【第2節】『正しさの証明』
七階建ての
朝のこの時間、ホールにはまだ人影もまばらだ。
受付の職員に軽く
一段一段、同じリズムで上っていく。
四階の
「——おはようございます」
ユーリアは立ち止まり、
すれ違った男性職員が、一瞬だけ
「あ、ああ……おはよう、ヴァイオレット君」
返ってきた声には、どこかぎこちなさがあった。目を合わせようとしない。
歩き出す。
「……おはようございます」
「お、おはよう」
その背中に、小さな
「……今日も早いな、あいつ」
「真面目っていうか、怖いよな。この前も報告書の書式が違うって、ベテランの先輩に詰め寄ってたし」
「ああ、聞いた聞いた。【
「犬っていうか、もはや
笑い声が遠ざかっていく。
ユーリアは足を止めなかった。振り返りもしなかった。
――【
その呼び名を、彼女は知っていた。いつから呼ばれ始めたのかは覚えていない。
嫌ではない、と言えば嘘になる。
犬。
まるで人間扱いされていないような響き。
意思を持たず、ただ規則に従うだけの存在だと——そう言われているようで。
けれど。
——規則を守ることの、何が悪いのだろう。
ユーリアは静かに、自分にそう問いかける。
報告書には定められた書式がある。それを守らなければ、情報の伝達に
『アストレア』と呼ばれる危険な
だから規則がある。だから書式がある。だから手続きがある。
それを守らせようとすることが、なぜ
ユーリアには、わからなかった。
いや——わかりたくなかった、というべきかもしれない。
規則を守ることでしか、自分の価値を証明できない。
規則を守ることでしか、この場所にいる資格を得られない。
それが、ユーリア・ヴァイオレットという人間の全てだった。
だから——
予想通り、室内にはまだ誰もいなかった。
机の上には、昨日のうちに整理しておいた書類が積まれていた。今日の予定を確認し、
「ユーリアー! おっはよー!」
突然、
振り返ると、茶色のショートカットを
セレナ・オーウェン。
同期入省の三級
「セレナ……驚かせないでと、何度言えばわかるの」
「えー、だってユーリアったら、声かけても全然気づかないんだもん。また考え事?」
「考え事というか、今日の業務の確認を……」
「はいはい、
セレナは肩をすくめながら、
「今日も早いねえ、ユーリアは。私なんて起きたの三十分前だよ」
「……それは早起きではなく、ギリギリと言うのでは?」
「間に合えばいいの、間に合えば。ユーリアみたいに一時間も前から来てる方が異常なんだって」
「異常」と言われると少し傷つく。
けれどセレナに悪意がないことは、三年の付き合いでよくわかっていた。彼女は思ったことをそのまま口にする性格なのだ。裏表がない、とも言える。だからこそユーリアは、この同期とだけは打ち解けることができた。
他の
けれどセレナは違った。
【
「ねえねえ、聞いた?」
セレナが身を乗り出してきた。声を
「昨日、第七記録室の書庫で、レントン先輩が報告書を書き直してたんだって。誰かさんに書式の不備を
「……それが何か?」
「何かって、ユーリア、またやったんでしょ。報告書の誤字とか書式違反とか、
ユーリアは
「誤字ではないわ。日付の
「ほらやっぱり!」
セレナが声を上げた。
「レントン先輩、入省十二年目のベテランだよ? それを三級の新人が
「先輩も新人も関係ないわ。規則は規則よ。誰であっても守るべきものを守っていなければ、
「それはそうかもしれないけどさあ……」
セレナは言葉を
「空気を読め」と言いたいのだろう。「
けれど、ユーリアにはできなかった。
規則を曲げることは、できない。誰が相手でも。
「ユーリアは
セレナがため息をついた。
「もうちょっと肩の力抜いた方がいいって。そんなにガチガチだと、いつか折れちゃうよ?」
「折れる?」
「んー、なんていうか……」
言葉を探すように、セレナは視線を
「規則を守るのは大事だけどさ。世の中、規則だけじゃどうにもならないこともあるっていうか……」
「規則を守るのは当然のことよ」
ユーリアは静かに、けれど
「規則があるから、私たちは迷わずに済む。何が正しくて、何が間違っているか。規則は、そのための
セレナは何か言いかけて、結局は小さく肩をすくめた。
この話は平行線だ。三年間、何度も繰り返してきた会話。お互いの考えが違うことはわかっている。それでも友人でいられるのは、セレナが「違い」を否定しない人間だからだ。
「……まっ、ユーリアらしいっちゃらしいけどね」
「どういう意味?」
「褒めてるの、一応」
セレナは笑って、それから何かを思い出したように手を打った。
「あ、そうだ。話変わるけどさ、聞いた? 最近の
「
「まあまあ、そう言わずに」
セレナが声を
「リーゼロッテ・アステリアが、また動いてるんだって」
その名前を聞いた瞬間、ユーリアの手が止まった。
「……リーゼロッテ・アステリア」
「そう、元
知っている。知らないはずがなかった。
伝説として。あるいは——
「二年前に辞めたはずの人間が、なんでまた動いてるの」
「さあ? でも
「勝手に……? それは明らかな
「だよねえ~ でも上は
ユーリアは
規則を無視して、勝手に『アストレア』を回収する。
それが許されるのか。結果を出せば、手段は問われないのか。
そんな道理が、ユーリアには理解できなかった。
「天才だけど問題児、ってやつだよね」
セレナが続けた。
「在籍中もすごかったらしいよ。上司に平気で口答えするし、命令無視は
「……そんな人間が、
「しかも本家直系の〝
――『
その名は、
千年前、世界を救ったとされる伝説の
彼が
星の声を聴き、星の力を操る者たち。
リーゼロッテ・アステリアは、その本家直系だという。
「どう思う? ユーリア」
セレナの問いかけに、ユーリアは冷ややかに答えた。
「どうも何も。組織を捨てた裏切り者でしょう」
「裏切り者かあ。厳しいね」
「厳しい? 事実を言っているだけよ」
ユーリアの声には、隠しきれない軽蔑が滲んでいた。
「どれだけ才能があっても、どれだけ
言葉にすると、
才能。
だからこそ規則を守り、真面目に努力することでしか、存在価値を示せない。
そうやって三年間、必死に積み上げてきた。
なのに——才能と
規則を軽んじ、組織を裏切り、自分勝手に生きる。
許せない、と思った。理解できない、と思った。
「ユーリアって、本当にブレないよね」
セレナが苦笑した。その声には
「私には絶対マネできないなあ、そういうの」
「別にマネしなくていいわ。これは私の——」
その時、
入ってきたのは、局長秘書の若い男性だった。彼はユーリアの姿を認めると、真っ直ぐにこちらへ歩いてきた。
「ヴァイオレット
「はい」
「グレイス局長がお呼びです。至急、局長室へお越しください」
局長直々の呼び出し。
ユーリアは立ち上がり、制服の
「……行ってくるわ」
「う、うん。頑張って」
——まさか、報告書の件で先輩たちから苦情が出たとか。
少しだけ、胃が重くなった。
けれど規則を守ったことを後悔する気持ちはなかった。
たとえ何を言われても、自分は正しいことをした。
そう信じて——ユーリアは、局長室の扉の前に立った。
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