【第2節】『正しさの証明』

魔法省まほうしょう本庁舎ほんちょうしゃは、王城の東側に位置する白亜はくあの建物だ。


七階建ての威容いようは、王都おうとでも五本の指に入る規模をほこる。正面玄関げんかん大扉おおとびらをくぐると、広大こうだいなエントランスホールが来訪者らいほうしゃむかえた。高い天井からは魔法灯まほうとうのシャンデリアが下がり、床には王国の紋章もんしょうかたどった大理石のモザイクがめられている。


朝のこの時間、ホールにはまだ人影もまばらだ。

受付の職員に軽く会釈えしゃくをして、ユーリアは階段へ向かった。魔法管理局まほうかんりきょくは四階にある。昇降しょうこう用の転移魔法陣てんいまほうじんもあるが、彼女は階段を使う習慣だった。規則で定められているわけではない。ただ、自分の足で歩くことに意味があると思っていた。

一段一段、同じリズムで上っていく。

四階の廊下ろうかに出ると、すれ違う同僚どうりょう姿すがたがちらほらと見えた。


「——おはようございます」


ユーリアは立ち止まり、丁寧ていねい挨拶あいさつをした。

すれ違った男性職員が、一瞬だけかた強張こわばらせる。


「あ、ああ……おはよう、ヴァイオレット君」


返ってきた声には、どこかぎこちなさがあった。目を合わせようとしない。

早足あしばやで去っていく背中を、ユーリアは無表情に見送った。

歩き出す。

廊下ろうかの向こうから、別の同僚どうりょうたちがやってくる。二人組の男性職員だ。談笑だんしょうしながら歩いていた彼らは、ユーリアの姿すがたを認めると、不自然に声をひそめた。


「……おはようございます」

「お、おはよう」


足早あしばやに去っていく。

その背中に、小さなささやきが追いかけてきた。聞こえないように言っているつもりなのだろう。けれど、監察官かんしかんとして訓練くんれんを受けたユーリアの耳は、その言葉をはっきりととらえていた。


「……今日も早いな、あいつ」

「真面目っていうか、怖いよな。この前も報告書の書式が違うって、ベテランの先輩に詰め寄ってたし」

「ああ、聞いた聞いた。【規律の番犬オーダー・ハウンド】だろ? マジで関わりたくねえ」

「犬っていうか、もはや猟犬りょうけんだよ。獲物えものを見つけたら絶対に逃がさない」


笑い声が遠ざかっていく。

ユーリアは足を止めなかった。振り返りもしなかった。

――【規律の番犬オーダー・ハウンド】。

その呼び名を、彼女は知っていた。いつから呼ばれ始めたのかは覚えていない。入省にゅうしょうして半年も経たないころには、すでにその名は定着していたように思う。

嫌ではない、と言えば嘘になる。

犬。番犬ばんけん猟犬りょうけん

まるで人間扱いされていないような響き。

意思を持たず、ただ規則に従うだけの存在だと——そう言われているようで。


けれど。


——規則を守ることの、何が悪いのだろう。


ユーリアは静かに、自分にそう問いかける。

報告書には定められた書式がある。それを守らなければ、情報の伝達に齟齬そごが生じる。齟齬そごは誤解を生み、誤解は事故を招く。魔法管理局まほうかんりきょくが扱うのは、時に人の命を左右する案件だ。

『アストレア』と呼ばれる危険な魔法道具まほうどうぐは、一歩間違えれば街一つを消し飛ばす力を持つものもある。

些細ささい怠慢たいまんが、取り返しのつかない結果を招くこともある。

だから規則がある。だから書式がある。だから手続きがある。

それを守らせようとすることが、なぜうとまれるのか。

ユーリアには、わからなかった。

いや——わかりたくなかった、というべきかもしれない。

規則を守ることでしか、自分の価値を証明できない。

規則を守ることでしか、この場所にいる資格を得られない。


没落ぼつらくした貴族家の三女。後ろたてもなく、財産もなく、ただ自分の力だけでい上がってきた。魔法の才能は平凡へいぼん。戦闘能力も突出とっしゅつしているわけではない。それでも魔法管理局まほうかんりきょく監察官かんさつかんになれたのは、誰よりも規則を守り、誰よりも真面目に職務しょくむに取り組んできたからだ。


それが、ユーリア・ヴァイオレットという人間の全てだった。

だから——番犬ばんけんと呼ばれても構わない。規則を守る番犬ばんけんで、何が悪い。


執務室しつむしつの扉を開ける。

予想通り、室内にはまだ誰もいなかった。整然せいぜんと並んだ机、壁に掛けられた王国の地図、たなおさめられた書類の束。見慣れた光景の中を歩き、自分の席に向かう。

椅子いすを引き、腰を下ろす。

机の上には、昨日のうちに整理しておいた書類が積まれていた。今日の予定を確認し、未処理みしょりの案件を頭の中で整理する。いつもと同じ朝の始まり。いつもと同じ、規則正しい一日の幕開け——


「ユーリアー! おっはよー!」


突然、背後はいごから飛んできた声に、肩がねた。

振り返ると、茶色のショートカットをらした快活かいかつな顔が、すぐそこにあった。そばかすの浮いた頬、人懐ひとなつっこいみ。


セレナ・オーウェン。

同期入省の三級監察官かんさつかんにして、ユーリアにとって唯一ゆいいつ「友人」と呼べる存在だった。


「セレナ……驚かせないでと、何度言えばわかるの」

「えー、だってユーリアったら、声かけても全然気づかないんだもん。また考え事?」

「考え事というか、今日の業務の確認を……」

「はいはい、真面目まじめ真面目まじめ


セレナは肩をすくめながら、となりの机に腰を下ろした。彼女の席だ。二人は入省以来、ずっと隣同士の配置だった。


「今日も早いねえ、ユーリアは。私なんて起きたの三十分前だよ」

「……それは早起きではなく、ギリギリと言うのでは?」

「間に合えばいいの、間に合えば。ユーリアみたいに一時間も前から来てる方が異常なんだって」


「異常」と言われると少し傷つく。

けれどセレナに悪意がないことは、三年の付き合いでよくわかっていた。彼女は思ったことをそのまま口にする性格なのだ。裏表がない、とも言える。だからこそユーリアは、この同期とだけは打ち解けることができた。

他の同僚どうりょうたちは、ユーリアを遠ざける。

けれどセレナは違った。

規律の番犬オーダー・ハウンド】と呼ばれるユーリアに、初日から屈託くったくなく話しかけてきた。からかいはしても、馬鹿にはしない。あきれはしても、見下しはしない。それが、ユーリアには少しだけありがたかった。


「ねえねえ、聞いた?」


セレナが身を乗り出してきた。声をひそめているが、目は好奇心こうきしんで輝いている。


「昨日、第七記録室の書庫で、レントン先輩が報告書を書き直してたんだって。誰かさんに書式の不備を指摘してきされたから」

「……それが何か?」

「何かって、ユーリア、またやったんでしょ。報告書の誤字とか書式違反とか、指摘してきしたの」


ユーリアはまゆをひそめた。


「誤字ではないわ。日付の記載きさい位置いちが規定と異なっていただけ。それと、承認印しょうにんいん押印欄おういんらんが——」

「ほらやっぱり!」


セレナが声を上げた。あわてて周囲を見回し、誰もいないことを確認してから、あきれたように首を振る。


「レントン先輩、入省十二年目のベテランだよ? それを三級の新人が指摘してきするって、普通に考えてすごい度胸どきょうだと思うんだけど」

「先輩も新人も関係ないわ。規則は規則よ。誰であっても守るべきものを守っていなければ、指摘してきするのは当然のこと」

「それはそうかもしれないけどさあ……」


セレナは言葉をにほした。言いたいことはわかる。

「空気を読め」と言いたいのだろう。「年長者ねんちょうしゃの顔を立てろ」と言いたいのだろう。

けれど、ユーリアにはできなかった。

規則を曲げることは、できない。誰が相手でも。


「ユーリアは真面目まじめすぎるんだよ」


セレナがため息をついた。


「もうちょっと肩の力抜いた方がいいって。そんなにガチガチだと、いつか折れちゃうよ?」

「折れる?」

「んー、なんていうか……」


言葉を探すように、セレナは視線をちゅうに泳がせた。


「規則を守るのは大事だけどさ。世の中、規則だけじゃどうにもならないこともあるっていうか……」

「規則を守るのは当然のことよ」


ユーリアは静かに、けれどるぎない声で言った。


「規則があるから、私たちは迷わずに済む。何が正しくて、何が間違っているか。規則は、そのための道標みちしるべなの」


セレナは何か言いかけて、結局は小さく肩をすくめた。

この話は平行線だ。三年間、何度も繰り返してきた会話。お互いの考えが違うことはわかっている。それでも友人でいられるのは、セレナが「違い」を否定しない人間だからだ。


「……まっ、ユーリアらしいっちゃらしいけどね」

「どういう意味?」

「褒めてるの、一応」


セレナは笑って、それから何かを思い出したように手を打った。


「あ、そうだ。話変わるけどさ、聞いた? 最近のうわさ

うわさには興味がないわ」

「まあまあ、そう言わずに」


セレナが声をひそめた。今度は本当に内緒話ないしょばなしをするような、ひそやかな声音こわねだ。


「リーゼロッテ・アステリアが、また動いてるんだって」


その名前を聞いた瞬間、ユーリアの手が止まった。


「……リーゼロッテ・アステリア」

「そう、元特級とっきゅう監察官かんさつかん。史上最年少で特級とっきゅう昇進しょうしんした天才。ユーリアも知ってるでしょ?」


知っている。知らないはずがなかった。

魔法省まほうしょうに入省した者なら、誰もがその名を聞かされる。

伝説として。あるいは——反面教師はんめんきょうしとして。


「二年前に辞めたはずの人間が、なんでまた動いてるの」

「さあ? でもうわさじゃ、フリーランスの魔法道具師まほうどうぐしとして活動してるらしいよ。勝手にアストレアを回収して回ってるとか」

「勝手に……? それは明らかな越権行為えっけんこういよ。違法いほうに近いわ」

「だよねえ~ でも上は黙認もくにんしてるみたい。なんだかんだ言って、結果は出してるからって」


ユーリアはまゆをひそめた。

規則を無視して、勝手に『アストレア』を回収する。

それが許されるのか。結果を出せば、手段は問われないのか。

そんな道理が、ユーリアには理解できなかった。


「天才だけど問題児、ってやつだよね」


セレナが続けた。


「在籍中もすごかったらしいよ。上司に平気で口答えするし、命令無視は日常茶飯事にちじょうさはんじだし、報告書なんてまともに出したことないとか。でも実力だけは本物で、どんな難事件も解決しちゃうから、誰も文句もんく言えなかったんだって」

「……そんな人間が、特級とっきゅう監察官かんさつかんだったの」

「しかも本家直系の〝星詠ほしよみ一族〟だよ? 〝伝説の魔導士まどうし〟アステリウスの血を引く正真正銘しょうしんしょうめいの名門。才能も血筋ちすじも申し分ない。なのに組織を捨てて出ていった。理由は誰も知らないんだって」


――『星詠ほしよみ一族』。

その名は、魔法史まほうしにおいて特別な意味を持つ。

千年前、世界を救ったとされる伝説の魔導士まどうし——『星詠ほしよみのアステリウス』。

彼がのこした血統けっとうは、代々優れた魔法の才能を受け継いできた。

星の声を聴き、星の力を操る者たち。魔法道具まほうどうぐ『アストレア』を生み出した始祖しそ末裔まつえい


リーゼロッテ・アステリアは、その本家直系だという。


「どう思う? ユーリア」


セレナの問いかけに、ユーリアは冷ややかに答えた。


「どうも何も。組織を捨てた裏切り者でしょう」

「裏切り者かあ。厳しいね」

「厳しい? 事実を言っているだけよ」


ユーリアの声には、隠しきれない軽蔑が滲んでいた。


「どれだけ才能があっても、どれだけ血筋ちすじすぐれていても——規則を守れない人間は、信用にあたいしないわ。まして組織を捨てるなんて、無責任にも程がある。そんな人間は、軽蔑けいべつに値する」


言葉にすると、むねおくで何かが固くまるのを感じた。

才能。血筋ちすじ。自分には、どちらもない。

だからこそ規則を守り、真面目に努力することでしか、存在価値を示せない。

そうやって三年間、必死に積み上げてきた。


なのに——才能と血筋ちすじに恵まれた人間が、それを捨てる。

規則を軽んじ、組織を裏切り、自分勝手に生きる。

許せない、と思った。理解できない、と思った。


「ユーリアって、本当にブレないよね」


セレナが苦笑した。その声にはあきれと、どこか感心したような響きがあった。


「私には絶対マネできないなあ、そういうの」

「別にマネしなくていいわ。これは私の——」


その時、執務室しつむしつの扉が開いた。

入ってきたのは、局長秘書の若い男性だった。彼はユーリアの姿を認めると、真っ直ぐにこちらへ歩いてきた。


「ヴァイオレット三級さんきゅう監察官かんさつかん

「はい」

「グレイス局長がお呼びです。至急、局長室へお越しください」


局長直々の呼び出し。三級さんきゅう監察官かんさつかんには滅多めったにないことだ。

ユーリアは立ち上がり、制服のえりを正した。セレナが目を丸くしてこちらを見ている。


「……行ってくるわ」

「う、うん。頑張って」


執務室しつむしつを出る。

廊下ろうかを歩きながら、ユーリアは頭の中を整理した。局長からの呼び出し。何か重要な案件だろうか。あるいは、自分の勤務態度について何か言われるのか。


——まさか、報告書の件で先輩たちから苦情が出たとか。


少しだけ、胃が重くなった。

けれど規則を守ったことを後悔する気持ちはなかった。

たとえ何を言われても、自分は正しいことをした。

そう信じて——ユーリアは、局長室の扉の前に立った。

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