子犬こいぬちゃん」


リーゼロッテが、にっこりと笑う。

その笑顔は、確かに美しかった。けれど同時に、どこかつかみどころがない。

本心が見えない。何を考えているのか、全くわからない。

ユーリアはまゆをひそめた。


「……子犬こいぬちゃん、と呼ぶのはやめていただけませんか」

「嫌よ」


即答だった。


「だって可愛いんだもの、子犬こいぬちゃんって。ユーリアって呼ぶより、ずっとしっくりくるわ」

「しっくりくるかどうかの問題ではなく——」

「ほら、そうやってムキになるところも子犬こいぬっぽい」


リーゼロッテはくすくすと笑った。

からかわれている。明らかに、からかわれている。

ユーリアはこぶしにぎりしめた。初対面から、この調子。噂通うわさどおりの——いや、うわさ以上の自由奔放じゆうほんぽうさだ。


「あのですね、リーゼロッテ様」

「リーゼでいいよ」

「……リーゼロッテ様。私は遊びに来たわけではありません。これは正式な任務です。魔法省の命を受けて、あなたに同行し——」

「監視するんでしょ?」


言葉をさえぎられた。

リーゼロッテの紫色の瞳が、真っ直ぐにユーリアを見つめている。

さっきまでの悪戯いたずらっぽさは消え、どこか冷ややかな光が宿っていた。


「グレイスの考えそうなことだわ。私一人じゃ何をするかわからないから、真面目な監察官をつけて手綱たづなにぎらせようって」

「……それは」

図星ずほしでしょ?」


否定できなかった。

まさに、グレイス局長はそう言っていたのだから。

リーゼロッテは小さくため息をついた。


「まあ、いいけどね。ついてくるなら勝手についてくれば? 邪魔じゃまさえしなければ、文句もんくは言わないわ」

邪魔じゃまなどしません。私はただ、規則に従って——」

「規則、規則、規則」


リーゼロッテが、歌うように言った。


子犬こいぬちゃんは規則が大好きなのね。規則さえ守っていれば、全部うまくいくと思ってる?」


挑発だ、とわかっていた。

けれど、黙っていられなかった。


「……規則は、守るべきものです。規則があるから秩序ちつじょが保たれる。規則があるから、正しいことと間違ったことの区別がつく」

「ふうん」


リーゼロッテは興味なさそうに相槌あいづちを打った。


「じゃあ聞くけど、子犬ちゃん。規則を守った結果、誰かが不幸になったら? それでも規則は正しいの?」

「そんなことは——」

「あるのよ。いくらでも」


リーゼロッテの声が、少しだけ低くなった。


「規則を守った結果、救えなかった命がある。規則に従った結果、見捨てなければならなかった人がいる。私は、そういうのをたくさん見てきたの」


ユーリアは言葉にまった。

その声には、からかいの色はなかった。冗談でも、挑発でもない。

本気の、重い響きがあった。


「……だから、組織を辞めたのですか」

「さあ、どうかしらね」


リーゼロッテは肩をすくめ、再び軽い口調に戻った。


「そんな話は後でいいでしょ。とりあえず、行きましょうか。馬車を手配してあるの。森までは丸二日かかるわ」


きびすを返し、歩き出す。

ユーリアは、その背中を見つめた。

銀色の髪が、風に揺れている。

掴みどころがない。何を考えているのかわからない。

馴れ馴れしくて、自由奔放じゆうほんぽうで、規則を軽んじている。

――けれど。

さっきの言葉が、むねの奥に引っかかっていた。

規則を守った結果、救えなかった命。見捨てなければならなかった人。

それは——どういう意味なのだろう。


「ほら、子犬こいぬちゃん。置いていくわよ?」


振り返ったリーゼロッテが、手招てまねきをしている。

ユーリアは小さく首を振り、その後を追った。

この人のことは、まだ何もわからない。

けれど——わからないからこそ、見極めなければならない。

それが、自分の任務だ。

そう言い聞かせながら、ユーリアは歩き出した。

規律きりつ番犬ばんけん〟として。

そして——まだ自分でも気づいていない、何かを探し求めて。

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