第7話 星の連なりと、翻訳家の仕事

 事務所の会議室にて、葛城社長は一枚の紙をテーブルに放り投げた。


「ユニット名はこれで行く」


 そこには、太いマジックで力強く、一単語だけが記されていた。


 『Sirius(シリウス)』


「シリウス……おおいぬ座のアルファ星ですね」


 私が呟くと、隣に座っていたあかりが小首を傾げた。


「しりうす? 一番明るい星のことだよね?」

「ああ。全天で最も光り輝く恒星だ。あかりの輝きを表現するには、これ以上ない名前だと思う」


 私はあくまで冷静に評したが、内心では葛城社長のセンスに舌を巻いていた。

 シリウス。その語源はギリシャ語の「焼き焦がすもの」。まさに、あかりの輝きは見る者の網膜を焼き尽くすほど眩しい。

 それに──シリウスは、肉眼では一つの星に見えるが、実体は「シリウスA」と「シリウスB」からなる連星だ。

 強烈な光を放つ主星と、その周囲を回りながら重力的に支え合う伴星。

 それは、私たちがこれから演じようとしている「光と影(姫と騎士)」の関係そのものではないか。


「気に入ったか?」

「……ええ。悪くありません」


 私が澄ました顔で答えると、葛城社長はニヤリと笑い、あかりは「わぁ、かっこいい名前!」と嬉しそうに手を叩いた。


          ◇


 ユニット名が決まった数日後。

 私たちは都内の音楽スタジオに呼び出されていた。

 これから始まるのは、デビューに向けた本格的なボーカルトレーニングだ。


「おはようございます! よろしくお願いします!」


 あかりが元気よく挨拶をしてスタジオに入る。

 その直後、張り詰めた空気が肌を刺した。


「……声が小さいわね」


 ピアノの前に座っていたのは、仕立ての良いスーツを着た四十代くらいの女性だった。

 手には扇子。切れ長の瞳は、蛇のように鋭い。

 業界でも有名な鬼教官、美琴(みこと)先生だ。


「アイドルごっこなら他所でやってちょうだい。ここはプロが喉を削って命を燃やす場所よ」

「す、すみません……!」


 あかりが萎縮して肩を震わせる。

 私は一歩前に出てあかりを庇おうとしたが、美琴先生の鋭い視線に制された。


「あなたは黙ってて。まずは西園寺さん、あなたからよ。ブースに入りなさい」


 レッスンは、過酷を極めた。

 あかりには天性の歌声がある。それは間違いない。だが、基礎体力と発声の安定感、そして何より「表現の引き出し」がまだ足りていない。


「違う! ただ音程をなぞってるだけじゃない!」


 美琴先生の扇子が譜面台を叩く音が、スタジオに響く。


「この曲の主人公は、愛する人と離れ離れになって絶望してるのよ? あんたの歌は、ただ『寂しいです』って作文を読んでるだけ。もっと胸をえぐるような悲痛さが欲しいの!」

「は、はい……!」


 あかりは必死に歌う。

 だが、怒鳴られれば怒鳴られるほど、あかりの体は強張り、声は細くなっていく。

 あかりは感受性が豊かだ。だからこそ、否定的な言葉を浴び続けると、心が先に折れてしまう。


「……ダメね。休憩」


 美琴先生が冷たく告げた。

 あかりはブースから出てくると、私の隣に座り込み、膝に顔を埋めてしまった。


「うぅ……紫苑ちゃん……私、やっぱり向いてないのかな……」


 その声は涙で湿っていた。

 私は静かにあかりの背中を撫でる。その背中は、小鳥のように震えていた。


(……先生の言っていることは、技術的には正しい)


 私は冷静に分析する。

 だが、その指導法(アプローチ)は、西園寺あかりという生き物には合っていない。彼女に必要なのは、恐怖による支配ではなく、イメージによる没入だ。


「あの、先生」


 私は立ち上がり、美琴先生に向き直った。


「部外者が口を挟むなと言われそうですが、一つだけ提案させてください」

「なによ。あなたが代わりに歌うつもり?」

「いいえ。……通訳をするだけです」


 私は怪訝な顔をする先生を背に、あかりの元へ屈み込んだ。

 そして、彼女の涙で濡れた頬に触れないよう、そっと耳元に顔を寄せた。


(……ああ、ごめん。あかり)


 これから私が紡ぐ言葉は、あかりを傷つける刃だ。

 世界で一番笑顔でいてほしい推しに、絶望を植え付けるなんて。私の良心が、ファンとしての矜持が、やめろと叫んでいる。

 でも、あかりの夢を叶えるためには、今だけ私が悪役になるしかない。


 私は胸が張り裂けそうな罪悪感を飲み込み、祈るように囁いた。


「あかり……聞いて。少しだけ、怖い想像をしてほしい」

「……怖い、想像?」

「うん。……雨の降る公園だと思って。時間は夜中の二時」


 私はあかりの脳内に景色を描くように、優しく、ゆっくりと言葉を置いた。


「あかりはそこで、誰かが迎えに来てくれるのを待ってる。寒くて、お腹が空いて、震えてるんだ」

「うん……」

「でもね……誰も、迎えに来ない」


 あかりの肩がビクッと跳ねた。


「紫苑ちゃんが……来ない?」

「そうだよ。私が『もうあかりはいらない』って言って……あかりを置いて、どこかへ行ってしまったとしたら」


 口に出している私自身が、呼吸困難になりそうだった。

 ありえない。私がこの子を手放すなんて、天地がひっくり返ってもありえない。

 けれど、あかりにとって一番の「絶望」が私(の不在)であるなら、それを使うしかない。


「二度と会えないかもしれない。……その時、あかりはどうやって私を呼ぶ?」


 効果は覿面だった。

 あかりの瞳孔が開き、ハイライトが消えていく。


「……やだ」


 あかりが立ち上がった。

 その横顔には、先ほどまでの怯えとは違う、切迫した色が張り付いていた。

 私の袖を掴もうとする手を振り切り、彼女はふらりとブースへと戻っていった。


 イントロが流れる。

 あかりがマイクを握りしめ、息を吸い込む。


「♪──行かないで」


 その第一声が響いた瞬間、スタジオの温度が数度下がったような錯覚を覚えた。

 悲痛。孤独。そして縋るような渇望。

 技術的な拙さはまだある。だが、そこに乗せられた感情の質量は、聴く者の心臓を直接握り潰すかのような重みを持っていた。


「…………ッ」


 美琴先生が、扇子を持つ手を止めて息を呑んでいる。

 曲の終わり、あかりが消え入りそうな声で最後のフレーズを歌い切ると、スタジオには重苦しい余韻が残った。


 あかりはハッとして我に返り、ガラス越しに私を見た。

 その目は「捨てないで」と訴えていて、私は思わず親指を立ててみせた。大丈夫だ、私はどこにも行かない。


「……はぁ」


 美琴先生が、大きなため息をついた。


「認めるわ。……あなたたち、面白い関係ね」

「恐縮です」

「猛獣使いがいないと吠えられない子犬、ってところかしら。……いいわ、その調子で続けなさい」


 先生の口元に、微かな笑みが浮かんでいた。

 私はあかりがブースから飛び出してきて「紫苑ちゃぁぁん!」と抱きついてくるのを受け止めながら、安堵の息を吐いた。


 シリウスは連星だ。

 片方が輝くためには、もう片方の重力が必要不可欠なのだと、改めて思い知らされた気がした。

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